新宿二丁目ラブストーリー
神楽耶 夏輝
第一章 叶わない恋
第1話 再会
「あら、あんた! どうしたの、その顔? 腐った魚みたいな顔しちゃって。そんな顔で店出る気?」
腐った魚みたいな顔?? 死んだ魚の目じゃなくて!?
とんでもなく失礼で、この上なく今の僕にぴったりの比喩だ。
神々しい金髪アフロ。ノースリーブから露出した流線形の逞しい二の腕。金運アップしそうな
ゲイバーミラノのしんごママだ。
ミラノはゲイオンリーのお店。
観光バーではないので、ママがそんなド派手な格好をする必要はないかのように思われるが、そういう趣味なのだろう。或いはプライベートでは、意外にもクローゼットなのか。
どこの誰だかわからないようにするためのカモフラージュ、或いは隣のミックスバーのママに対するマウントなのかもしれない。
本人に聞いた事はないので、僕にはよくわからない。
ここは新宿2丁目。
言わずと知れた、ゲイタウン。
この店、いやこの町は、少数派の僕が、唯一自分らしくいられる場所のはずだ。
僕だって、昨日までは水を得た魚のように、この店でピチピチと目を輝かせていた。
その目が腐ってしまったのには、もちろんちゃんと理由がある。
あれはちょうど、一週間前の月曜日。
――Monday
いくつかの台風が過ぎ去り、久々にまぁるい月が夜空に姿を現した夜だった。
深夜12時を回った頃だ。
「今日は暇ね、もう閉めようかしら」
しんごママがカウンターでタバコをふかしながら、3度目の心の声を漏らした。
かつては、マイノリティたちの出会いの場として活気のあったココ二丁目も、今はすっかり閑古鳥が鳴いているお店も多い。
例に違わず、ゲイバーミラノも常連さんが来ない日は、閑古鳥の住処と化している。
そろそろか……。
閉店の準備をしておこうと、立ち上がった僕のポケットの中で、携帯がふるえた。
着信画面には番号のみが表示されていて、見覚えのない番号だった。
「だれだろう?」
誰に言うともなく、何となく、そう本当に何となく、通話ボタンをタッチした。
こういう事はよくある。何故なら僕は特別な人の番号しか登録しないからだ。
恋人や、仲のいい友達。
名前のない番号や非通知には基本無理して出ないし、わざわざ掛けなおしたりもしない。
そんな僕が、思わず通話ボタンをタッチしたのは、暇を持て余していたからに他ならない。
誰かしらの話し相手、或いは遊びの誘いでも乗るつもりだったのだ。
その着信の相手は、僕から平常心をうばった。
『ナツ……
明らかに泥酔しているとわかる。
電話越しにも関わらず、今にも酒臭い吐息が漂ってきそうな声が鼓膜を震わせた。
僕は店では
本名で、しかもフルネームで僕を呼ぶという事は、プライベートの知り合いという事だ。
僕はまるで、別世界の何者かに魂を奪われたかのように、固まった。
まばたきも忘れ、鯉のように口をパクパクとさせた後、ゴクリと唾液で喉を潤した。
「あっ、あ……」
頭を左右に振り、乾いた目をぱちくりとさせ、この衝撃を分かち合う相手を探す。
――誰もいない。
僕がこの人の声を聞き間違えるわけがない。忘れるわけがない。
「ハ、ハル先輩」
僕はようやく声を絞り出した。
『おお、おぼえてた?』
「当たり前じゃないですか。忘れるわけないですよ。どうしました?」
その直後――。
『もしもし……』。女の声!
◇
それから数分後。
僕は新宿歌舞伎町の赤い門をくぐった。
ゴミゴミと愉しげに人がこすれ合うすきまを、縫うようにステップを踏み、【みらくるサワー】というスナックを目指した。
目的のビルはラブホの向かい側にあり、景気よさげにきらびやかに
このビルの一階。いくつかの飲食店が、向かい合わせに並ぶ通路の一番奥の突き当り。
紫色のネオンサインが視界に映った。
場所を上手く説明できない先輩に代わって、みらくるサワーのママが僕に丁寧に場所を教えてくれたのだ。
重そうな扉を、僕は軽々と、そして勢いよく開けた。
シャリーーーン!
カウンタ―に突っ伏して、すっかり意識を失くしているらしい客。それがハル先輩だと、僕ははすぐにわかった。
というよりは、ハル先輩しか見えていなかった。
◇
「先輩、送りますよ。住所言えますか?」
「……ない……の」
そう言って、タクシーの後部座席に乗り込んだ後、先輩はずっしりと僕の肩にもたれかかり、「帰るとこ……ないんだよ。助けて……ナツ」と目を閉じた。
グラグラと座らない首は、時々僕の肩からずり落ちそうになる。
白いTシャツにH&Mの黒シャツ。少しダボついたジーンズにどこかのブランドっぽいレザーの肩掛けバッグ。胸にはシルバーのごついネックレス。
見たところ、仕事帰りのようで、とても家出してきたとは思えない様相だった。気になる点が二つ。
一つ目。シャツは洗いっ放しでアイロンがかかっていないのか皺が目立っていたという事。
二つ目。顔色はなんだかよくなくてやつれて見えた。
「僕んち行きますか?」
ハル先輩は、コクっと頷いたかと思ったら、僕の肩で息を引き取ったかのようにまどろみの向こう側に落ちた。
僕はタクシーの運転手に、1メーターの距離の自宅アパートの場所を告げた。
「すいません。近くで」と言う気遣いも忘れない。
僕の顔のすぐ横に、ハル先輩の頭がある。
タバコとアルコールが入り混じった匂いを立たせて、意識を失っている。
「……先輩」
小さな声で眠りの深さを確かめる。反応はない。
ネオンや対向車のヘッドライトに照らされたハル先輩の髪は、柔らかいブラウンで、根元1センチ程が黒い。
僕は、その頭にそっと頬を寄せてみた。やっぱり反応はない。
頬を寄せた場所に、震える唇でそっと触れた。
8年ぶりに僕の前に現れた彼の名前は、
中学、高校の2年上の先輩で、部活も同じサッカー部だった。
スポーツ推薦で高校に入学した先輩を追いかけるようにして、僕は同じ高校に入学した。
がっちり体系で身長も180㎝超えの僕は、ゴールキーパーだった。
本当は先輩と一緒にフィールドプレイヤーがやりたかったが、高校に入ってからはずっとキーパーをさせられていた。やりたい事とできる事は違う。
昔から僕はそんなジレンマの中で大人になった。
恋愛に関して言えば、好きな人とは決して付き合えない。
付き合える人と、仕方なく付き合う。
付き合える人と言うのは、同じマイノリティを持った人たちだ。
数少ないお仲間の中から、交われる相手を探す。僕たちゲイにとってはそれが当たり前の恋愛なのだ。
それでも僕は体を重ねた相手を大事にしてきたし、情とか恋慕とかも感じていた。
それで満足だった。
僕の初恋は中学1年の時。
その相手が七瀬陽人。その名はまるで机に彫刻刀で刻んだように、簡単には消し去る事はできない。
忘れたくても決して忘れる事ができない人。
僕の肩で深い眠りについている人だ。
ハル先輩が何故、帰る場所がなくなったのかを知る事になったのは次の日の朝だった。
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