安寧の定義

 八月も半ばを過ぎた頃。真桜と千秋は各々の活動の合間を縫い、傾き始めた日が差し込む学校図書館で落ち合っていた。

「あ、暑くない」

「特段涼しい訳ではないが、過ごしやすい。流石の管理だよねえ……あの量の蔵書を抱えているだけのことはある」

「本当に……あ、勉強してる子がいる。宿題終わった?」

 感心したように頷く千秋に軽く相槌を打った後、本棚に囲まれたテーブルに向き合う女子生徒に目をやり、真桜が問う。

「七月中に終わらせたさ。君は?」

「少しずつやってるからまだ残ってるけど、そろそろ全部片付くかな。お盆にも結構進めたから」

「計画的だねえ。学習としては多分その方が良いよ」


 ふと、カウンターの向こうに一人の知った顔が見えた。紛うこと無き図書委員の佇まいからは、既になにか風格のようなものを感じさせるが、同時に高等学校という場に飛び込んであまり経たない者特有の初々しさも認められていたのだった。

「あ、しゅうちゃん!こんにちは。もしかして毎日来てる?」

 静原しずはら柊――かつて真桜が"すごく良い子"と称した一年生の図書委員の女子生徒その人。夏仕様のセーラー服に袖を通し、癖の無い黒髪をすっきりと纏めた姿は、本人の顔立ちも相まって随分凛々しく見える。

「こんにちは。そうですね、部活をやっている訳でもないので……時々司書さんと交代しながら」

「ふふ、かっこいいな。暑いから無理はしないでね」

「ありがとうございます……先輩、何かお探しなんですか」

「うん。あぁでも、大体の場所は見当付いてるよ」

 行こう千秋、と真桜が促すと、千秋は応えた上で「それじゃあ、よろしく頼むよ」とだけ柊に告げ、本棚が重なる方向に歩いていった。

「あれ、柊ちゃんと話したの」

「少しね。君が言う通り、真面目で良い後輩だ」


 やがて、この学校図書館の隅に位置する、あまり人が寄りつかない区画で足を止める。端から端まで渋い色の背表紙たちを確かめた真桜が怪訝な面持ちで「……無くなってる」と呟き、「おや」と意外そうな千秋が応じた。


「いかにもありそうな所だけどねえ。禁帯出なんだろう」

「うん、そう。僕はちゃんと戻したし……誰か読んでるのかな」

 真桜に倣って本棚の中身を確認し終えた千秋が周りを見渡すが、やはり諦めたように控えめに唸る。

「あそこにいる生徒が開いているのは教科書みたいだし、かといって君が来る前に見た限りでは他に人は見当たらない。誰かが移動させたのかもしれないねえ」

 そっか、と少し調子を落として言うので、千秋が柊を頼ることを提案するが、真桜は首を横に振った。

「んん……いや、それはいいかな。こっち、僕だけでもう少し探してみてもいい?」

「いいとも。私も別の本棚を物色するとしよう」


 一時的に解散すると、千秋は少し遠く離れた本棚へと足を運び、それを見届けた真桜が改めて自らの担当箇所の前で屈む。――確か、例の本の背表紙に文字は入っていなかったはずだ。仰々しい明朝体や手書きの筆文字が並ぶ中でぽっかり空いた桃色を探すが――眼前のみならず隣や裏側の区画においても、依然そこに目的の姿は見られなかった。


 辺りを眺めながら、千秋の元に出向くべきだろうか、という案が頭をよぎった頃、ふとその視界にひとつの掲示物が飛び込む。新聞記事の切り抜きで構成されているらしいそれに歩み寄ると、見覚えがある雰囲気の建物の写真と、右横書きの「女子教育に新たな風」という見出しが目に留まった。


 錦矢のことだ――と、モノクロの写真と現存する旧女子寮の建築様式を照らし合わせて思う。かつて千秋との会話に遺構が挙がり、その存在を怖がっていない旨を伝えた時の、彼女の安心したような顔をぼんやりと追憶した。少し置いて、細かい文字の羅列に意識を移す。


 予想通り、記事の内容は――あまり聞き覚えの無い旧校名で呼ばれているが――現・錦矢学園とその開校式に関するもので、立地や一期生の人数、既に行われたらしい式の日程などが、昭和初期らしく妙な圧を放つ字体で記されていた。続いて話題が開校の経緯、及び出資者へのインタビューに移る。ちょうど改行が成された先の、開校の発起人とも言えるその人物の氏名を目で追おうとすると、唐突に背後から声が掛かった。


