僕の正解を

「真桜の髪、本当綺麗だよね」

チョコレートみたいな色で、長くって、全然傷んでなくて。目の前の幼馴染はきらきらした目で続ける。

「そうかな」

私は自前の一つにまとめた長髪を少し手に取ると、特に何の感想も抱けないまま、元の位置に戻した。


中学二年生の夏という時期は、何かしら大きな出来事が起こりやすいものなんだということを、歳の離れた兄からよく聞いていた。実波には学年も季節も関係無いなあ、と、二人で教室に残ってただ話しているこの相手――夏山なつやま実波みなみをぼんやりと眺めて思う。小学校の低学年辺りから付き合いのある実波は、とにかく恋多き人物だった。あの人のここがかっこいい。あんな姿に憧れちゃう。人の長所を見出すことが上手いのは良いことだけれど、実波はちょっと見出しすぎだ。


「好きな人、また出来たんだね」

図星のようで、漫画とかドラマとかみたいに綺麗に咽せる実波。分かるよ、これだけ一緒にいるんだもの。どうせロングヘアが好みの人なんでしょ。

「……今度は今までで一番好きな気がするの」

「それ毎回聞いてるけど……」

同じクラスの人?あ、やっぱりそうなんだ。何年続けているか分からないやり取りを、また繰り返す。誰々くんなんだけど、と結局自分で言ってしまうところまでがお決まりで、その運びになることは初めからよく分かっていたけれど、私はこの流れが嫌いになれなくて、結局毎回相談に付き合っていた。今回の相手は名前を春樹はるきと言って、私は去年から、実波は今年から同じクラスになった男子生徒だった。


「キーホルダーをくれたの」

実波が結んでいた口を控えめに開く。必ず私が好きになったきっかけや理由を問うので、ついに彼女から先に話し始めようと決めたらしかった。

「最初は、私がいいなって言ったものを、欲しいならあげるよ、ってくれたんだけど。次の日になって、家にあるものをいっぱい持ってきてくれてね」

「ああ、あれか。朝に机に広げてたやつ」

「そう。私にも可愛いのをくれて、いっぱいありすぎるからってクラスの皆にもあげてて」

近い記憶を軽く辿れば、話題の彼から私の手元に渡ったばかりの、愛らしい柴犬のストラップの顔が浮かぶ。確か、以前に会話の中でなんとなく伝えた、私が犬派であるということを覚えていてくれたからだったはずだ。

「春樹くん、クラスのみんなの好きなもの、いっぱい覚えてて。それってよく周りを見てて、気が回るってことだと思うの。それで、ええと…………」

「……良い人だって思った?」

補うと、実波がこくこくと頷いた。


実波は人のことを好きになりやすい。それは決して飽きっぽいという意味ではなく、すぐに慕う相手が増えてしまうが故にが変わりやすいというのが彼女の本質だ。よって、恋人を作る前に、別の相手に目が留まってしまうのが常だった。


今回はいつまで続くのかな。片手に収まらない年数の付き合いの中から最短記録と最長記録をそれぞれ追憶しながら、私は再び実波の話に耳を傾けた。それは、単に興味があったから、親友だから、だけじゃなくて、私の方から出せる話題など無かったからでもあった。



* * *



衣替えをして、秋の学校行事を幾つも終えて、涼しいね、が寒いね、に取って代わられてしばらく経った頃。


「春樹くんと、付き合うことになって」

「え」

不意に小さな母音だけが喉奥から漏れる。実波は、溢れそうな笑みを口の端で抑えて、私の手を温かい両手で包んだ。きらきらした瞳が私を刺す。間近に迫った実波の両目に、動揺しきった私の顔が映った。違う、今はそうじゃない。こういう場には言うべきことがある。

