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 入院棟の病室は四人以上の大部屋が大半で、ふたり部屋は珍しいという。あらゆる意味で運がよかった、と琉夏さんは繰り返した。安眠を妨げられるのが耐えがたいらしい。

 昼食の時間が近づいたので、ひとまず四人揃って病室に戻った。ナチュラルカラーを基調とした、平穏な空間だった。

 しばらくのあいだ、栞奈ちゃんはベッドの中でスマートフォンを眺めていた。誰々ちゃんからこういうメッセージが来た、と楓さんに報告している。退院を待っている友人たちと、あれこれやり取りを重ねているようだ。

 いっぽうの琉夏さんはといえば、ただぼんやりと横たわっているばかりである。浮かない顔をしているので事情を問えば、週に一度の検査が迫っているのを思い出して憂鬱、との返事だった。

「血液検査ですか」

「いや、もっと凄まじい。髄液検査っていって、腰の骨の隙間から液を採取するんだけど、それが本当に痛い」

 体を丸めた姿勢で、背後から巨大な注射針を打ち込まれるのだと、彼女は説明した。本格的に恐れているらしく、顔が蒼褪めている。

「冗談じゃないんだからね。初めてのときは大泣きしたよ。二回目も泣いた。次も泣くと思う。純粋に信じられない痛さだから」

 食事が来た。とくだん健啖というわけではない私の目で見ても量が少ない。看護師が去ってから、琉夏さんは「味が薄いんだよなあ」と洩らしていた。

「ねえ、私たちもなにか食べてこようか」ふたりの食事がひと段落した頃合いで、楓さんが私を誘った。「なにか食べたいものある?」

「これといっては。楓さんは普段、どうされてるんですか」

「私だけなら下の食堂か、大学の学食だけど――あんまり落ち着かないかな? そこの饂飩屋さんにでも行こうか」

 窓から看板の見える距離にある、ごく普通のチェーン店である。べつだんどこでも構わなかったので、そのまま従うことにする。

 時間帯が時間帯なので、店はそれなりに混雑していた。隅の座席に向かい合って座る。

「倉嶌さんって意外な特技があるんだね。私、びっくりしたよ」

「ああいうことに関してだけは興味を示すんです。あの人、入院中はどうしてるんですか? やっぱり眠ってばっかりですか」

「そうでもないと思うよ。普通に勉強したりしてるのをよく見る。志島さんは、倉嶌さんの部活の後輩なんだよね?」

「同じ文芸部です。あの人が部長、私は平部員。総勢二名です」

 楓さんは微笑して、「部員がふたりきりなら、志島さんは自動的に副部長なんじゃないの?」

「ああ――確かに」指摘されてみればその通りなのだが、これまで不思議と考えたことがなかった。「今後はその肩書を使用して、部長に意見しようと思います」

「もっとも私は、探偵と助手のほうがいいと思うけどね。話してくれたあの事件、どこから」見つけてきたの?」

「単純に実体験です。Aは子供の頃の私、Bは兄です。真相に気づいたとき、思わず笑っちゃったのを覚えてます。わざわざこんな手の込んだ真似をするんだなって」

 へえ、と彼女は口元を覆って、「お兄さんがねえ。でも素敵じゃない? 妹を悲しませまいと知恵を絞ったわけでしょう」

「本人はまるで覚えてなかったんですけどね。いちおう事前に電話で確認したんですよ。こういう出来事があったよねって。そしたら向こうが逆に驚いちゃって、そうか俺は当時から慈愛に満ちていたんだなとか――本当に馬鹿ですよね」

 慈愛に満ちた、というフレーズが可笑しかったのか、楓さんは笑って、「お兄さん、きっと嬉しかったんだと思うよ。そんなエピソードを覚えててもらえて、物語として語りなおしてもらえて」

「そうでしょうか」

「きっと誰もが、そういう愉快でちょっと切ない経験を、人生でいくつもしてきてるんだよ。ただ思い出せないだけでね。だからそれを掘り起こしてもらえたとき、平凡な自分の人生が少しだけ輝いたように感じられる。悪くないなって思える。それって特別なプレゼントじゃない?」

 そうでしょうか、と私はまた繰り返した。そうだよ、と楓さんは力強い声で答えた。

「そんな特別なコンビに、私から依頼があるの。わざわざふたりきりでの食事に連れ出したのも、本当はそれが目的だった」

 私が反応を示す前に、エプロン姿の店員が席に近づいてきた。ご注文の云々です、と丼を置いて去っていく。饂飩が目の前で湯気を立てた。

「どんな依頼ですか。いえ、やっぱりまだ言わないで。栞奈ちゃんのことですね」

「正解。栞奈の目の前で話すわけにもいかなかったから、回りくどくてごめんね。まずは助手を通すのがセオリーなのかなと勝手に思ったの。話だけでも聞いてくれる?」

 言いながら、楓さんが割り箸を差し出してくる。私はそれを受け取りながら、

「引き受けますよ。今回の探偵は安楽椅子を通り越してほぼ寝たきりですけど、普段とあまり変わりませんから」

「よかった」

 じゃあ食べちゃおう、と促され、そこで会話はいったん中断となった。勢い込んで返答したわりに格好がつかない感じがするが、せっかくの饂飩が伸びてしまったのでは悲しいから、まあ仕方があるまい。

 しばらくののち、楓さんはゆっくりと、

「――依頼っていうのはね、凄くシンプル。栞奈、なんだか退院したくないみたいなんだよね」

「え?」私ははたと、天麩羅に伸ばしかけた箸を止めた。「そんなことないのでは。元気になれて嬉しいって、自分で言ってたじゃないですか」

「確かにね。元気がいちばん、友達に会いたい、勉強は大丈夫。そういう話はいくらでもする。でも退院したいとだけは絶対に言わないの」

 病院での会話を思い返す。なるほどその言葉は使ってはいなかった。しかし――。

「念のためお尋ねしますが、たまたまではないという確信がおありなんですね?」

 楓さんは強く頷き、「絶対。お医者さんや看護師さん相手でも、もうすぐ退院だねって言われたときだけ反応が違うんだよね。ずいぶん長く入院してたから、外に出る不安はもちろんあるだろうけど」

 それに関しては当然のことだろうと思う。私は慎重に、「入院前、栞奈ちゃんはどんな様子でしたか?」

「幼稚園をとくべつ厭がってるようじゃなかったな。じっさい入院した当初は、早く帰りたい帰りたいって連呼してたし」

「次の春で卒園?」

「そうなるね。けっきょくほとんど通えてない」

「いつから態度を変えたか、記憶にありますか?」

「いつだろう? 倉嶌さんが来たあとは目立つようになったかもしれない」

 不穏な予感が脳裡を掠めた。まさか琉夏さんの怠け癖に影響されてしまったのか。「――具体的に、栞奈ちゃんは退院せずにどうしたいと思ってるんでしょう? ただ病室で寝ていたいわけではないでしょうし」

 楓さんは肩をすくめ、「それが分からないんだよね。単に慣れて居心地が良くなっちゃっただけ、なんてことはさすがにないか」

「ないと思いますけど――たぶん」

 ここでいくら考えてもきりがないので、素直に琉夏さんの指示を仰ぐことにした。依頼内容を纏めて書き送ると、しばらくののち返信が来た。

「倉嶌さん、なんだって?」

「ええと、栞奈ちゃんってよく散歩に出掛けますよね。そのルートを帰りに辿ってきて、気が付いたことを教えてほしいと言ってます」

「なるほど。探偵っぽい着眼点だ」と楓さんは感心した様子を見せた。「食べ終わったら案内するね。散歩コース、いつも同じだから」

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