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 漣中央病院は、駅からバスで十五分ほどの場所にあった。杠葉の琉夏さんの自宅からならば、どんなに急いでも車で一時間半は要しただろう。搬送時の彼女の胸中を思うと、私まで苦しくなってきそうだった。

 受付を済ませ、面会者であることを示す札を受け取る。エレベーターに乗り込み、琉夏さんの入院している階へと上がった。フロアマップを確認し、廊下を進んでいく。

 結果から書いてしまうと、病室に辿り着く前に私は琉夏さんと遭遇した。談話室に座っている人影にどうにも見覚えがあるなと思い、自販機で飲み物を買うふりをして入り込んでみると、彼女のほうから私に気づいて声をかけてきたのである。

「来てくれてありがと」

 琉夏さんは部屋着っぽい淡いベージュのスウェット姿だった。いかにも体調不良といった風情ではなかったので、少し安心した。覇気はまるで感じられないが、それは普段も同じである。

「ねえ、琉夏ちゃんの友達? お見舞いに来たの?」

 近くにいた少女が琉夏さんに歩み寄ったかと思うと、袖を掴んでそう尋ねた。小学校低学年、もしかすると幼稚園児かもしれない。非常に小柄で、色白な子である。入院患者らしく、ふわふわとした愛らしいパジャマを着ている。

「そうそう。お姉さんと同じ札を下げてるでしょ? 前に話した私の相棒。志島皐月」

 少女は納得したように頷き、私を見上げた。「こんにちは。甘木栞奈です。琉夏ちゃんと一緒の部屋です」

「琉夏さんの後輩の志島皐月です」後輩の、の部位を強調して自己紹介する。「琉夏さんとは同じ学校で、同じ部活動なんだ」

「味の甘いに、木曜日の木に、本に挟む栞に、奈良の奈」と琉夏さんが漢字を説明してくれた。「ふたり部屋でさ。たまたま栞奈ちゃんの隣のベッドが空いてたから、私は入院できたんだよ」

 少し離れたところにいた若い女性が、会話が途切れたタイミングを見計って近づいてきた。こちらはごく普通の私服姿である。少女の傍らに寄り添いつつ微笑して、

「どうも、倉嶌さんからお名前は伺ってます。この子、倉嶌さんにはいつもよくしていただいてるんですよ。琉夏ちゃん琉夏ちゃんって、いつもくっついちゃって。ご迷惑でしょうって言ってるんですけど」

 この穏やかな雰囲気を纏った女性は栞奈ちゃんの叔母で、名を楓さんといった。姉すなわち栞奈ちゃんの母親とはだいぶ歳が離れており、まだ大学四年生だった。卒業論文の提出も済んで時間があるので、頻繁に様子を見に来るのだそうだ。

 私たちは四人で、談話室のテーブルを囲んだ。栞奈ちゃんは長期に渡って入院を続けてきたが、もうじき退院の予定だという。

「どこも痛くなくて、元気になれるのが嬉しい」と栞奈ちゃんは笑った。「勉強は、たぶん大丈夫だと思う。楓ちゃんにも琉夏ちゃんにも教えてもらってるから」

「そうかそうか。元気なのがいちばんだよね。私も身に染みたよ。寝るのは大好きだと思ってたけど、あくまで健康な状態で、自分の意思で寝るから気持ちいいんだ。病気で寝てるしかないってのは、私の望むところじゃないと気付いた」

 いつものことながら、教育的な発言を決してしない人だ。小さな子供が相手であっても本音で話す、といえば聞こえはいいけれど。

 こうしたやり取りに慣れているらしく、楓さんはただにこやかに様子を見守っているのみだった。寛大だなと思う。ただ座っているだけで、場に和やかな空気が満ちてくるようである。

