第3話 偽り
――Tuesday
再会の夜が明けた。ソファで眠った僕は、いつも通り朝8時に起床する。
先輩は、慣れない寝床のせいか、時々寝苦しそうに寝返りを打っては、無防備な肢体を見え隠れさせていた。そんな姿に
無防備な肢体に仕上げたのは僕なんだが。
BL漫画なら、既成事実を作って、それをネタに先輩を脅し【ノンケの先輩を飼いならしてみました】というタイトルでも付けたいところだ。
しかし、僕にはそんな度胸はないので妄想にとどめておく。
BL漫画は嫌いじゃない。寧ろ好きだ。
ただ、リアルの本棚に並べる勇気はなく、あくまでも電子書籍で楽しむ。こっそりと……
一人暮らし用の小さなキッチンで鍋に湯を沸かす。
鰹節で
小気味いい包丁の音で目を覚ましたのか、ベッドから先輩の雄叫びが聞こえた。
「ええええええええーーーーーーー!!!」
雄叫びの理由はすぐにわかった。
素っ裸の自分に驚いたのだろう。
手を洗い、洗濯、乾燥済みで畳んでおいた服を、先輩に差し出した。
僕の顔を見た先輩は、驚きと謎を一層深めた顔で、固まってしまった。
どうやら、僕に電話で助けを求めた事さえ、記憶にないらしい。
「忘れたんですか? 昨日僕に助けてくれって電話してきたの」
「へ?」
そんなとぼけた返事の後、キョロキョロとベッドの上を何やら捜索し始めた。
まるで言葉が通じない異世界人のようだ。
言葉が通じるか試してみた。
「これですか?」
昨夜、ジーンズのポケットから出して、サイドテーブルに置いておいた先輩のスマホを差し出すと「あ、ありがとう」と言った。
通じた。
8割驚愕、2割の愛想笑いを浮かべて、僕を何度も見上げながら、先輩はスマホのロックを解除した。
「本当だ。いろんな人に電話して、誰も出なかったんだな。そっか俺、財布なくしたんだった」
独り言のように呟いた後、気まずそうに僕の顔を見た。
「たまたま僕近くにいたから、思い出してもらえてよかったです」
ピンポイントに僕に連絡したわけではなく、手あたり次第に電話した結果、僕が釣れたというわけだ。
「僕も昨夜、歌舞伎町の近くにいたので」
正確には、新宿二丁目。
二丁目でも十分通じる、言わずもがなゲイのメッカ。
「悪かったな。会計いくらだった?」
「一万五千円ぐらいでした。焼酎のボトル入れてたみたいだったので、七瀬陽人って書いておきました。3分の1ぐらい残ってましたよ」
「ああ、ありがとう。近々、いろ付けて返すわ」
「別に色は付けなくていいですよ。それより、カード類大丈夫ですか? 止めたり再発行急いだ方がいいんじゃ……」
「そだな」
僕は高校卒業と同時にガラケーを解約し、スマホを購入していた。電話番号の引継ぎはしなかった。
それまでの人間関係を、一切断ち切りたかったからだ。
新しいスマホにして真っ先にした事。それは、フェイスブックで先輩を見つけメッセージを送った事だった。
東京の調理師専門学校に行く事と、新しい携帯番号、そしてもう地元には帰らないつもりだ、という青臭いメッセージを送った。
その直後、僕は先輩の返信を待たず、フェイスブックから退会した。
先輩が僕の番号を登録してくれるか、連絡をくれるかは、一か八かの賭けだった。頭の片隅にでも僕が同じ東京にいるという事を覚えていてくれたらそれでいいと思っていた。
「もうすぐメシできますよ。シャワー浴びますか? 歯ブラシ、予備があるんで使ってください」
「悪いな。何から何まで」
先輩は観念したように、肩の力を抜き、ようやく僕と向き合った。
「いえ、先輩の家まで送ろうと思ったんですけど、先輩わけありみたいで、住所言わずに気を失ったように眠ったので、ここに連れてきました。ここ僕の家です」
「悪かったな。本当」
「いえ、嬉しかったですよ。また先輩に会えて。それより大丈夫ですか? 二日酔い。水飲みますか?」
「うん。悪い」
僕は冷蔵庫から500mlのミネラルウォーターを取り出し、ボトルごと渡した。
砂漠で飢えた旅人のように、先輩はゴクゴク喉仏を上下させながら水を飲んだ。
「先輩、仕事は? 休みですか?」
風貌からして、美容師になっている事は一目瞭然だった。
「うん。今日は休み。お前仕事は?」
「僕、夜なんで」
「ああ、飲食店? そう言えば調理師学校行ったんだったな」
