第9話 お別れのチュウ
「ナツー、しゃっかーしよう」
リオが床に転がっているサッカーボールを指さしながらお友達でも誘うように、僕の袖を引いた。
「いいよ。しよっか」
「しよーしよー」
リオはベッドの上で飛び跳ねる。
僕はリオは抱えベッドから降ろした。
コロコロとリオの足元にサッカーボールを転がす。
リオはそれをポーンと蹴り上げる。変な隣人のいる方の壁にドンっとぶつかった。
やっば! また怒られちゃうかも。
そんな僕の心配を他所に、リオはキャッキャとはしゃぐ。
絶対にキャッチしなくてはいけない。勢いを殺し、コロコローと優しく転がす。
ポーン
ゴールキーパーの僕は、守護神よろしく、横に飛び上がりキャッチする。
大げさに受け身を取り、床に転がった。その姿にリオはキャッキャと喜ぶ。
「ナイスセーブ」と先輩が湯を沸かしながら微笑む。
「ないっせー!」とリオが手を叩く。
「足、強いですねぇ。さすが先輩の息子! センスありますねー」
先輩は「だろー」と親ばかを発揮した。
またコロコロと転がすと、次は大げさに足を振り切った割に、帰ってきたボールはゴロで、足の裏で止め、蹴り返す。
まっすぐにリオの足元にボールは収まった。
右に向いた体から放たれたフリーキックは、予想に反して大きく左に飛んだ。
危ない!! 僕は体を大きく左に振る。
「ナイスセーブ!!」
「ないせーー」
リオは大喜びでキャッキャとはしゃぐ。
そこへ、ドン!っと壁が震えた。ユーチューバーもどきだ。
「うっせぇな! この野郎! ぶっ殺すぞ!」
とくぐもった声は語尾がかっこ悪く裏返った。よっぽど力んだんだろう。
「だっせー」と僕と先輩は笑ったが、リオはまた怖がって僕の足元に飛びついて来た。
指をちゅっちゅと吸っている。
不安な時や怖い時にする癖らしい。大きな目をキョロキョロさせて声の主を探そうとする。
壁がしゃべったと思っているかも知れない。面白くて、愛おしくて、可愛い。
汗ばんでいるリオを僕は抱き上げる。
「怖かったね。大丈夫だよ。きっと青白いもやしみたいな奴だよ。見た事ないけど」
とリオの胸元に頭をぐりぐりと押し付ける。
くすぐったそうにキャハハハハと仰け反って奇声を上げる。
「思いっきりボール遊びできる家に引っ越したいですよね」
「23区じゃ無理だろう。まともにボール蹴れる公園もないよな」
「こういう時、地元が恋しくなりますよね。グランドも小学校の校庭も解放してあって、ボールさえ持って行けばいつでもサッカーできたのに」
「そうだな。でも、田舎でこの関係の子育ては難しいだろう。すぐに変な噂立てられるぞ」
先輩は鍋のみそ汁をお玉で救い、一口啜って僕を見た。
「ですね」
来るはずもない将来を憂いて、なんだかくすぐったい気持ちになった。
虚しいはずなのに、先輩の口からそんな言葉が出た事が、僕はどこか嬉しく、妙にくすぐったかった。
「ナツ、これちょっと味、わかんない」
僕は鍋の様子を見に行った。
豆腐とわかめ、それにだいぶ煮詰まって色が変わったネギが浮いている。
お玉で小皿に少し移し、あら熱をとって飲んでみた。
「鰹節、どれぐらい入れました?」
「これぐらい」と先輩は指先で少量の鰹節をつまんで見せた。
「これぐらいが適量です」と僕は袋の中の鰹節を鷲掴みにしてみせる。
「そんなに?」と先輩が驚く。
味噌入れた後なので、もう遅い。
僕は滅多に使わない粉末出汁を先輩に差し出した。
「出汁が足りなかった時の救世主」
「どれぐらい入れればいいの?」
「小さじ2杯ぐらいで味見してください。小皿に移して少し冷ました方が味解りやすいですよ」
「そうなのか。わかった」
炊飯器のご飯が炊きあがった頃、先輩特製の朝ごはんが出来上がった。
盛大に湯気を上げる味噌汁と、艶やかな炊き立てご飯。それに固まった炒り卵。
リオはテーブルの前にちょこんと座り、パチンと顔の前で手を合わせる。
僕はその姿を目に焼き付ける。今度会った時もまだこんなに可愛らしいだろうか? 僕を覚えていてくれるだろうか?
「いたらきます!」
グーで握った大人用のお箸は持ちにくそうで、小皿に取った炒り卵は当然上手く口に運ぶ事はできない。
僕は、立ち上がり、食器棚から小さめのフォークを持って来てあげた。
そのフォークで、先輩が初めて作った卵焼きを、リオは大きな口を開けてパクっと頬張る。まいうーは出て来なかったがおしそうに食べている。
湯気と一緒に汁まで吹き飛びそうな勢いで、お椀のみそ汁に向かってふーーーふーーーと尖らせた口で息を吹きかける。
僕はスマホで先輩が作った朝ごはんと一緒に、リオの写真を何ショットも撮った。
それは親権を取るために有利になるようにするものではなく、リオと先輩と僕との大切な思い出として。
過ぎて行く時間はどれも平等で、決して戻る事はない尊い物だと思う。
子供の成長はとてつもなく早い。もう二度と味わう事のない感動や喜びが一緒に過ごす時間の中にたくさん詰まっている。
昨日のかわいい仕草はもう今日には見られないんだと言う事を僕は知った。
まいうーってずっとやってくれるのだと思っていた。
先輩が僕の背中を摩った。
僕の頬が涙でぐちゃぐちゃになっていたからだろう。
「ナツ、味噌汁しょっぱかった。やっぱりお前が作ったみそ汁が美味いよ」
「粉末出汁入れすぎたんですかね」
先輩の顔を見たら、先輩も泣いていた。
しょっぱかったのは、味噌汁じゃなくて、涙だ。
僕はズルズルっと味噌汁を啜る音で、鼻をすする音を誤魔化した。
◇
「行ってらっしゃい」
「本当にいいのか、一緒に行かなくて」
「僕、泣かない自信ないので」
僕は駅まで一緒に行かない事にした。パパのお友達が号泣していたらどう考えても変だろう。
「リオ、また会おうな」と、頭を撫でた。
リオはさっきまで、「ナツも一緒―」と言ってくれていたが、今は先輩に抱っこされ、ママに会える喜びでテンションが上がっている。
「リオ、ナツにちゅうしてあげて」と先輩が言った。
「ちゅうして、ちゅうしてー」と頬を近付けると僕に抱き付きながらぶちゅーっと濃厚なキスをしてくれた。
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