リング・オブ・ライフ

下村アンダーソン

1

「――あいつ、入院したんだって?」漫然と部室に向かいかけていた私を呼び止めるなり、楠原律さんが尋ねてきた。

 私ははたと振り返って、「え、そうなんですか」

「なんだ、知らなかったのか」

 うっかり他人事のように答えてしまったせいか、彼女は呆れ顔を覗かせた。本当は単に驚いていて、咄嗟に的確な言葉が出てこなかったのみなのだが。

「部活を休むなら休むで、志島に連絡くらいしてるもんかと」

「来てないです。私も心配はしてたんですけど、入院したんですか」

 楠原さんは小さく頷き、両腕を組み合わせた。表情は例によって険しい。初めて相対したときは震えあがったものである――最近はさすがに慣れてきたが。

「私もただ二組の奴に聞いたってだけで、詳しい話は知らないけどな。じゃあ部活は無断欠席か。それとも顧問には話が行ってるのか」

「分からないです。それより、どうして入院?」

「病気とだけ。ついこのあいだまで元気でいたんだから、急な発病だったんだろうな」

 確かに琉夏さんは、先週までは普段と変わりなく部室に顔を見せていた。来なくなったのはこの一週間のことだ。

「ずっと病院なんですか」

「らしいよ。本当にお前、なんにも知らされてないんだな」

 私はなんだか呆然として、平坦なクリーム色をした廊下の壁を見ていた。胸中のざわめきが沈静化するまで、少し時間がかかった。

 入院したという倉嶌琉夏さんは、私の所属する杠葉高校文芸部の部長だ。消滅寸前だった部をたったひとりで再建した功労者ではあるのだが、その行動が文芸創作への情熱ゆえでないことは、この十箇月ほどではっきりと立証されている。部室での彼女をいちばんよく知っているのは、他でもないこの私、志島皐月である。

 ひとことで言い切ってしまうなら、琉夏さんは怠惰だ。独自に持ち込んできた漫画を読んだり、お菓子を摘まんだり、瞑想に耽ったりするばかりで、真面目に活動しようという意思は微塵も感じさせない。部員がふたりきりの弱小集団とはいえ、限度があると思う。

 そんな塩梅でのらくらと過ごしつづける彼女を、厳格で知られる生徒会が見逃すはずもない。ある出来事をきっかけに、倉嶌琉夏は要注意人物としてマークされるに至った。なかでもとくべつ琉夏さんを警戒しているのが、この楠原さんというわけだ。

「どこですか? 市民病院ですかね」

「たぶんそうだろ。雛が一緒に見舞いに行こうって言ってきたけど、倉嶌は嫌がるだろうし。お前が行ってやるといいんじゃないのか」

 さすがに嫌がりまではしないだろうと思ったが、確証がないので黙っていた。楠原さんのことも、同じく生徒会の一員である目黒雛さんのことも、琉夏さんはやたらと敵視しているのだ。

「時機を見て行ってきます」

「そうしろ。じゃあ」

 立ち話を終えると、楠原さんは足早に歩き去っていった。相も変わらず、生徒会の仕事が立て込んでいるらしい。本当にただ琉夏さんの様子を心配したがために、私に声をかけてきたのだろう。

 ひとりで部室に向かい、琉夏さんの定位置に視線をやった。もっとも大きな本棚の正面。他のものより僅かにクッション性の高い椅子を彼女は好んで、座ったままの姿勢でよく昼寝をしていた。机に突っ伏すより、背凭れに体重を預けていることのほうが多かった。後頭部はいつも、本棚の棚板に乗せていた。

