第6話 欲求不満

 小一時間、リオの泣き叫ぶ声を聞いていただろうか。

 ドンっと、ソファ側の壁が震えた。すごい音だった。

 それに反応したリオは、一瞬で泣き止んだ。


 次の瞬間

「うるせー、静かにしろや」とくぐもった声。


 隣の住人だ。

 大学生なのか、フリーターなのか分からないが、昼間も在宅している変人。

 まぁ、僕も変わらないが。

 僕の予想では底辺のユーチューバー。

 物音に敏感で、すぐに苦情を言ってくるのだ。

 だが、この時はその底辺ユーチューバーもどきが救いの神だった。


 リオはピタっと泣くのをやめ、恐怖に顔を引き攣らせ、弾かれたように僕の所にやって来て、足元にぎゅっとしがみついた。


 僕は急いでリオを抱き上げ、抱きしめた。


「怖かったね。ごめんね」と頭を撫でると、人差し指をちゅっちゅとしながら、僕の胸に頬を押し付けた。


 変わり者の隣人、ありがとう。


 リオは、ひっくひっくとしゃっくりは止まらないが、もう涙は出ていない。

 ベッドサイドのティッシュを引き抜き、涙と鼻水を拭き取った。


「お買い物に行こうか?」と言うと、うんと頷き「おかしかっていい?」と濡れたまつ毛を瞬かせた。


「いいよ。でもチョコはダメだよ。虫歯になるから」


「ポッキーはいい?」


「ポッキーは周りにチョコが付いてるけど中が普通のお菓子だから、いいよ」


 僕もなかなかのバカ親だ。喉の奥にきゅんと込み上げる幸せを味わいながら、リオの服を着替えさせ、手を繋ぎ出かけた。



 帰り道、泣き疲れたのか、人混みに酔ったのか、リオは「おんぶー」と僕のパーカーを引っ張った。


「はいはい。おいで」とリオを片手で背負い、アパートの階段を上る。

 先輩を負ぶってこの階段を上ったのは、遠い昔のような気がするが、あれからまだ三ヶ月も経っていないのか。


 先輩よりもはるかに軽いはずのリオは、なぜかずっしりとした存在感があった。

 一段一段踏みしめながら上り終え、よいしょと背に乗せ直し、玄関の鍵を開けた。


 レジ袋をテーブルに乗せ、リオをそっとベッドに寝かせた。

 まだ昼前だ。変な時間にお昼寝させてしまった。

 そう反省しながら、僕もしばしリオの隣に横たわる。

 少し仮眠しようと思ったが、朝食の後の食器もそのままだ。

 きしむ体を奮い立たせ、テーブルを片付けた。


 ◇


「あら、あんた、男色ディーノが4Pしたみたいな顔しちゃって」

 ママは僕の顔を指さし、また変な比喩をぶっ込んでくる。

 ちょっと何言ってるのかわかんない。


「疲れた顔って言いたいんですか?」


「でも、充実した顔」


 いやらしい目だ。


「男色ディーノってなんですか?」


「は? あんた知らないの? ゲイのプロレスラーよ! それはそれはセンシュアル!」とお祈りのように両手を組み胸元に添えた。


「僕、プロレス見ないんで。サッカーしか興味ないんで」


「スポーツまで一途なのね。クソ面白くない男だわ」


 僕はあの後、食器を片付け、掃除に洗濯、リオのお昼を作り、晩御飯の支度をし、3時頃起きたリオと全力で遊び、先輩と交代して、この時間を迎えたのだ。


 そりゃあ疲れているが、確かに充実感はある。


 ――なんて僕にぴったりの比喩だ!


 僕は携帯で男色ディーノを検索した。なるほど。なかなかセンシュアル。と言うよりはセンシティブ。

 そんな事を思った瞬間、ドアが開いた。


「いらっしゃいま……」

 せーーーえーーー!! 男色ディーノ!


