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 病室に戻ったとき、栞奈ちゃんのベッドのカーテンは閉じられていた。楓さんがそっと中を覗き込んで、「寝てる」

 食後、ちょうど眠気が訪れる時間帯だ。琉夏さんもとうぜん寝入っているものと思い込んでいたのだが、珍しいことに彼女は起きていた。手許でなにかを弄りまわしている。金属のリング?

 私は小声で、「なんですか、それ」

「マジックの道具。リンキング・リングっていって、付けたり外したりするやつ」

 正式名称を初めて知った。複数の輪が鎖状に連結したり、ばらばらになったりする、あの手品の小道具だ。むかしテレビで観たことがある。シンプルなわりに飽きずに見ていられたのは、やはりマジシャンの実力のおかげだったのだろう。

 翻って、琉夏さんの手つきに流麗なところはまるでない。かちゃかちゃと引っ張ったり回転させたり、やっていることはむしろ知恵の輪に近い。

「練習してるんですか」

「練習というか、精神統一というか。とにかく気を逸らしてないと、検査が怖すぎてどうしようもないんだよね。落ち着いて昼寝もできない」

 この人が眠れないというのは相当である。「なんというか、ひっそり応援してます」

「ありがたいね。小さい子はたいがい泣くらしいけど、布団を噛んで大泣きする十七歳児ってのはたぶん珍しいだろうね。医者も看護師も若干呆れてた。でも痛いもんは痛いんだから仕方ないじゃん」

 私は頷き、声を潜めて、「送ったの、見てもらえましたか」

「見たよ。なかなかいい感じの庭だったね」

「私の仮説は例によって外れだったので、部長が頼りです。なにか思いついてますか」

 彼女は手を止めないまま、「まだ考え中」

「情報が足りませんか。他に見てきてほしい場所があれば、行ってきますよ」

「いや。今日のところは、とりあえずいいよ。それより少し時間が欲しい」

 短く息を吐き出したのち、琉夏さんがリングを枕元に戻す。両手で毛布を引き上げて、「ごめん、なんかちょっと疲れた」

「昼寝ができないから?」

「夜もよく眠れないんだよ。時間帯に関係なく注射されたりするし」

「すみません」急に申し訳なさが生じて、私は頭を下げた。「病気なんだから、疲れて当たり前ですよね」

 彼女は枕の上で頭の位置を調整しながら、「気分がいいときと、そうでもないときがあるんだよ」

「ええ、想像はできます」

「調子が良ければ暇だな、誰かと喋りたいなと思う。不調だと、ただただ気分が落ち込む。自分じゃなかなかコントロールできない」

 寝返りを打ち、私に背中を向ける。その弱々しい声を聞きながら、私はなんだか泣き出してしまいそうになっていた。彼女が眠っているさまなど毎日厭というほど眺めてきたけれど、こうも名状しがたい感覚に見舞われたのは初めてだった。私が知っている倉嶌琉夏とは、根底から違う存在に変わってしまったのではないかという気さえしていた。

「帰ります」と私は告げた。ひとりでに声が震えていた。「また具合のいいときに来ます。大丈夫だと思ったら連絡ください。私、待ってますから」

 返事を待たず、彼女のベッドから離れた。楓さんに一言挨拶をして、病室を後にする。そのままバスに乗り込み、駅へと向かった――。

 電車に揺られながら、自分が真っ先に寄り添うべきは琉夏さんだったのではないか、依頼人の楓さんや栞奈ちゃんを意識しすぎるあまり、弱った彼女を蔑ろにしてしまったのではないかなどと考えた。推理ゲームを楽しむにしても、最低限の時と場合を弁えねばならなかった。相手は大病を患い、一週間も学校を休んでいる人なのだ。

 そんなこんなで杠葉に到着する頃には、私はすっかり気落ちしきっていた。琉夏さんに改めて謝罪のメッセージを入れておこうか、あるいは宣言通りこちらからの連絡は避けるべきかと逡巡しながら駅の構内を歩いていると、不意に後方から、