 覚えているものだ。そんなだらしのない仕種が、今は無性に懐かしかった。

 スマートフォンで〈入院されたんですか?〉と打ち込み、楠原さんに話を聞いた旨を付け足そうか迷って、けっきょく消去した。代わりに〈体調はどうですか?〉とする。

〈心配かけたね。今はわりと落ち着いてる〉

 しばらくして送られてきた返答に、心から安堵した。なぜひとこと連絡を寄越さないのかと苦言しそうになったが、これも削除し、〈よかったです。どうしたんですか〉

〈急にぶっ倒れて救急車で運ばれた。ひどい目に遭ったよ〉

〈もう大丈夫なんですか?〉

〈とりあえずは。ただ入院は少し長引くかもしれない。検査の内容によってだけど〉

 病名は髄膜炎だという。「脳味噌の皺の隙間にウイルスが入り込んだ」と彼女は表現していた。髄膜というのは脳や脊髄を覆う組織のことだ。

〈大変でしたね。可能であればお見舞いに行こうと思うんですが、どうですか〉

〈悪いね。でも来てもらえたら嬉しい。私はいつでも大丈夫〉

 彼女らしからぬ率直な言葉遣いに、少し驚いた。普段の琉夏さんは飄然としていて、すぐには真意を捉えにくい発言を繰り返す癖がある。よほどのこと弱っているのかもしれない。

〈どういう状態なんですか〉

〈やっと寝たきりではなくなった。まだトイレと談話室くらいしか行けないけど。しんどさより暇さが勝るようになってきたから、一山超えられたのかな〉

 発症時の状況を教えてもらえた。金曜日の夜、普段通り夜更かしをしてネットサーフィンに耽っていると、彼女はふと頭痛を感じた。べつだん珍しくもないと思い無視していたが、症状はあっという間に悪化していく。脈打つようなリズムを伴った痛みではなく、頭部を均等に圧迫されつづけるような、重く平坦な感覚だったという。

 ともかくも眠りさえすれば治ると判断し、琉夏さんは床に就いた。しかしその晩は彼女にとり、「端的に言って地獄」だった。

 苦痛に耐えるのに疲れ、意識を失うようにして眠りに落ちる。ところがすぐに目が覚めてしまい、痛みのあまり止めどなく涙が出てくる。どのほどの時間そうしていたのか、彼女自身にも分からないという。

 いよいよどうにもならないと気が付き、夜が明ける前にスマートフォンで同居している家族に救助を要請した。その時点でもう、自力では立ち上がることすら覚束なくなっていたのだ。

 駆け付けた両親が、すぐさま救急車を呼んだ。しかし近隣の病院はどこも満室で、受け入れ先を見つけるのに手間取った。走る救急車の中で隊員が電話を架けつづけるあいだ、琉夏さんは「泣きながらげろを吐いて横たわっていた」そうである。

 けっきょく彼女は漣市にある某医院に運ばれた。本格的な検査が開始されたときには、すでに朝を迎えていた。満身創痍の琉夏さんは「なんでもいいから早く麻酔をしてほしい、痛みだけ取り除いてほしい」とだけ願っていたらしい。

〈じゃあ今もまだ、漣の病院にいるんですか〉

〈うん。担当になった医者に、この病気で死ぬ患者もいるって言われて、さすがにびびったよね〉

 深い吐息が洩れた。つい〈死んだりしませんよね?〉と問い質しそうになったほどだ。

 十六歳の志島皐月の人生から、十七歳の倉嶌琉夏が消える――まるきり想定していなかった事態である。しかしそれは起こりえたのだ。たとえば彼女が睡眠中の家族に遠慮して、助けを呼ばなければ。

〈私はまだ死なないよ、けっこうしぶといからね〉

 一瞬、心を読まれたのかと思った。私は平静を装って、〈知ってますよ。なにか持っていきましょうか〉

〈そうだなあ。食事はいちおう制限中なんだよね。知ってる? 病院食ってめちゃくちゃ味が薄いんだよ〉

 想像はつく。大の甘党である琉夏さんには、なかなかに耐えがたい事態だろう。〈いつものマシュマロでも、と思ったんですけど、お預けですね。どうします?〉

 本当に悩んだらしく、返信までに数分の間が開いた。しかし彼女の出してきた答えは、ある意味で私の予想通りのものだった。

〈だったら、なにか退屈凌ぎを〉

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