「……おめでとう」

「うん、ありがとう!……ふふ、びっくりしすぎだよ」

唇を緩めると、実波は代わりに包んだ私の手をきゅっと握った。

「それとね。春樹くんのこととか、ヘアケアとか、色々教えてくれてありがとう。おまじないに頼ってばかりじゃだめだなって思ってたから、真桜に訊いて正解だった!」

「私は、教えただけだから……」

実波のそんな顔、知らない。嬉しそうなんて言葉に収まっていいものじゃないくらい眩しかった。――小学生くらいの時は、私も同じように誰か周りの男の子を好きになっていて、今の実波みたく、きらきらとした話を互いに続けていたはずだった。単に飽きたからやめたのだけれど、それはそうとしてこの煌めきは欲しいな、なんて。


「……まだ何かあるんでしょ?」

「あ、ばれた?」

眉を下げて笑う実波に覚えた安心で、今の自分が置かれているものが不安なのだと初めて知る。でも不安って、一体何に。

「ええと……今日の放課後、うちに来ない?」

断る理由が見当たらなかった。別に断りたい訳でもないけれど、少し嫌な予感がして、なんとなくそんな結論に至る。私っていつもこうだなあ、と目を伏せてから、今できる一番明るい顔で首を縦に振った。



「でもさ、これ気合い入りすぎって思われないかな」

「気合い入ってて良いんじゃないの。クリスマスでしょ」

衣類が何から何まで引っ張り出された衣類がベッドに並ぶ、実波の部屋。私が知っているものもあれば、多分今回のために買ったんだろう、見たことがなくてとびきり可愛いものもあって、新しい服だな、とだけ――あくまで単に、だけれど――わかる。私がミルクティーみたいな色のラグの上に座ってあれこれ受け答えているのに対して、実波は鏡の前で服という服を取っ替え引っ替えしていた。


「なんか物足りなくない?」

オフホワイトのニットとチェックのスカートを片手ずつに持って、実波が姿見から振り返る。動きに勢いがあったので、肩につかないくらいの、艶のある髪が軽やかに舞った。私は立ち上がって、スカートと合う茶色のブラウスを手に取る。

「これは?」

「あ、ありかも!」

鏡に向き直った実波は満足げだ。これで上手くいくかなあ、なんて言葉を口にする割に、その声はどう聞いたって浮かれていた。チョコアイスみたいな色をしたブラウスが、自分で薦めておきながら嫌に甘く見えて、脳がどこかで糖分を欲しているらしいことを自覚する。


やっぱり、知らない。私に向けてくれたことのない表情、声、愛の形――全部、全部眩しかった。友人なのだから当然だろうという、幼い私が考えうるなけなしの正論が、どろどろ溶け出す何かに覆われていく。


「どう、可愛い?」

「可愛いよ。元からだけど、今はもっとね」

素直な感想がそのまま口に出て、少し昔の実波を振り返った。

「言うねえ。へへ、ありがと」

幼馴染というのは、時にちょっと損だ。今までの実波なら絶対にしなかった顔だ、と即座にわかる。安心したような、喜んでいるような、私には一度も向けたことも、これから向けられることもない顔。


――私じゃ、だめだったのかな。


ごく自然に、無意識に、どこかから湧いて出た言葉。即座に思考が絡まって、血の気が引く。実波が振り向いたり聞き返したりしていないので、声に出してはいないようだった。そこまで確かめて、顔の血管に元の熱が戻っていくのが分かる。


「実波、ごめん」

今度ははっきりと実波を振り向かせる。少し遅れて、壁掛けの時計を目で差した。

「そろそろ帰らなきゃ」

然程多くもない宿題を理由にして、私は荷物の置き場所を確認する。ほとんど手をつけていなかったから、中身に変化は無く、ただそこに通学鞄と、ジャージないし制服を登下校中に入れるためのトートバッグがあるだけだった。実波の家から早く出たいと思ったのは、これが初めてだった。