「真桜」

「うわっ!」

 大きく体を跳ね上がらせて振り返り、自分から飛び出した反応に思わず口元を覆う真桜。釣られた千秋が瞬きをした後、すぐ我に帰る。

「ああ、すまない……驚かせてしまったね」

「ううん、大丈夫……僕こそごめんね、全然違うもの見てて」

 落ち着きを取り戻して二人で掲示物に向き直ると、千秋が意外そうに反応した。立ち位置を背後から隣に移動させ、古い写真を見つめる。

「おや、旧校舎じゃないか」

「あ、やっぱり分かるんだ」

うちに飾ってある写真と同じだからねえ、流石に見慣れたものさ」

「家に学校の写真が飾られること、ある……?」

「まあ、恐らく我が家は特殊なんだろう」

 そこまで話して声を止めると、真桜が続きを返す前に話題を切り替えた。


「で、例の本だけれど」

「そうだった!あの、やっぱり僕の方には無くて…………」

 真桜が申し訳なさそうに眉尻を下げると、千秋は後ろ手に持っていた桃色のハードカバーを掲げる。

「構わないさ。結局それらしいのは私の方で見つかったんだ」

 あっ、と顔を晴らして声を上げた真桜に、満足げに頷いた。

「どこにあったの!?」

「向こうの端にね。常連の君が場所を間違えるとは考えにくいから、大方誰かが元と違うところに戻したんだろう」

 そう言って千秋が厚い表紙を退ける。ふぅん、と零すと、ちょうど半分のところにあるページを開いて真桜の方へ傾けた。

「売り物にしては若干作りが荒い。よく出来ているけれど……私としてはどうも誰かが個人的に作ったように見えるねえ」

「…………そう……なの?」

 確信に至っていないような様子で目を凝らす真桜に、もっとも、と付け加える。

「私の勘だから、あくまでそう見えるというだけさ。ただ、この仮説が合っているなら、相当器用な作り手なんだろう」


「そういえば、千秋がこういうのに興味あるの、なんか意外だったな」

 一連の会話を経て本を手渡してもらった真桜が、ページを捲って線香花火の四文字を探しながら述べた。

「ああ、私が急に『例のおまじないの本を一緒に読まないかい』なんて誘ったからか」

「そう。勝手にびっくりしちゃった」

「実際元は微塵も興味の無い分野だったさ。君の影響かな」


 不意に、千秋が軽い足取りで真桜との距離を詰め、顔をぐっと突き合わせる。

「っ、わた……僕の?それってどういう」

 真桜が自らの澄んだチョコレート色の瞳――その中の一点を貫くような眼差しを向けられながら、律儀に両目を逸らさずに訊くと、千秋は無言のまま数秒見据えた後、さっと視線を本に逸らした。

「ふむ、『恋のおまじない』ねえ」

「え?わっ、ちょっと!」

 真桜が慌てて後退り、すかさず本を閉じると、ふ、という声に満たない音が千秋から発せられた。

「卑怯じゃない!?」

「おや、何か不都合でもあるのかい?」

 長い前髪の奥に明らかににやけた表情を湛えながら続ける。

「君が偶然開いていたページがそれで、私は偶然それを見ただけ。一体何の関連性があるのだろうね」

 何をそこまで慌てているんだい、と投げかけられ、「……確かに」とはっとして手元の本に目を向ける真桜。その肌が熱っぽく染まっているのを認め、千秋はくぐもった声で笑い出した。

「まあ、そこまで察しの悪い私じゃないんだがね」

「う、あぁ、もう……!」

 片手で顔を覆うものの、覆いきれず晒された耳がその先まで赤くなっているのを見て、千秋が細めた瞼で弧を描く。


 真桜が呻いている間に、千秋が本棚の隙間から向こう側をちらりと見やる。奥では柊と企画部の顧問――"水瀬先生"が会話していたが、真桜はうに周りの――せいぜい千秋以外の声が耳に入らない程度には取り乱していて、数メートル離れた所の様子には気付いていないようだった。やがてカウンターの前から小走りで去る人影を見て、ようやく笑いを止めて、しかし依然心底愉快そうに言う。

