6

 ベッドの傍らに、荷物を詰め込んだボストンバッグが置かれている。枕元に残されているのは、小さな卓上カレンダーのみである。何日かかけて、身の回りを整頓したのだそうだ。

 栞奈ちゃんは上半身だけを起こした姿勢で、院内の図書館から借りたらしい絵本を静かに読んでいる。かなり早い段階で黙読ができるようになったので、読み聞かせてやる機会はあまりなかった、と以前に楓さんが話していた。

「さて」

 と琉夏さんが小声でつぶやいた。それを合図に私は紐を引き、アコーディオンカーテンを開いた。

「栞奈ちゃん、ちょっといいかな。楓さんも」

 呼びかけると、栞奈ちゃんはすぐに本を閉じた。楓さんが椅子を回転させて、私たちを振り返る。

「もうすぐ退院だねえ。おめでとう」世間話のような調子で、琉夏さんが語りだした。「長いこと頑張った栞奈ちゃんに、私からお祝いを言いたくてさ。いろいろ考えたんだけど、私ってあんまり教育的な人間じゃないらしくて、校長先生の挨拶みたいな立派なことは言えないんだよね。だから私の得意な話をしようと思う。栞奈ちゃんがすっきりした気分で退院できるように、私なりの推理ってのを聞いてもらいたいの。いいかな?」

 栞奈ちゃんは一瞬だけ楓さんの顔を見上げたのち、首だけを動かして琉夏さんのほうを向いた。「うん」

「ありがとう。じゃあ始めようかな。すっきりした気分でって言ったのは、栞奈ちゃんの心になにか、退院を躊躇うような、もやもやした気持ちがあるんじゃないかと思ったから。先生にも看護師さんにも、栞奈ちゃん、退院したいって言わなかったよね。お父さんお母さんや、楓さんにも言ってなかった」

 栞奈ちゃんは俯き、毛布を掴んで、「――うん」

「正直だ。でも外の世界が厭なわけでもないよね。友達も連絡を取り合ってるみたいだし、ちゃんと勉強もしてる。だから私は、そのへんのことはあんまり心配してないんだ。栞奈ちゃんならしっかりやれる。幼稚園も久しぶりだから少し不安はあるだろうけど、すぐに思い出せる」琉夏さんはここで言葉を切り、「さて皐月。久しぶりのことよりも不安なこと、なにがある?」

「はい? ええと――」急に意見を求められた私は困惑して、「栞奈ちゃんの立場で考えろってことですか?」

「いや、ただ言葉だけの意味で。久しぶりのことだったら、思い出せる可能性がある。決して思い出せないのは?」

「言葉だけ――だったら初めてのこと?」

「その通り。栞奈ちゃんは初めての事態に直面して、心配になってる」

「それは?」

 気が急いたらしく、楓さんが前のめりになった。まあまあ、と琉夏さんは宥めて、

「順番にお話ししますから、お付き合いください。前提として、栞奈ちゃんはとっても優しい子です。皐月の持ってきた電子ペットの話、覚えてますか?」

「ボールチェーンを取り換えておいたから偽物と気づけたってやつでしょう? もちろん」

「ええ。でも今回注目するのは、そのだいぶ前の段階です。なぜだと思うか訊かれた栞奈ちゃんは『飼い主だから』と答えました。それ以降のやり取りは、主に私と楓さんとで行いましたよね? つまり栞奈ちゃんにとっては、飼い主はペットのことが分かる、以上の理屈は必要なかったんです。彼女が気にしたのはむしろ、失くした本物の行方でしょう。ペットは主のもとへ戻れたのか? 皐月、その後のことは聞いてる? Aはペットと再会できたのかな?」

 そういえば、そんな設定にしておいたのだった。「はい。けっきょく部屋の中で見つかったんです。偽物のほうは、Bのものになりました」

「よかった」と栞奈ちゃん。「やっぱりちゃんと繋がってたんだ」

「そうそう。この繋がりってやつが、栞奈ちゃんには大事なんだよね。退院したあとでも、もう自分は元気だって証明するために、栞奈ちゃんはまたここに来る。病院の先生や看護師さんとも再会できる。お気に入りの中庭で散歩できるし、花が咲くのも見られる。みんな待っててくれるからね」

