第7話 恋人の命の危機

 翌朝早く目を覚ました美羽は、結海を起こしていた。


「結海ちゃん、起きて! 今日が最後の日なのよ。今日は朝から早く出かけてお母さんに会いましょう! それからお父さんにも。お話ししたいことがあったんだよね?

 今夜は満月だから、ある場所に行かないと元の世界には帰れないのよ!」

 美羽は焦って結海を揺すっている。



 結海は揺すられながらも、やはり幼い子供のせいか、まだ眠そうに布団を被ってまるまっていた。


「結海ちゃん、お願い起きて! ねえ、元の世界に帰る前に結海ちゃんの願いを叶えたいの!」

 

「う~ん。まだ眠いよ……」

 なんとも覇気はきのない返事だった。あれほど一心に願っていた両親との話し合いを、眠たいせいで止めてしまうなんて……。


「でも、ほら、結海ちゃん! お母さんに言うことあったでしょ? 疲れちゃったの?」

「……う~ん、もういい」

 美羽は疲れ切って寝ている結海に、「ね、じゃあお姉ちゃんが行ってきてあげるから、お母さんの住所を教えてくれない?」

「……うん。ポケットの中……だよ……」

 寝ぼけて話す言葉が聞き取れなくて、美羽は結海の着ていた服のポケットを探ると紙切れのようなメモが入っていた。


 そこに書かれた住所に行けば、結海ちゃんのお母さんに会えるのね?

 美羽は支度を整えると、寝ている結海を置いて一人で外に出た。




 住所は子供の字でところどころ擦れていてよく見えなかった。それに未来の住所であるため今の番地とは少し違うようだった。

 ──う~ん? 近くではあるのね? 


 ぐるりと番地を辿りながら歩いていくと、通りを渡ってまた元に戻ってきてしまった。変ね、こうなっているから……この辺のはずなのに……。


 すると、大通りの道の向こうにやっと今起きたばかりと思われる結海の姿があった。

 着替えて支度してきたのか、なにやら向こうで手を振って大声で叫んでいた。


「結海ちゃん! ゆーうみちゃ~ん! 何? 聞こえない! そっちに行くから待ってて!」

 美羽は結海が起きてきたことが嬉しくて、急いで横断歩道の信号が青になった途端に走り出した。


 するとそのとき、大通りの赤信号を無視した車が横断歩道を渡っている美羽に気づかずスピードを落とさず突進してきた。


「美羽さん、危ないっ!!」


 結海は喉が張り裂けんばかりの声で叫んだ。



 美羽がふと見ると、正に手が触れるほど近くまで車が勢いよく迫っていたところだった。

 


 キキキキ――――――ッ!!


 車は美羽の身体をボンネットの上に跳ね上げてやっと止まった。そのまま美羽は力なく滑り落ち、地面に叩きつけられたのだった。



 一瞬何が起きたか美羽には理解できなかった。

 ただ地面があまりにも近すぎて焼けたタイヤの臭いが鼻腔びくうの奥に入り込んできて息苦しかった。

 横断歩道がはるか後ろに見えて、今いるのはさっき自分が歩いていた場所ではなかった。


 美羽は全く痛みを感じなかった。

 さっきまであんなに笑顔で手を振っていた結海が向こうで立ちすくんでいる姿が横になって見えた。

 大丈夫だよ、と言ってあげたかった。だって、少しも痛くないのだから……。

 手足に力が入らなかった。足はどこにあるのか、繋がっているのか全く感覚が無かったが、目線を動かすとちゃんと手足が体につながっていてホッとした。



 すると突然不安が襲いかかってきた。

 ── 裕くん…… どこ? 裕くんに逢いたい…… 。今まで私は本当に幸せだった。なぜ今そんなことを想うのだろう―― 。フフ、可笑しいな。顔が熱い。太陽が熱いからかな…… 。


 美羽は自分の状況が全く分かっていなかった。地面にうつ伏した頬にコンクリートの粗いデコボコした感触と、熱せられたフライパンを押し付けられているような、火傷やけどしそうな感触があった。



 ピーポーピーポー ────


 ほどなくして大きなサイレンが聞こえてきた。

 大丈夫ですか? 大きな声の方を見ると、ヘルメットに白い服を着た救急隊員がマスクをしたまま声を掛けていた。


「はい、なんともありません。大丈夫です」

 そう美羽は言ったつもりだった。しかし全く声は発せられていなかった。

 担架たんかに乗せられて見えた青空がギラギラ眩しくて目を閉じた。


「……さん! ……美羽さん!」

 その声で瞼を開けると、担架にすがるようにくっ付いてきた結海が泣いているのが見えた。

 しかしすぐに救急車の後部から滑るように乗せられた担架の上からは、もう結海の顔が見ることができなくなってしまった。


「ここはどこですか? 私はどうしたんですか? 」


 美羽は声を出そうとしたが、手も足も首も唇さえも動かなかった。唯一動く眼を動かして、周りを確認した。


「裕くん! 裕くん!」

 美羽は心で何度も何度も裕星の名前を叫び続けていた。






 結海は美羽が事故に遭ったことを裕星に知らせるために、泣きながらシスター伊藤の元に走った。


「シスター! 裕星さんに知らせて! 早く早くっ!」

 激しく泣きながら叫ぶ結海を見て、シスターは全く事態が呑み込めなかった。


「どうしたの? 裕星さんに何を知らせるの? 」興奮して泣きじゃくる結海の両頬を擦りながら言った。


「―― 美羽さんが車にひかれちゃったの! 死んじゃうかもしれない! 助けて! 」言い終えるとワァーンと大声で泣きながら抱きついてきた。


 シスターは事の重大さを知って慌てた。

「美羽が? どこでそんなことに? 」

「あそこ! あの交差点で車が美羽さんを跳ね飛ばしたの! 」


 ワンワン泣いて言葉がつまって嗚咽している結海を抱きしめて「分かったわ! どこの病院に行ったか調べましょう! 」と急いで電話を取った。



 そして、病院名を突き止めると、すぐに結海の願いどおり裕星に連絡を入れた。




 裕星は稽古場けいこばでリハの真っただ中だった。

 マネージャーから直に呼び出された裕星は「何事ですか? 」と異例の事態に嫌な予感がした。


 リハ会場でシスターからの電話を受けると、裕星はその場に崩れそうになるほどのショックを受けた。

 やっと立っていられるのが不思議なほどだったが、とにかく詳しく聞くために気丈に振る舞い電話の声に集中した。


「はい、はい、慶明けいめい大学病院ですね? 分かりました、すぐに向かいます! 」

 裕星は電話を切ると、急いで光太と陸に事情を話し、すぐに車で病院に向かった。



 美羽は手術を終えて集中治療室に移され絶対安静状態だった。

 出てきた医師が裕星を見つけ「ご家族の方ですか? 」と聞いた。

「家族ではありませんが、親しい者です」と答えると、「ご家族の方は? 」と聞き返すので、「彼女の家族は後から来ますが、僕は彼女の婚約者なので、話を聞かせてくれませんか? 」と申し出た。


「分かりました。そういうご事情なら申し上げます。手術は成功しました。打撲と骨折はありますが、幸いにも内臓は損傷されておりませんでした。ただ頭を強く打っていますのでしばらくは安静が必要です。

 今夜はここで様子を見ますが、もしご心配の様でしたら部屋のソファーで休まれても結構です。

 看護師が巡回しておりますが、もし意識が戻りましたらすぐに知らせてください」そういうと頭を下げて行ってしまった。


 裕星は頭を下げ医師を見送ると、美羽の病室に恐る恐る入っていった。

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