ひととせ
「あっ、今のって片倉さんじゃない!?」
九月。人々の浮かれる声の隙間からふと耳に聞き慣れた名字が届き、千秋は振り返った。模擬店が並ぶ喧騒の奥に真桜の姿を捉える。呼び止めるか、或いはこの人混みに飛び込むか――という選択肢を自らに提示したところで、それらに現実味を見出せず、錦矢祭の騒がしい廊下の中、仕方なく踵を返した。
園芸部の仕事である温室の番を、唯一の後輩が請け負ってくれるというので、千秋は共に校舎内を回るために真桜を追っていた。しかし、企画部の柱の一人と言える真桜はあまりにも多忙で、視界の遠くに入ったところで千秋が近付ける状況ではなかったのだった。
すっかり体力を削り、文化部の展示が詰め込まれた区画――理科室や美術室が並ぶ方へ出向く。千秋が正面から見ることは少なくなった、きりりとした表情の真桜を思い出しながら展示を眺めていると、充実した内容であるはずのそれらを一瞬のうちに回り終えてしまった。食べ足りないような感覚、とふと形容して、千秋はようやく空腹を自覚した。
「あれ、千秋さん」
唐突に、少し遠くからの呼びかけが飛び込む。よく通る声の矢に振り向くと、その持ち主の赤みがかった茶髪が視界の中央に見えた。
「水瀬先生。こんにちは」
直接の縁は無かったはずだというのに、すっかり互いに馴染んだ顔。真桜と同じく校内を歩き回っているらしい、企画部顧問の女性に会釈を送る。
「こんにちは!科学部の展示、どうだった?」
「面白かったです。透明標本を見る機会はあまり無かったもので」
「綺麗だよね。安西先生に聞いたら……あ、去年の生物って安西先生?」
そうですね、という千秋の返答に頷いた水瀬が続ける。
「結構時間も手間もかかるみたいで。それを部活で作っちゃうんだからすごいよね」
「先生、あの」
感心したように頷く水瀬に、千秋が僅かに言い淀みながら問う。水瀬が両の眉を上げ、次の言葉を促した。
「真桜……って、もう一日中あんな感じなんですか」
「真桜さん?あぁ、大忙しだもんね。一緒に回るの?」
千秋が相槌を以て肯定すると、少し考え込む様子を見せる。
「朝からあの様子だし、張り切ってたから……じゃあ、次に見かけた時、伝言しておこうか」
「助かります。では……私からの連絡に目を通すように、とお伝えいただけますか」
「ん、分かった」
それじゃ、と会話を結んだ水瀬の姿が消えると、千秋は制服のスカートから携帯電話を取り出す。朝から
* * *
「やあ森くん、お疲れ様」
水瀬と別れて温室に戻った千秋は、腰を低くして植物を観察していたらしい、違う色の上履きの男子生徒を呼んだ。
「あ、先輩」
"森くん"――千秋が所属する園芸部の唯一の後輩である森
「お友達は」
「生憎捕まらなかったが、
「でも、その方が来た時、交代とかは」
「気にしないでくれたまえ。君は午前中ほとんど居てくれたんだ、私が何とかしておくよ」
やがて森が上履きのまま校舎側の扉から出ていくと、温室はしんと静まる。森がそうしていたように植物の前にしゃがんで、千秋はそのまま眼前の花に「元気そうだね」と声をかけた。
「いやあ、良い後輩だよねえ。君達への造詣は深いし、仕事の飲み込みもかなり早い。とりあえず森くんが居るうちは、君達かどうにかなる心配は無用だろうね」
「君もそう思うかい……彼のような人間が、来年も入ってくれれば良いんだが」
そう簡単にはいかないだろうね、と表情を曇らせると、植物たちから共感の声が返ってきたらしく、
「まあ、卒業後に私が用務員になる道もあるから、今はまだ考えなくていいか」
と冗談めいた口調で会話を閉じた。
ぽつりぽつりと現れる外部からの来客たちへの、温室内の紹介や解説を一通り終えた頃。
「千秋、ごめん!」
「おや真桜、来たね」
温室の扉を勢いよく――決して乱雑な動作ではないが――開く音が耳に入り、千秋は直様振り向いた。息を切らした真桜が駆け込んでくるのを捉えて、掛けていた椅子から立ち上がりながら、思わず苦笑する。
「走らなくて良いと伝えたはずなんだがね」
「でも、こんなに待たせたんだし」
「そうは言っても君、疲れてるんじゃないのかい」
左腕に付けたままの企画部の腕章を動作のみで指摘する。真桜は「あっ」と短く発すると、慌ててその安全ピンに手をかけ、千秋と目を合わせたままするりと臙脂の帯を外した。
「いや、大丈夫だよ。心配しないで」
「全く……真桜らしいといえばらしいが」
千秋が一旦諦めて、真桜の手元に視線を移す。
「それで、君の分の昼食はちゃんと買ってきたのかい」
連絡通りに、と付け加えると、真桜は左手に提げたビニール袋を掲げて見せ、満足気に笑みを咲かせたのだった。
* * *
「あと四、五十分程度か」
昼食のカレーパンのひとかけらを飲み込んだ千秋が、
「あの千秋が走るなんて……って思ってたけど、お昼、まだだったんだね」
どこかしみじみと振り返ると、千秋の動作を一通り眺めた真桜は、買ってきたみたらし団子の二本の串のうち一本を空にした。
