第10話 今しか言えないこと

 急いで病室のドアを開けると、美羽は看護師と一緒に笑顔でこちらに振り向いた。


「美羽! 大丈夫か?」

 裕星が駆け寄ると、「うん、心配掛けてごめんね。看護師さんが来て下さって、さっき先生にも診てもらったの。もう大丈夫だって! ごめんなさい、裕くん、お仕事だったのに……」

 包帯に包まれた顔で申し訳なさそうな表情をした。


「先生が意識もしっかりしていますし、脈も血圧も安定して、もう大丈夫ですと仰ってました」と看護師が一礼して出ていくと、裕星は包帯で巻かれた美羽に近づいた。



「バカだなぁ、美羽は本当に注意散漫なんだよ。――でも、良かった! 命に別状がなくて……いったい一人でどこに行こうとしてたんだよ」


「私が一人で? ――あれ? どこに行こうとしてたんだっけ? ごめんなさい、思い出せない……」


「いいよ、もう。とにかくゆっくり休んで早く治すんだぞ」


「うん、ありがとう。――あ、裕くん?」


「なんだ? 」

「――ううん、いいわ」


「どうしたんだよ。何か言いたいことがあるのか? 」

「あった気がしたんだけど……言おうとしたらもう忘れてしまって……」



 ハハハ、と裕星は笑った。

「美羽、もういいよ。 俺は朝までここにいるから、ゆっくり思い出せ」


 うふふ、と美羽に笑顔が戻ってきた。


 ──私は裕くんに何を言いたかったのかしら……忘れちゃったけど、でも、もし言うとしたら……。


『ありがとう、大好き』という言葉しか浮かばなかった。


 ──だから今伝えないと……いつでも伝えられるって思っていたら、もしかして、この事故がもっと大変なことになっていて私が死んでしまっていたら、二度と伝えることが出来なかったんだわ――。


 ……今伝えないと「いつか」は来ないこともあるんだから。


「裕くん、思い出したわ!」


「──なんだよ、急に……」

 裕星はソファに行こうとしていたが、驚いて振り返ると、美羽が裕星の方に首を傾けて静かに話し始めた。


「私は裕くんが大好き。これからもずっと変わらず大好きよ。それが言いたかったのよ。

 どんなに心で想っていても、言葉にしなければちゃんと伝わらないもの。それが分かったから……」


 裕星は突然の美羽の言葉に驚いたように立ちつくしていたが、優しく微笑んで美羽に近づいてきた。

「美羽……ありがとう。俺も……美羽の事が大好きだよ。誰よりも好きだよ! これからも俺はお前を離さない。何があっても一緒にいような。


 だけど、美羽の方から俺に好きって言ってくるなんて気持ち悪いな……まさか、お前! 大丈夫だよな? 具合悪くなってきたんじゃないよな? 死ぬんじゃないぞ!」と慌てて美羽にかけよって顔を覗き込んだ。


 ハハ、小さいけれど今の美羽の一番の笑い声が出た。

「死なないわよ! こんな怪我くらいじゃ、裕くんのことが心配で死ねないもの!」


「ハハハ、でも、これからは毎日何度でも言うよ! なぜか俺もそうしたいと思えてきたんだ。

 この事故は俺の背中を思い切り蹴飛ばしてくれた気がしたよ。お蔭で美羽の気持ちが確認できた。


 俺はずっと美羽は光太みたいな男と付き合った方が幸せになれるかもしれないと、お前を不幸な目に遭わせる度に頭によぎってたよ。

 光太なら美羽のこと大事にしてくれそうだし、俺なんかよりも大人だしな……きっと将来も変わらずお前を大切にでき……」


「そんな……! 私は裕くんだから好きになったんだよ! 裕くんでなければイヤなの!

 光太さんはとても優しくて完璧な人よ。でも、私が好きになったのは裕くんよ。

 裕くんはいつも私のことを守ってくれてるよ。私は今とっても幸せなの」


 裕星を真っ直ぐ見つめて話す美羽の顔を、今最大に照れてまともには見られない裕星がコホッと咳払いでごまかすと、

「──いやぁ、美羽を心配しすぎたせいか、俺はさっきまで可笑しな行動をしてたよ。

 美羽の意識が戻ったとたん、何を思ったか郊外まで車を走らせてたんだからな……可笑しいにもほどがあるよな」


「郊外に? 何しに行ってたの?」


「それが──分からないんだよ。近くに地蔵のほこらがあったから、お前の無事でも祈ってたんじゃないのかな? よく覚えてないんだ。きっと気が動転して無意識に車を走らせてたんだろうな」と笑った。


「お地蔵様? ――裕くん、それって木の年輪で造られた祠で、小さな丸い顔のお地蔵様だった?」


「う~ん、そういえばそんな地蔵だったな……」


「……やっぱり」


「なんだよ」


「───ううん。きっと何かあったのよ、きっと……。でも悪いことじゃ無いような気がするわ。きっと良いことがあったのね」


「ま、美羽がこうして意識を取り戻して話せるまでになったから、良いことがあったんだな」


「うん……」

 美羽は自分の意識の無い間に、きっと何か起きていたのだと感じた。






 3週間後、美羽は無事に退院できた。

 右手の骨折は大分治ってきて、小さな軽いギブス一つだけとなった。

 病院には裕星が迎えに来て、美羽を寮の部屋まで送り届けた。



 教会で待っていた天音神父とシスター伊藤は涙を流しながら美羽の退院を喜んでくれた。光太や陸たちには美羽が落ち着いてから会せればいい。

 とにかく美羽の体を一番に真っ直ぐ家に送りたかった。




 美羽は裕星を見送って部屋に入ると、なぜかこの部屋が懐かしい気持ちになった。

 シスター伊藤がきちんと部屋を掃除してくれていたお蔭で、部屋は入院前よりも綺麗に片付いていた。

 自分の部屋に帰った安堵感あんどかんで急激に眠気が襲ってきて、部屋着に着替えるとハァ~とベッドに倒れ込むようにして美羽はぐっすり眠ってしまっていた。


 耳障りのよい小鳥の声で瞼を開けると、爽やかな朝の光が美羽の顔に眩しく降り注いでいた。

 ああ、なんて素敵な朝だろう──。

 今までそんな気持ちで起きた朝があっただろうか? 美羽は清々すがすがしい気持ちでベッドの端に座った。

 すると、枕の下からキラリと光る小さなものが転がり出てきたのだ。


 ――なんだろ?

 美羽がつまんでみると、それは小さな花のデザインのヘアピンだった。


「あれ? このピン、私のじゃないわ。誰のものかしら? シスターのじゃないでしょうし……後で聞いてみよう」




 美羽は起き上って綺麗に整えられている机の上を見ると、あの日記が置いてあった。

 そうそう、私はこの日記を取りに裕くんの合宿所に行ったんだわ。

 でも、あれ? なんでこの日記が必要だったのかしら?

 

 美羽が動かせる左手で日記のページを開くと、事故のあった前日で終わっていた。

 ああ、この次の日に事故に遭ったのね。

 しかし、一枚めくると事故当日のページがあることに美羽は驚いてしまった。




 書いた覚えのないそのページには、誰か別の人間の字でこう書かれていた。

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