「付き合ってくれてありがとう!」

玄関で、実波が曇りなく笑う。私がいてよかったね、と冗談めかしく返しながら、急いだ動作をしてしまわないよう、気を配りながらスニーカーを履いた。実波のあのきらきらが嫌になった訳でも、自分が嫌になった訳でもなかった。ただ、私が――実波の幼馴染で、親友であるという私の形が、彼女の眩しさに耐えられそうになかっただけ。甘すぎるチョコレートを飲み込んで、喉が少し痛みを訴えただけのこと。


大して遠くもない自宅の玄関の前まで歩いて、ふと、髪を切ろう――と思い至る。一連の考え事の最中、ずっとずっと、この長く重い束が邪魔で仕方なかったのだ。次の週末――は早すぎるから、冬休みか、それとも春休みか。早い方が良いに違いなかったけれど、私には既にプライドが発生していて、できるだけ、ごく些細かつ普遍的なきっかけが髪型に変化をもたらしたのだ、という見せかけを偽装する必要があるように思えていた。あのきらきらに当てられて熱を帯びたのは、私の首でも、頬でも、脳髄でもなくて、そう、髪。


私は実波の王子様になれない。そして恐らくそれは、私が自覚に辿り着くまでが遅かったからではなく――私のこの、どろどろとした性質が、実波に合うはずがなかったから。



* * *



結局、実波に褒められた長髪は、冬休みに入ってすぐに肩くらいまで短くなった。冬場、兄が首元の寒さを嘆く様を見てきたので、少し弱腰になったが故の選択だった。これだけでも頭が軽くなって、随分居心地が良くなったものの、やっぱりまだ長いな、とも思って、その後春休みに入ってから今と同じくらいの長さまで切り直した。実波は随分驚いていたけれど、新しい髪もやっぱり褒めてくれた。


つまるところ、周囲の女子生徒からの人気を得ようと図ったのだ。初めは高校に入ってからこの計画を遂行しようと思ったけれど、ぼろが出るのは避けたかったので、目指す振る舞いが板に着くように、中学三年生の一年間は理想への適応に充てた。姿勢は正して、品のある口調で全てに平等に接し、誰よりも――実波よりも、周りのことを観察する。些細なことも覚えているのが愛だと、既に身近な先駆者の例で学んでいたから。そうして作り上げられた「王子様」像は、やがて錦矢学園に入学し、自らを「私」ではなく「僕」と呼び始めたことによって、ようやく完成した。


実波がこちらに向けることはなかった、あのきらきらとした恋慕の目を、僕も浴びてみたかった。一度真っ直ぐそれを目にした時は、実波の心臓はもう、あの春樹という同級生のものだったのだ。僕に向けられたそれはあくまで感謝であり、友愛であり、決して恋じゃない。


幸い、このどろどろから生まれた計画は想像以上に功を奏し、「王子様」の通称は自ら名乗らずとも高校に広まった。クラスメイトや友人として慕うものに留まらず、まさに僕が欲していたような目だって、沢山の少女達が一斉にこちらに向けてくれる。特定の相手を作らない、かと言って軽薄に弄ぶこともしない。一年かけて完成させた偶像だからこそ成り立つ、僕の――僕だけの最適解。



長く短い追憶を終えた後、冷房の効いた電車から放り出される屋外は、この後に秋が来るなんて想像できないほど蒸し暑い。どんなに寒い時期のことを思い出しても、結局今は九月なのだ。それでも毎年同じことを考えて、結局秋が来て、冬が来て、暖かい季節の感覚を忘れていく。携帯電話を取り出し、実波の連絡先を探そうとして、やっぱりやめた。代わりに千秋との会話の画面を開く。


『さっきの事だけど』

旧女子寮舎、一緒に行くよ。多分、僕が今ここでそう言わなくたって、千秋はどうにか言いくるめて僕を連れて行くつもりだっただろうけれど。数時間前に幕を閉じたはずの錦矢祭が、やけに昔のことのように思えて、僕は帰路につく足を少しだけ早めた。

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