 に、似たギラギラマッチョのゲイが楽し気に入って来た。初めて見る顔だ。

 冬場だと言うのに、ぴったりの半袖Tシャツにピチピチのデニムパンツ。

 その後ろから、トレンチコートを上品に着こなす華奢な美少年……


「ミチル!!!」

 

「久しぶり」


 今回は確かに、久しぶりだ。

 ミチルは顔の横でヒラヒラと手を振りながら入って来た。

 うっすらとお化粧しているようで、肌が陶器のように艶めいていて、目はカラコンでグレーっぽくなっている。久しぶりに見るミチルは、なんだかグレードアップしていた。

 

 仲睦まじく、ディーノと隣同志でカウンターに腰かけ、「芋焼酎。ボトル入れて」と言った。


 僕は言われた通り、新品のボトルの封をミチルの前で切り、「割り方は?」と訊く。


「いつも通りで」

 いつも通りならロックだ。


「なんで芋? 酒の好み変わったの?」


「うん、まぁね。男の好みだけは変わらないけど」

 そういって、愛しそうにディーノを見た。


「彼もロックでいいの?」


「うん」ミチルが答える。


 僕は、ロックグラスを二つ並べ、氷の上からゆっくり透明の液体を注ぐ。

 ふとカウンターに視線を向けると、ディーノがミチルの耳たぶを噛んでいる。

 ミチルはくすぐったそうに、嬉しそうに肩を竦める。


 ヤバい。興奮する。ホテル行けよ! それとも元彼の前でイチャイチャして楽しむっていう新手のプレイか?


 僕は、はっきり言って溜まっている。

 そういう意味では、正直ミチルが恋しい。


「ナツ君も飲めば?」ミチルが上から目線で僕に言う。


「僕、響。店で本名呼ぶのやめてくれる?」


「なんか怒ってる? もしかして妬いてんの?」


 妬いてる。っていうか溜まってる。


「妬くかよ」


 ディーノは事情を知らないのか、口をぽかんと開け、僕とミチルの顔を交互に見ている。


「よかったね。幸せそうで。安心した」


 僕は皮肉を隠し、にっこりと口角を上げた。ミチルは答えない。


「ドタイプだろ。一番幸せ、更新した?」


 ミチルはケラケラと笑い出した。


「ウケる! ナツ君分かりやす過ぎ!」


「は?」


「ナツ君、僕が恋しくなってきてる頃かな、なんて思ってたけど、ビンゴだった?」


 小悪魔め!


「でも残念。一番幸せ、更新できそうなんだ」

 と、ディーノに目線を移す。


「彼、日本人に見えるかも知れないけど、日本語全然わからないんだ。タイ人。英語なら少し通じるよ」


「何語でしゃべってるの?」


「タイ語」


「ミチル、タイ語喋れるの?」


「まぁね。片言だけど。英語と混ぜこぜ、身振り手振り」と両手をくにゃくにゃと動かした。


「何しに来たの?」


「飲みに来たに決まってんじゃん」


「僕、タイ語も英語も喋れないから、そのミチルのドタイプの彼、楽しませる事できないけどいい?」


 ミチルは何やらタイ語とやらで、ペラペラとディーノに説明している。通訳してるのか?


 ディーノは真剣な面持ちで頷きながらミチルの話を聞いていて、最終的に「Hahahahahaha」と笑った。


 やめろ!


「何て言ったの?」


「内緒」


 ミチルはそう言ってゆっくり瞬きしながら、口元でグラスを傾ける。

 長いまつ毛が上下するのをつい見つめていた。


「この後ちょっと付き合ってよ。相談したい事があるんだ」


 ミチルは少し神妙な顔つきでそう言った。


「彼は?」


 僕はディーノに目線を落とした。


「彼は後30分ぐらいで帰るんだ。予定があるんだって」


 明日は土曜日。

 先輩は仕事休みで、僕も少しゆっくりできるかも知れない。

 迷う。この後、ミチルと二人っきりになったら、僕はミチルをホテルに誘ってしまいそうだ。

 心じゃなくて体がミチルを欲しがっている。

 一度ぐらいなら……いいわけない!


 僕は、リオのママになるんだ。先輩を愛している。セックスはできなくても、一緒にいられるだけで幸せなんだ。と、心の中で自分に言いきかせた。


「相談ならここで聞くよ」

 僕は優しく微笑んだ。


「ここじゃできない相談なんだ。心配しないでよ。僕襲ったりしないし、ナツ君に襲われてもちゃんと拒否るから」


 ミチルは真剣な面持ちでそう言った。

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