「じゃあ――栞奈はなにが」楓さんが言いかけ、はたと、「ごめんなさい。続けて、倉嶌さん」

「はい。この、待っててくれる、というのもキーワードです。入院当日に話したと思いますけど、私の家は杠葉です。地元に受け入れ先の病院が見つからなかったから、漣まで来ることになった。栞奈ちゃんの隣にベッドの空きがあって、本当に幸運でした」

「うん、そう言ってたね」

 琉夏さんは顔を上下させてから、「というのはつまり、栞奈ちゃんの隣にいた誰かが直近で退院したってことですよね。そこに私が滑り込んだ。栞奈ちゃん、私の前のお隣さんのこと覚えてる?」

「ヨシお婆ちゃん」

「その前は?」

「原さん。お母さんと同じくらいの女の人」

「そのさらに前」

「みこちゃん。楓ちゃんにちょっと似てた」

 ありがとう、と琉夏さんは応じ、「栞奈ちゃんは私だけじゃなく、代々のお隣さんとも仲良くしつづけていた。そして退院を見送ってきた。お見舞いに来てくれた人、メールをくれた人、残念だけど連絡が途絶えちゃった人、いろいろいたと思う。でも共通しているのは、栞奈ちゃんが待つ側だった、ということ。入院してれば、また来てもらえるかもしれない。また会えるかもしれない。でも退院しちゃったら、もうその理由がなくなる。人生の大半の時間を過ごしたこの病院で出会った人たちとの繋がりが消えてしまうんじゃないかと、栞奈ちゃんは思った。送り出す側じゃなく、旅立つ側になって初めて、そんな不安を覚えた」

 病室が静けさに包まれた。自分の内面を表現する言葉を見つけかねているのだろう、栞奈ちゃんは少し困ったように視線を動かしている。

「あの」私は思い切って声をあげた。「その推理はたぶん、外れてはいないんでしょう。でもひとつだけ。部長自身だって、栞奈ちゃんのお隣さんですよね。栞奈ちゃんは単純に、部長を置いていくのが不安だったんじゃないでしょうか。だってそうでしょう。高校二年生にもなって子供っぽくて、気分屋で、頼りない人。残していくのは心配ですよ。大丈夫なのかなって思いますよ。違うかな?」

「私は――」と栞奈ちゃんが震え声を洩らした。「――琉夏ちゃんに泣かないでって、痛くても頑張ったねって、言いたかったから」

 私は彼女の枕元にある卓上カレンダーを見つめつつ、「――部長。例の検査、次はいつですか」

「三日後」

「栞奈ちゃんの退院は?」

「明後日」答えたのち、琉夏さんは深々と息を吐いた。ベッドに横たわったまま、「栞奈ちゃん。ちょっとこっちに来られる?」

 少女は床に足を下ろし、スリッパを突っかけた。ぺたぺたと琉夏さんの傍らへ歩み寄って、「なあに、琉夏ちゃん」

「今日まで一緒のお部屋で過ごしてきて分かっただろうけど、私は高校生としてはありえないほど情けない人間なんだ。私よりずっと長く入院してるのに弱音を吐かない栞奈ちゃんのこと、凄いなって思ってた。初めての髄液検査で私が泣いたときも、笑わないで慰めてくれたよね。嬉しかったな。こんなにも強くて勇気に満ちた友達には、普通に学校に通ってるだけじゃ出会えなかったかもしれない。苦しいけど、スペシャルな日々だ。だから私を支えてくれた君に、餞別を送る。餞別ってのは、お別れのプレゼントってことね」

