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 散歩というからどこへ行くのかと思いきや、楓さんはまっすぐに病院へと帰った。エントランスホールを抜け、一階の廊下を進んでいく。売店や食堂のある区画を通り過ぎた先にある自動ドアをくぐった。

 辿り着いたのは中庭だった。屋根付きのベンチがあり、煉瓦で囲われた花壇があり、ちょっとした庭園といった雰囲気である。

「外の空気を吸うとなると、だいたいここなの」と楓さんが説明する。「表の駐車場よりも雰囲気いいでしょう?」

 私はあたりを見渡しつつ、「確かにそうですね。疲れたらすぐ座れるし、患者さんのことを考えた設備になってるんだ」

 見れば見るほど、感じのいい庭だった。この緑が、どれだけ患者の心を和ませていることか。

 夕方以降は灯りがともされるという。お世辞にも広いスペースではなく、また四方を壁に囲まれているものの、閉塞的な感じはほとんど受けない。巧みに設計されているものである。

「栞奈ちゃん、散歩は毎日?」

「ほぼ日課だね。両親が付き添うこともあるし、もちろん私が一緒のこともある」

「どんなふうに過ごしてます?」

「別に普通だよ。座ってお喋りしたりとか」

 私は中庭の様子をスマートフォンのカメラで撮影した。気の利いた写真とは言いがたいが、雰囲気は伝わるだろう。

「とりあえず、私たちで再現してみましょうか。私が栞奈ちゃん役をやりますので、楓さんはそのつもりで接してください」

「お芝居するの?」

「部長がよく使う手法なんです。当事者の視点で考えるという」

「分かった。じゃあ――まずはこのお庭に出てくるところから」

 ドアの前へと移動する。楓さんが私を振り返り、

「栞奈とだったら手を繋ぐことが多いんだけど」

「繋ぎましょう。片手が塞がっている、という状態に意味があるかもしれませんから」

 単なる思いつきだったのだが、どうやら納得してもらえたらしい。楓さんは私の手をそっと握った。そしてふんわりとした口調で、

「外、気持ちいいねえ」

 一瞬にして役に入り込んでいるのが凄い。ここで照れて笑い出したりしては艶消しなので、私もできる限り真面目に、

「うん」

「琉夏ちゃんはまだお外に来られないからねえ。元気になったら一緒に来たいね」

「琉夏ちゃんもすぐ治るかな」

「きっと治るよ。頑張ってって励ましてあげようね」

 この奇妙な散歩は五分か十分ほど続いた。ずっと調子を維持したまま、私たちは中庭を一回りしたのである。ひと段落してベンチに腰を下ろしたときには、疲労感で全身がいっぱいになっていた。

「成果はあった?」と楓さんが笑顔で問いかけてくる。「志島さんの栞奈、雰囲気がよく出ててよかったよ。探偵の助手って、演技の素養も必要なんだね」

 べつだんそういうわけではないのだが、黙っておくことにした。私は咳払いし、「ありました」

「じゃあさっそく、倉嶌さんに知らせないと」

「もちろんです。ただ部長に連絡する前に、私の考えをお話ししてみてもいいですか?」

 彼女は興味津々の風情で、「ぜひ聞かせて」

「では。さっき栞奈ちゃん役を演じてみて、自分が小さかった頃のことを思い出していました。いま十六ですから、十年くらい前、ということになりますね」

「志島さん、ああいう感じだったの?」

「栞奈ちゃんよりは捻くれた、可愛げのない子供だったと思います。でも無邪気さが皆無だったわけでもありません。何気ない場所でも、子供の目ではきらきらして見えたりしますよね」

「分かる。私もきっとそうだったんだろうな」

「まして栞奈ちゃんは、入院している期間が長い。あまり外の景色に触れていないわけです。つまりこの庭は、彼女にとっては特別な場所になりうる」

 楓さんはかしらを巡らせてから、「うん、そうかも。あの子、ここ気に入ってるしね。でも、だからといって退院したくなくなるほど?」

「ポイントはそこですよね。ただ栞奈ちゃんは、二度と退院したくない、永遠に病院にいたいとは言っていないと思うんです。違いますか?」

「ああ――うん」少し間があって、「確かに言ってない」

 やはりそうだ。私は勢い込んで、「ということは、ある期限まで病院にいられればいい、と思ってるんじゃないでしょうか。ほんのしばらく退院を先延ばしにしたい、が栞奈ちゃんの本音だとは考えられませんか?」

「時期が重要ってことだね。具体的にそれはいつ?」

「今は冬ですから、おそらく春でしょう」私はベンチから立ち上がった。両腕を広げて歩き回りながら、「春になれば、ここに特別なことが起こりますから」

 六歳児にとっての一年は長い。新しい季節の訪れを、栞奈ちゃんは鮮烈なものとして感じ取っているはずだ。

「この花壇が花でいっぱいになるのを、栞奈ちゃんは見たいんじゃないか、というのが私の仮説です。どうですか?」

「花――花か。確かにあの子、咲くのを楽しみにしてたな」楓さんも腰を浮かせ、私の隣に歩み寄ってきた。まだ僅かに草が茂っているばかりの花壇を見下ろして、「でも、退院してからでも来られるでしょう? 病院の庭なんだから」

 そう反論されるだろうと思っていた。私は息を吸い上げ、

「正確には、というか栞奈ちゃんの意識の上では違うんです。庭と中庭。ここに入ってくるには、病院の建物を経由するしかない。外から通りすがりに眺める、といったことは不可能なんです」

「なるほど。構造上はそうだね」

「もうひとつ。病院に外からやってこられるのは、基本的に面会客だけです。楓さんがここに入れるのは、栞奈ちゃんが入院しているからですよね。では栞奈ちゃん自身が退院してしまったらどうでしょう? もうここを訪れる権利が消える、と認識するんじゃないでしょうか。彼女にとってここは、病院で暮らしている者とその関係者にのみ立ち入りを許される聖域なんです。だから春まではどうしても、入院したままでいる必要がある」

 楓さんはしばらく沈黙を保っていた。そして言葉を噛みしめるように、「志島さん、本当に栞奈になりきって考えたんだね。私には思いつきもしなかった」

「別にただ、部長の真似をしただけですよ」

「仮にそうだとしても、きちんと継承して身に着けたスキルなんだから、立派に志島さん自身のものじゃない? 探偵の助手も、やがては探偵になるんだよ」

 私は人差指で頬を掻いた。「そうでしょうか」

「きっとね。だから未来の名探偵への敬意として、私は私の考えをはっきり伝えるね。志島さん、その推理は違っていると思う」

 え、と思わず唇を開く。急に梯子を外されたような気分だった。「なぜですか」

「志島さんの推理だと、栞奈は春までこの中庭――聖域に入る権利を失いたくないんだよね。つまり病院から見て、自分が完全な部外者になってしまうのを避けたい」

「はい」

「病院との繋がりを保持したいから、患者のままでいたい。入院しつづけることはあくまで手段で、目的じゃない」

「そうです」

 私が頷いたのを確認すると、楓さんは静かに言い聞かせるような調子で、「だったら、やっぱり違うよ。栞奈、退院してからも定期的に通院しなきゃならないから。完全に卒業できるまでにはもうしばらく時間がかかるだろうって、先生にも言われてる。少なくとも春の時点では、この病院との縁はまったく切れてないはずだよ」

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