どうやら僕の作戦は、功を奏していたようだった。先輩はちゃんとメッセージを読んでくれていたんだ。自然と甘酸っぱい感情が込み上げる。
「シャワー浴びちゃってください。僕、メシ準備しておくので」
僕は、意図的に話を逸らした。
これ以上聞かれたら、また嘘を吐かないといけなくなる。ゲイバーで働いているなんて、知られたくない。
どうせ嘘で固めて生きてきたんだ。本当の事なんて、別に言わなくてもいい。
いつも、自分で自分の心を抉りながら生きてきた。
ノンケの人の前ではゲイである事を隠し、LGBTについては差別もしないし否定もしない。そんな人間を装い、自分で自分を嫌悪しながら、これからも生きていくんだ。
と言っても、プライベートの友達といえば、専門時代の同期がたまに合コンや飲み会に誘ってくれるぐらいで、それ以外の交友関係は、ないに等しい。
合コンは誘われても断固断る。
ノンケの友達といる時は、人並みに「彼女欲しいな」なんて呟いて、異性愛者を装う。
実際に紹介してもらった女の子とは、一度も会わず自然消滅。
だって、困るだろう。下手に好意を持たれても。異性愛者の人は想像してみてほしい。よく知りもしない同性との飲み会やデートを。
異業種交流で名刺交換という目的があるならまだしも……。
挙句の果てに、その同性からセックスを前提に付き合って欲しいと、言い寄られた時の気まずさ。
僕たち同性愛者はそんな感覚を、異性に対して持っていると言うわけだ。
サイドテーブルにみそ汁と卵がゆ、トマトのマリネを並べた。
二日酔いでもサラサラと胃に収められるよう、消化のいい料理にした。
先輩は、真っ先に汁椀を両手で包み込むようにして鼻先まで持ち上げると、湯気を吸いこんだ。そして、幸せそうにみそ汁をすすった。
「あーーーっ。美味い! こんな美味いみそ汁、久しぶりに食ったなー」
「そんな事ないでしょう。 奥さん作ってくれないんですか?」
僕は、結婚指輪に目配せしながら、平然とそう言って見せた。
「作んない作んない」
先輩は箸を持ったままの手を、顔の前で左右に振った。
「それに、離婚する事になったんだ。昨日、離婚届けにサインしたよ」
僕は、箸を止めた。
「それで、帰るとこないって……?」
「帰ってもよかったんだけど、なんとなく一緒に居づらくて。朝になったらあいつ仕事に出るから、その時に荷物まとめようかと思ってた。住んでたマンションはあいつの親名義だから、当然のように俺が出て行くことになったってわけ」
この幸運を、棚からぼたもちと呼ばず、なんと呼べばいいのだろう。
「住むとこあるんですか?」
「取り敢えずウィークリーマンションでも借りるよ」
「あの、もしよかったら、部屋見つかるまでここにいてくださいよ。僕、仕事は夜だし、先輩、仕事帰って来てから、ゆっくり一人の時間取れるでしょ。僕、帰って来るの夜中なんですけど、先輩が休んでるの邪魔したりしないんで」
「マジか。いいの?」
「もちろん」
付き合えなくてもいい。愛されなくてもいい。少しの間だけでも傍にいられればそれでいい。
「子供は? いなかったんですか?」
僕が訊いた。
「いるんだよ。一人」
「男、女どっちですか?」
「男。3歳になったばかりなんだ」
そして先輩は目を伏せた。
「忘れちゃうかもな。俺の事……」
「会ったりとかはしないんですか?」
「子供が会いたいって言えば、会わせるとは言ってたけど……、言ってくれるかな」
「言ってくれるといいですね」
その言葉に、先輩は自信なさげにうなづいた。
「お前、彼女とかいないの?」
と、今度は先輩が訊いた。一番いやな質問だが、ノンケの間では当たり前の会話なんだ。男には彼女。女には彼氏いないの? と訊ねるのは、極めて一般的なコミュニケーションなのだ。
「いますよ。でも部屋には連れてこないんで、心配しないでください。もちろん先輩も、女連れ込まないでくださいよ」
「当たり前だろう」
彼女がいると言うのは嘘で、実際には彼氏がいる、が正しい。
もっとも、僕が男役のタチで、相方は女役のウケだから、やっぱり彼女というべきなのだろうか。まぁ、どうでもいい。
僕には、ミチルという特定の恋人がいた。
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