第7話 あの日
勇斗は、柱に寄りかかって、
今夜は蘭丸とともに
将軍・葵は、今夜は大奥に行かないとのことで、御座の間で
心ならずもこちらの世界に来て約半年になるが、もちろん、元の世界のことを忘れたことはない。そして、あの日のことも。
*
勇斗は、ごく普通の高校生だった。両親は共働きで、兄弟は2歳下の妹が一人。
彼は高校受験で第一志望の桜高校に入学したものの、学校にはあまり馴染めなかった。親友と呼べるものも、まだいなかった。どちらかというと内気で引っ込み思案な性格で、自分から進んで友達を作ろうとはしなかった。まして、女子と付き合ったことなど皆無だ。
あの日は、ゴールデンウイーク明けだった。
午後は授業がなく、半月後に迫ってきた体育祭の練習が行われることになっていた。しかし、参加意欲が湧かない勇斗は、体調不良を理由に早退した。
歩いて行った先は、
勇斗は、本丸跡を囲む土塁の上に設けられたベンチに座って時を過ごすのが好きだった。その日も、そこを目指して歩いた。
森の中の小道を過ぎ、昔は本丸への通路だったのか、両側に空堀が迫っている細い道を歩き始めた。道の先には本丸跡の広場がある。森の梢に縁どられて見える広場から届く、五月の陽光が眩しい。
すると、何の前触れもなく突然、辺りの風景が変わった。周りを樹々が取り囲んではいるが、明らかに様子が違う。
何がどうなっているのか分からず、思わず足を踏み出した。ところが、そこに地面はなかった。足場を失った勇斗は、坂を転がり落ちた。勇斗がいたのは、
とっさの出来事に、勇斗は叫んだ。
「
その声を聞きつけたのか、
丁髷をした人が現実にいるはずはない。見間違えだろう。それとも、時代劇のロケでもしているのか。城跡だから、時代劇のロケをしていても不思議はない。
体に付いた土や枯葉を払いながら、勇斗は立ちあがって周りを見回した。見慣れない場所だが、どこだろう? 城址の本丸跡広場に行く途中だったはずだが。
幸い、
すると、数人が走ってくるような物音がどんどん近づいてきて、すぐ近くの茂みの陰から、丁髷を結い着物を着た男が5人ほど現れた。みな背は低いが屈強そうで、長い木の棒を脇に抱えている。顔の色が一様に浅黒い。顔に、色を付けるクリームでも塗っているのか?
映画か何かのロケの中に迷い込んでしまったのだろう。でも、ちょうど良い。本丸に行く道を教えてもらえるかもしれない。
「あのぅ、ロケ中すみませんが、本丸跡へはどう行ったらいいでしょう? 道に迷ってしまって――」
「お前は、何者だ! ここをどこと心得る!」
四角い顔のリーダー格らしい男が、腹から出すような野太い声で吠えた。
「いえ。僕は、エキストラじゃありません。ただの通りがかり。あのぅ、何のロケですか? テレビですか、映画ですか? お城だから、大奥ですかね」
「大奥だと⁈ ますます怪しい奴だ」
「いえ、まったく怪しくありません。すぐそこの、桜高校の学生です。ちっとサボって、ここへ来たんです。へへへ」
「サボるだと⁈」
「有名な俳優さん、来てますか? もしかして、
「こ奴、キ印か?」
男は、隣に立っている丸顔の男に話しかけた。
「浜辺とか、波とか言っておるから、房州あたりから来たんではないか?」
「とても漁民には見えんがな」
突然、勇斗が駆け出した。三十六計、いや、四十六計だったか? どっちでもいいが、逃げるに
だが、男たちの足は、勇斗よりはるかに速かった。勇斗はあえなく捕らえられ、なす術もなくその場に引き据えられてしまった。後ろ手に縛られて、建物の中に連行された。
牢に入れられた勇斗は、所持品を調べられたが、スマホや学生証などを入れたリュックサックは転落した時に落としたのか、見当たらなかった。持っていたのは、ズボンの尻ポケットに入れていた財布とハンカチだけで、両方とも取り上げられてしまった。財布の中身は、千円札2枚と硬貨数枚だけだった。
牢番らしき男らが代わる代わる来て、ワイシャツにブレザー、スラックス、スニーカーという勇斗のいでたちを、珍しそうに見ていた。
勇斗に対する尋問が断続的に行われたが、勇斗が何者か、現れた目的は何か皆目分からず、困惑しているようだ。尋問者が代わるごとに、どうも身分が上がっていくようだった。そのたびに、同じことを繰り返し尋問された。
勇斗は初め、時代劇などで見たことがある「拷問」をされたらどうしようかと、恐怖に駆られた。逆さ吊りにされたり、青竹でぶっ叩かれたり、酷いのになると重い石板を何枚も膝の上に載せられたりする、あれだ。しかし、勇斗がまだ若いためか、あるいは素直に尋問に応じているためか分からないが、手荒なことはされなかった。
だいぶ位が高そうな男による尋問の中で、男の反応が明らかに変化した時があった。
「お前はどこの誰だ? どのようにして、お城に忍び込んだ?」
「何度も何度も言ってますが、僕は桜高校1年の
「桜だと? それはどこにあるのだ」
「千葉県桜市です。僕は桜城の
男は勇斗の質問には答えず、尋問を続けた。
「その、異国風の着物はどうやって手に入れた?」