「くく……油断したねえ、真桜」



 * * *



「ほら、そろそろ人前に出る顔に戻ったらどうだい」

 近付く声に柊が首を向けると、少し困ったような、それでいてすっきりしたような様子の真桜と、心做しか足取りの軽い千秋がカウンターに向かって戻ってきていた。

「誰のせいだと思ってるの……!」

「あの、片倉先輩」

 柊が遠慮がちに声を掛けると、千秋に向けていたむっとした表情を直ぐに作り直した真桜が、あぁ柊ちゃん、と涼やかに応える。


「水瀬先生から伝言が」

「水瀬先生?」

 カウンターの椅子から立ち上がって蛍光色の付箋を差し出すと、真桜は礼を言いながらそれを受け取って、黒いボールペンの走り書きに目を通した。

「もうじき職員会議が始まるので、探して直接言うよりもこの手段の方が早くて良いとのことでした」

「急いでたなら僕達が居るのも分からないよね、本棚の奥だったし……ええと、今日中でいいんだね」

 柊が「そうみたいです」と返してから、千秋が「真桜、そろそろ戻る時間じゃないかい」と横から入る。

「あっ、本当だ!ありがとう」

 真桜は時計を確認すると、爪先を扉に向けてから振り返った。

「柊ちゃんも、伝言ありがとう。じゃあ、そろそろ行くね」


 真桜が普段と変わらない仕草でひらりと手を振り立ち去る。その姿が廊下の曲がり角を通り過ぎるのを待ち、千秋が柊の方へ向き直った。

「君なら協力してくれると信じていたよ。ありがとう」

「……不可抗力です。片倉先輩の安寧を守りたいだなんて抽象的なこと、未だに理解できていないのに」

 柊が椅子から立ち上がったままで不服そうに眉を寄せる。

「ふぅん、不可抗力ねえ。居留守も使ったんだろう?」

「そうですよ!……初めは協力する気なんて無かったんです。けど、ただ……」

 強い語気で発したものの、言葉を選ぼうと失速する柊。千秋はその様子に割り込むことなく、次を待っていた。

「……ただ、邪魔になると思ってしまって」

「邪魔に?」

 首を僅かにかしげる千秋を一瞥して続ける。

「本棚越しに見えたんです、少しだけ。何回か大きい声が聞こえたので、気になって」

「ああ、真桜の声か……すまないね、大方私のせいだ」

「それは、良いんですけど…………あの時の片倉先輩、私が今まで見たことの無い顔で……声を掛けて間に入る気が失せてしまったというか」

 もごもごと複雑な表情で口籠る柊に、「まあ、そうだろうね」と当然のように――元から分かっていたように返す千秋を見て、一層ばつが悪くなったので話題を切り替える。


「……っ、ところで先輩、安寧って結局どういうことなんですか」

「……ふむ、まあ、君なら他言はしないだろうし……」

 目を伏せて迷うような素振りを見せた後、先刻の柊と同じようにどうにか言葉を選んで文章の構築を試みる千秋。やがて柊が若干訝しむ中、あくまで淡々と述べ始めた。

「……真桜が疲れた顔を私以外に見せるというのは、私にとっていささか都合の悪いことでね。人間である以上誰しもあることなのだし、疲れること自体は結構なんだけれど、度が過ぎるとバランスが崩れてしまうから、たまにはあれくらいやらないと」

「バランス……?どういうことです」

「私の手の内で…………ああ、いや」

 納得を求めて詰め寄る柊に思わず溢すが、そこで自らの発言に気付いて中断し、代わりにひとつ、くすりと笑う。

「……悪いが、いかんせん明確な説明は避けたい事柄でね。まあ、こちらの話さ」

「またそれですか!」

 片倉先輩が来る前もそうやって、と不満を露わに追及する柊だったが、千秋が依然自制を崩さないつもりなのだと分かり、仕方なくむすっとした顔で椅子に落ち着いた。


 傾くまでが長かったはずの日差しは、この数十分の間に随分色を変えていたらしく、この空間に最早青空の面影は無かった。学校図書館の中いっぱいに橙が流れ込むのを一望し、やや疲れた様子で柊が口を開く。

「……先輩方って、二人揃って変な人達ですね」

「言うねえ。やはり君は信頼できるよ」


 じゃあ、私は満足したから。そう言うと、千秋は真桜がこの場を後にする際に使った一つとは別の扉を押し、柊の知らない――より言えば、今後も知ることは無いのであろう場所へと戻っていった。


 真桜の時と同じように千秋が曲がり角を通り過ぎるのを見届けると、やがてその場に居合わせる人物は柊と、それからここ数時間勉強を続けているらしい女子生徒のみになる。ふと時計を見上げると、針は閉館時間に限りなく迫った時刻を示していた。柊は静かに深いため息をつくと、残りの一人へ退室を促すべく、重い動作で椅子から立ち上がった。

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