 琉夏さんは布団から手を出した。いつの間にかあの知恵の輪じみた、二連になった金属のリングを握っている。精神統一のために用いていたらしい、手品の小道具だ。

「そっちの端を持って」

 栞奈ちゃんが指示通り、片方の輪を指先で摘まむ。「持った」

「せーので引っ張って。行くよ、せーの」

 確かに連結されていたはずのふたつの輪は、それであっけなく外れた。手許に残ったリングを、栞奈ちゃんが慎重に確かめる。切れ目はどこにもない。

「この輪はリンキング・リングっていうんだよ。リンクは繋ぐって意味。このふたつの輪っかは仲間どうしだから、お互いのことを決して忘れず引き合う」

 栞奈ちゃんの輪に、琉夏さんが自分の輪を軽くぶつける。再び結合するのかと思いきや、ただ乾いた音が生じたのみだった。

「いまは魔力が足りないや。離れ離れのリングをまたひとつに戻すには、もう少しパワーを回復させないと。それまで、それを大事に持ってるって約束してくれる? もししてくれるなら、私も栞奈ちゃんとの約束を守る。君がいなくても、泣かないで検査を受ける。病気を治して会いに行くよ。そして今度こそ、完全体の倉嶌琉夏の推理を披露する」

 約束、と栞奈ちゃんは明瞭な声で応じた。「琉夏ちゃんのこと、待ってる」


 ***


「覚悟はしてたけど、まじで痛い」

 背中を丸めた海老のような状態のまま、琉夏さんが零す。緊張と痛みとで体が硬直してしまい、楽な姿勢に戻りたくても戻れないものらしい。

「結果、いつごろ出るんですか」

「数日で出ると思う。まあ数値は順当に良くなってるらしいから、これで最後になってくれるといいんだけどね」

「念のため、もう一回やっておきますかと訊かれたら?」

「縁起の悪いこと言わない。この回復ペースならまったく問題ないでしょう、はい退院、で終わると信じてるよ。私はいったん勢いに乗っちゃえば、がんがんスピードを上げていけるタイプだから」

 ふふ、と私は笑って、「そういえば噂で聞いたんですけど、最近の部長、成績急上昇中らしいじゃないですか。学年トップ五に迫る勢いとか」

「楠原がばらしたのか。人間として本当になってない奴だな。万が一、大学まであいつと一緒だったらとか思うと、ぞっとするね」

「楠原さんも同じこと言ってましたよ。実のところ、気が合うんじゃないですか」

 はん、と琉夏さんは吐き捨て、「冗談じゃない。想像しただけで体調が悪くなりそう。どうにか在学中に決着をつけて、あいつとの腐れ縁に終止符を打ちたい」

「そうですか。じゃあ頑張って復活して、退院しないとですね」

「当たり前でしょ。私にはまだやるべきこと、やりたいことがたくさんある。会いたい人もいる。そしてなにより、甘いものが食べたいよ。病院食ってほんと、信じられないほど味が薄いから」

 最後にそれかと呆れたが、それもまた彼女らしい。「付き合いますよ。快気祝いには、いつものカラオケでソフトクリームでも食べますか」

「いいね。歌うのは皐月に任せる。役割分担は重要だからね」

 はいはい、と往なしてから、私は琉夏さんを見下ろして、

「今回のことですけど、本当は最初から、ぜんぶ計算だったんでしょう。入院してすぐに私に連絡を寄越さなかったのも、頭の中でシナリオを練る時間が必要だったからじゃないんですか」

「どうかな」言いながら、大儀そうに体を動かす。「さすがの私でもあの激痛のさなかだったからね。考えてる余裕はあんまりなかったよ。ただ結果的に上手く転がっただけじゃない? それはつまり、私たちふたりの勝利、ということだ」

「――文芸部の?」

「そう。杠葉高校文芸部の」

 琉夏さんは仰向けに寝転んだまま、両腕を布団から出して頭部の下で組み合わせた。よく部室で見せているだらしなさが戻ってきたようで、つい笑ってしまう。完全体の倉嶌琉夏とは、ちょっと外部にはアピールしがたい、言ってしまえばどうしようもない存在なのだと、ようやく思い出されてきた。

「部長のいない部室、慣れないです」

「私もあそこが懐かしいよ。早くいつもの場所で、快適に昼寝がしたい」

 銀色の輪が繋がる音が、どこからか聞こえた気がした。分かっていた。私はこの奇怪な名探偵の、唯一の助手にして相棒なのだ。

 無言のまま、琉夏さんが片方の手をこちらに差し伸べてきた。私も言葉を発することなく、ただそれを握り返した。まだ病から回復しきっていない掌は白く柔らかく、どこか彼女の好物であるマシュマロに似ていた。

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