「そういえば皐月、私にお見舞いを持ってきてくれたんだっけ」ふと思い出した、といった調子で、琉夏さんがこちらに視線を寄越す。

「ちゃんと持ってきました。退屈凌ぎですよね。話を用意してきましたよ」

「なになに」と途端に栞奈ちゃんが瞳を輝かせた。「私も聞きたい」

「もちろん。では」私は咳払いを挟んでから、「何年か前の話です。ちょうど今の栞奈ちゃんくらいの歳の女の子――仮にAとしておきましょうか。その子がプレゼントを貰いました。当時流行っていた、キーホルダー型の電子ペットです。掌サイズの小さな画面に表示されるドット絵のキャラクターに、餌をあげたりして好感度を上げていくゲーム。もちろん昔の玩具だから、今のゲームより遥かに単純で、変動するパラメータは好感度だけ。キャラを懐かせると、表情や仕種が変わる。ただそれだけのゲーム」

 琉夏さんのために準備した話なのだから致し方ないが、栞奈ちゃんには分かりにくかったかもしれない。むしろ楓さんのほうが「そういうの、あったね」と懐かしがっていた。

「Aはその玩具をとても大切にして、ペットの好感度を最大にしました。本体には自分の名前をプリントしたシールを貼ったりして――そういう玩具もAは持ってたんです――失くさないように工夫していました。でもあるとき、うっかりどこかにやってしまった」

 途端に栞奈ちゃんは悲しげな顔つきになり、「それから?」

「うん。Aも一生懸命探した。でもなかなか見つからない。それを見かねた人、Bがここで登場します。Bはまず玩具屋に行って、まったく同じゲームを買ってきました。そして自分でプレイして、好感度を最大まで上げたんです。つまりデータを、Aが失くしたときの状態と同じにしたんですね。さらにはAが使ったシールのプリンターで、大きさもフォントも同じにしたAの名前シールも作って貼ってしまいます。これで本体も、Aが失くしたものと見分けが付かなくなりました」

「でも気づいたんだ」と栞奈ちゃん。「それが、本当の自分のペットじゃないって分かったんだ」

「その通り。どうしてだと思う?」

「飼い主だから」

「でもゲームの本体も同じ、中身も同じなんだよ? さて部長、どうしてでしょう」

 琉夏さんが自分の顎を摘まんだ。「考えつくことはいろいろあるけど、ひとまず皐月の話の内容に基づいて進めようか。つまり外見上の区別はいっさい付かなかったとする。まず思いつくのは、視覚以外の感覚で気づいた可能性だね。たとえば触覚。Aが所持していた個体には見えない傷が付いていて、新品とは感触が違った。あるいは聴覚。Aの個体はスピーカーの調子が悪くなってて、微妙に違う音しか出ていなかった」

「確かにそれなら、Aにはすぐ分かるね」楓さんが感心したように言う。「そしてBには操作しえない要素でもある」

「ええ。でも私は、このふたつは外れだと思ってます。なぜかというと、Aは玩具を大切にする子だって前提があるから。Aの持ってたゲーム機は新品同様だった、という条件を付け加えて考えましょう」

「だったらそれこそ気づきようがないんじゃない? 倉嶌さんが言ってるのは、セーブデータ含めてまったく同じゲーム機が二台あったってことでしょう?」

「そうです。だからAは、本体でもデータでもない部分で、Bによる工作を見破ったんですよ。ここでもう一度、皐月の言葉をそっくり繰り返してみましょう。Aは玩具を失くさないように工夫していました。気を付けていた、ではなく、工夫していた、なんです」

 楓さんは首を傾けて、「それはだから、名前シールを貼っておいたことでしょう?」

「それだけじゃない。持ち物に名前を書いておくのは、いわば失くしたあと手元に戻ってきやすくする工夫ですよね。Aはもうひとつ、失くさないための工夫もしておいたんです」

「本体はシールを除けば新品同様だったんじゃなかった?」

「はい。だからAは本体を弄ったんじゃないんです。例の玩具はキーホルダー型だって話でしたよね。ああいうのってたいてい、華奢なボールチェーンが付いてるでしょう」

 ああ、と楓さんが表情を明るくした。「事前に、自分で別の、もっと頑丈なのに換えておいたんだ」

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