「これは、高校の制服です。桜高校は、昔、桜藩の学問所だった由緒ある高校です」
「なに? 桜学問所だと?」
男の表情が動いた。
実は、江戸城内の警備を担当する部署では、勇斗のような
勇斗の身元が判明せず、また小者であっても城内への侵入を防げなかったとなると、自分たちが咎められる。最適の解決策は、勇斗を闇から闇に葬り去って、いっさい痕跡を残さないようにすることだ。警備担当部署では、その方向に向かいつつあった。
しかし、最後に尋問した役人は
「もしかすると、男は桜藩家中の者やもしれんな」
「堀田様の知行地ですな。しかし、もしそうなら名乗るはずでは?」
「いかにも。その点は解せない。だが、万が一、男が桜藩の者であったとしたら、どうなる? あやつを殺せば、我らの首が飛ぶぞ。これは、お奉行を通して堀田様にご相談するしかない」
奉行が堀田にお伺いを立てに来た時には、勇斗が捕まってから一か月近く経っていた。
「予が直々に取り調べるゆえ、すぐにその者を連れてまいれ」
堀田の前に連れてこられた勇斗は、牢に入れられている間着替えも入浴をできなかったから、体が汗臭い。
「葉山勇斗じゃな?」
「はいそうです」
「予は、老中の堀田じゃ。ここにお前が持っていた物がある」
捕まった時に取り上げられた財布とハンカチが、盆に載せられて堀田の前にある。
「これは紙入れじゃな? ここに付いている、開け閉めできる金具は、今まで一度も見たことがない。実に精巧にできておる。この紙入れ、どこで手に入れた?」
「百均のタイゾーです。メイドインチャイナの安物ですよ」
「メイドイン……。お前、エゲレス語が出来るのか?」
「はい。少しは」
それを聞いた堀田の目が細くなって光ったように、勇斗には感じられた。しまった! まずいことを言ってしまったか?
「さすれば、お前は異国に渡ったことがあるな?」
「いえ! ありません。英語は、中学校で習ったのです。成績はパッとしませんでしたが」
危ない、危ない。勇斗は、観光で家族と共にハワイに行ったことがあった。しかし、余計なことは言わない方が身のためだ。堀田はなお、疑い深そうな視線を勇斗に注いでいたが、英語に関してはそれ以上触れなかった。
「これは、皮でできておるのか?」
堀田は、勇斗の財布を示しながら尋ねた。
「いえ、本物の皮ではなく、合成皮革だと思います。まあ、ビニールですかね」
「ビニールとは何じゃ?」
「石油から作るものですが、詳しい作り方は知りません」
「石油とは?」
「昔、木や草だったものが、長い間地面の下にあると出来る、黒くて燃える液体です。中東、つまり外国で採れます」
「やはり、お前は海を渡ったことがあるな?」
「何! お前は海を渡ったことがあるのか?」
「紙入れの中に、
「えー、あのー、お
「紙に描かれておる、
「はい。お医者さん……。いえ、学者だったかな? とにかく偉い人ですが、僕はよく知りません」
「千円とあるな。円とは何じゃ?」
「あのー……、銭の単位です」
「単位とは?」
「単位ですか? 何と言いますか……。あ! そうだ。こちらでは、一文とか、一両とか言うんじゃないですか?」
「千円は、どれくらいの値打ちがある?」
「そうですね……。オニギリなら、コンビニで5~6個買えるんじゃないでしょうか。塩昆布とか梅干しとか、安いものならですね。サケとかイクラとかだと――」
「もうよい。日本銀行とは何じゃ?」
「えー、あの、その、……銀行の親玉みたいなもんです」
「銀行とは何じゃ?」
「えー、おカネを預かったり、貸したりするところです」
「ふーむ。不思議じゃな。日本と書いてあり、富士の山も描かれておるから、我が国のものに相違なさそうじゃが、このようなものは見たことがない」
「あの、そのハンカチ、いえ、手ぬぐいに書かれているのは、カピシューというキャラクター、つまり、絵なんです」
勇斗は、堀田の関心を、答えにくい貨幣からハンカチに移そうと思った。
「そうか」
堀田はまったく興味を示さなかった。
「して、桜学問所にいたというのは真か?」
「桜高等学校ですが、その歴史は、桜藩の学問所まで遡ると習いました」
「遡るじゃと?
「あの、桜の殿様は名君だと、日本史の先生が言ってました。桜の誇りだと」
「ほう、そうか」
堀田の頬が、すこしだけ
「誰かある!」
堀田は側近を呼んだ。
「この者を、旗本、そうじゃな、池田に預けよ。しばらく、様子を見させるのじゃ」
「は。かしこまりました」
「この者が持っていた物は返してやれ。それと、湯浴みさせて、新しい服を与えろ。かなり臭うぞ」
「は!」
「勇斗。しばらく、さる旗本にそちを預けるが、ゆめ逃げ出そうなどと考えるなよ。そのようなことをすれば、命はないものと思え。よいか?」
「分かりました。それで、僕はいつ帰れるのでしょうか?」
「おそらく、帰ることは難しかろう。気を長く持って、こちらの暮らしに慣れることじゃな」
こうして、勇斗は旗本預かりの身となった。
《続く》
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