「体育の授業でもなきゃ、走るどころか早歩きすらしないのに」
「単なる気まぐれだよ」
二本目に手をつける真桜を横目に、千秋が弁解じみた声色で述べる。
「どうせ食べるなら一緒の方が良いだろう」
「それは、そうだけど……僕には走るなって言ったのに」
「私が温室からすぐそこのキッチンカーなのに対して、君は校舎の何階か上の模擬店から温室だ」
聞いて反論を諦めた真桜が、先刻の――真桜が駆け込んできた後の千秋を映したような、眉を下げた優しい顔をする。わかったよ、とだけ言って、二本目の串の先を口に入れた。千秋が前髪を片手で留め、真似るように昼食を大きく齧る。
「それにしても」
カレーパンが半分以上欠けた頃、突然千秋が告げ出した。真桜が六つのうち五つめの団子を咀嚼している時のことだった。
「こんなことを言うのも何だけれどね。君がこの時間まで働いてくれていてよかったよ」
「ええ?」
「あの人混みの中、体力が余っている君とあちこち回ることになっていたと思うと……それはそれで楽しくはあるけれど、こうして君と落ち着いて話す時間は生まれなかっただろうから」
ごく、と喉をゆっくり鳴らして、真桜が結論の言葉を探す。
「……人混みから帰ってきた千秋と、疲れてる僕だから、二人になれた」
「そう、結果的にはね。ふ、やっと疲れを認めたねえ」
はたと動きを止め、真桜が短く声を上げる。
「やられた」
「君が勝手に引っ掛かったんだ」
* * *
「そういえば千秋、去年は何食べた?」
互いにすっかり昼食をとり終えて、真桜が尋ねる。
「去年……は、揚げパンだったかな。うん、そうだ」
「じゃあ二年連続で模擬店じゃないの食べてるんだ」
「結局ね。そういう君はどうなんだい」
「模擬店のワッフル。ここで千秋と会った後食べに行った」
「君も二年連続甘味だけじゃないか」
「去年はおすすめされたんだよ」
会話の合間にごみ類をすっかり元の袋に突っ込むと、千秋にもそれを差し出す。少し考えた後、悪いね、と言って、千秋はパンの重みの消えたビニール袋に始まる、諸々のちょっとした廃棄物を入れた。
「去年は、千秋とこんなことするなんて思ってなかった」
「そうだねえ……文化祭など、私はほとんど温室に引き篭もって終わるものだと思っていたんだが」
「ありがとね、探してくれて」
「全くだよ。君も高校生らしく、連絡の一つくらい確認したまえ」
冗談めかして千秋が言うので、ふ、と同時に笑う。やがてそれが収まると、千秋は少し息を整えて残った時間を確かめ、新しい話題を切り出した。話し出すタイミングを窺って、密かに幾度か頭の中で文章を組み立てては、毎度散らせていたのだった。
「夏休みに、本を探した日のことなんだけれど」
空気が変わったのだ、とわかる。温室の中で思い思いに伸びていた植物の茎や幹が、全て二人の方へ向いたかのような
「……君と別れた後、私はコレクションルームに戻ってね。本の作り手について、少し考えていた」
「誰かが個人的に作ったかもしれないんだっけ」
「ああ。それで、暫定最古参のコレクションである例のドレスに訊いてみたんだ」
真桜は脳裏に、一際輝く純白のドレスを浮かべる。話しかけても返事が来ないことを――本人はそうしているつもりは無いかもしれないが――嘆く時の千秋は、少し焦がれるような顔をしていたような気がしなくもないのだと、真桜は記憶していた。
「やはり、私の問いに答えてくれる気配は無くてね。結局情報は得られなかったんだが……いや、故にと言うべきかな。代わりに一つ、試してみたいことができたんだ」
ひり、と空気が張り詰める。植物たちはもう、千秋の言いたいことを知っているのだろうか。そういえばコレクションルームでも同じような空気を味わった――と、真桜はこの状況下でぼんやり追憶する。顔の無い命の気配。千秋の"緑の手"によって目に見えない概念の中で動くことを知った、付喪神然とした何者かの呼吸が重なる。不思議と重苦しい様子は無かったが、空間に満ちたのは圧そのものだった。
「真桜。私と共に、旧女子寮舎に来てほしい」
「…………え?」
固まった後、心底戸惑った顔を向ける真桜。
「旧女子寮舎って、そこの」
「ああ。過去の痕跡が残っているかもしれないし、建物が古いから、ドレスについて何か分かる可能性もある」
後者がより重きの置かれた目的なのかもしれない、と推測してみるが、何よりあの建物へ人間が入るというイメージが湧かなかった。真桜は門の前に掲げられている、錆びた金属の看板を想起する。
「いや、あの、立入禁止……だよね……?」
「策ならある」
千秋が語気を強めると、真桜は一層思考を絡ませた。それを解くように――ないしは諭すように、あくまで淡々と述べる。
「確かめたいことがあってね。君が…………"王子様"が、必要なんだ」
考えておいてくれ。それが無い選択肢を提示する言葉だと分かると、真桜は甘苦いものを初めて食べたような目を千秋に向けた。
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