「志島」

 振り返った。声の主に相対した瞬間、視界が急速に潤んだ。

「少しだけ話を聞いていただけませんか」唇が勝手に動いて、気が付くと私はそう頼み込んでいた。「お願いします」

 楠原さんが眉根を寄せ、もとより険しい表情をより険しくする。唐突な依頼にやや困惑したようだったが、どうやら状況を察してくれたらしく、

「少しだぞ」

 広告の巻かれた柱の前に立ったまま、一日の出来事を掻い摘んで話した。彼女は腕組みをして、

「そもそもあいつが、暇だから話を持ってこいって言いだしたんだろ。で、たまたまそれを一緒に聞いた人間が感心して、お前らに依頼をした。お前は依頼人に誠実に振る舞った。倉嶌の調子が悪くなったから、切り上げて帰ってきた。なにも気にすることないだろ」

「でも――すごく落ち込んでたように見えたので」

 は、と楠原さんは笑い飛ばして、「あのな、志島。たぶんだけどお前が想像している以上に、私とあいつは接点がある。明確に敵対してるから、お互い遠慮なんかしない。断言してもいいけど、あいつはそんなに軟弱な人間じゃない」

「楠原さんにはそう見えますか」

 彼女はすぐさま、「見えるね。あいつのしぶとさは並じゃない。いくら全力でぶちのめしてやっても、平然と甦って襲ってくるような奴だよ」

「ええと――比喩ですよね?」

「そうでもない。このあいだもやり合ったばっかりだ」

「どこでどうやって?」

「模試の点数でだよ。言っとくけど総合点では私が勝った。でも英語では負けた」

 私は大変に驚き、楠原さんの顔を見つめた。なにせ彼女は入学以来ずっと、学年で五本の指に入りつづけている成績上位者なのだ。

「倉嶌は急に上がってきた。なんであんなに伸びてるのか、教師陣のあいだでも謎らしい」

「楠原さん、大学は」

 彼女は志望校の名前を言った。私の兄、志島昴の通う大学だった。彼の代の合格者数は、確か、彼含めて三人だった。

「大学まであいつと一緒だったら、はっきり言って厭だ。だけど私をあそこまで追いつめた奴に脱落されたら、それはそれで張り合いがない。あいつは私に宣言したよ、次は自分が勝つって。だからそう簡単にくたばるはずがない。いいか志島。くたばらないんだよ、倉嶌は」

 そうなのか、と思い、それから続けて、なんだ、と思った。思っただけのつもりだったが、口に出ていた。なんだ。次なる言葉もまた、自然と飛び出してきた。

「大丈夫――なんですね」

「当たり前だろ」と楠原さんは笑った。「なにを心配することがあるんだよ。ちゃんと治療を受けて、回復してるんだろ? 気分の浮き沈みくらい、病気じゃなくたってある。私にも、雛にも、お前にもある。それだけだ。あいつは戻ってくる」

「はい」やっとのことで答える。知らず知らずのうち、咽の底が熱くなっていた。「信じられる気がしてきました」

「気がする、じゃ弱いな」

 言いながら、楠原さんはスマートフォンを取り出して操作した。どこかにメッセージを送信していると思しい。

 ややあって、端末が音と振動を発しはじめた。電話が架かってきたようだ。

「早いな。どこからだ」と楠原さんが応答する。「病室じゃないだろうな」

 その言葉で分かってしまった。相手は琉夏さんだ。

 倉嶌琉夏が楠原律に自ら電話を架けるなどという珍事が起こるとは。昨日までの私ならば絶対に信じなかった。知っている気でいて、なにも知らなかったのだ。楠原さんのことも、琉夏さんのことも。

「余計なお喋りをする気はない。お前の口から一言、志島に言ってやれ」

 スマートフォンを差し出された。楠原さんに目で促される。慎重に受け取り、ゆっくりと耳元に宛がった。

「――部長?」

「皐月」少し遠く聞こえるけれど、紛れもなく琉夏さんの声だった。「杠葉高校文芸部部長として、探偵・倉嶌琉夏として宣言する。解決するよ、必ず」

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