第6話 将軍、吉田松陰と会う

 慌てて、堀田、勇斗、音羽が葵のあとを追った。

 開け放たれた水密扉すいみつひから艦内に入り、狭いタラップを降りた。さらに狭い廊下を幾度か曲がっていく。

 途中ですれ違う乗組員は、先頭にペルリがいるためか、すぐに脇に寄って道を開けてくれた。笑顔で何やら葵に話しかける者もいた。


 途中、勇斗は葵のすぐ後ろを歩きながら、耳打ちした。

「吉田松陰という人は聞いたことがあります。山口県のはぎだったかどこかで、塾を開いた人かもしれません」

「萩か。長州藩士らしいからな。その塾で、何を教えたのだ?」

「それが……、僕はよく知らないのです。確か、塾の名前は松下村塾しょうかそんじゅくだったかな。学習塾や進学塾ではないことは確かです」

「その塾が、名を残したわけは?」

「その塾で学んだ人たちが、のちに幕府を倒したのではないでしょうかね?」

「予に聞くな。国史を真剣に学ばなかったから、こうなるのじゃ」

「はい。そのとおりです」

「素直なところだけは、そちの取り柄じゃな」

「有難き幸せ」

「吉田とやらが、幕府の瓦解がかいに何らかの関りを持っていたのは確からしいな」


 やがて、ふたが取り付けられた小窓のある扉の前で、ペルリは立ち止まった。

「通訳兵はいるか?」

 しかし、急な出来事だったので、その場にはいないようだった。

「音羽さん。すまないが通訳を頼みます」

「はい」

 ペルリは、蓋を開けて中をのぞいた。

「艦隊司令長官のペルリである。吉田さん、驚かないように。ここに、将軍が来ておられる。これから、あなた方の話を聞いて下さるそうだ。このような機会は二度とないだろうから、あなた方の考えを率直に話しなさい。時間が限られているので、手短かに」

 ペルリは、兵にドアを開錠させて、開いた。中にいる二人の若い侍が立ち上がり、椅子代わりにしていた箱を葵に勧め、自分たちはその前に平伏した。

「長州藩士、吉田松陰と申しまする」

「同じく、金子重輔かねこじゅうすけにござります」

 二人の声は、緊張のためか少し震えている。大名の家臣は陪臣ばいしんと呼ばれ、直接将軍にお目見えすることは通常あり得ないのだ。

 箱に座った葵は、二人を厳しい視線で見降ろした。


「そちらは、密航を企てて捕らえられたそうじゃな。しかと相違ないか?」

「そのとおりでございます」

「海外渡航は、国法で堅く禁じられており、破れば死罪じゃ。それを承知の上での所業か?」

「はい。と申しますのも――」

「これ、そちは上様のご下問にお答えするだけでよい!」

 堀田が吉田を制すと、葵が問うた。

「では吉田に聞く。なぜ密航を企てた? 存念ぞんねんを申してみよ」

「上様に拝謁させていただくばかりか、手前どもの考えをご説明する機会を下さいまして、恐悦至極きょうえつしごくに存じ奉ります」

「そうかしこまらんでよいから、端的に申せ。予はそろそろ城に帰らねばならんのじゃ」

「はい。では手短かに。我が国は二百年余、太平に慣れ、惰眠を貪ってきました。その間、西洋諸国では科学の進歩、商工業など経済の発展、そして何より、軍事力の飛躍的な増強が起こっていたのであります」

「ふむ」

「のみならず、西洋諸国はアジアに進出して諸国を蚕食さんしょくし、強大な軍事力をもって、大国・中国をさえ屈服させるに至りました」

「ふむ」

「ひとり我が国のみが、押し寄せる西洋列強から超然としていることなど、もはや不可能でございます」

「じゃな」

「今我が国に何が必要かと申せば、西洋諸国を強国ならしめたところのものを、深く知ることです。併せて、世界の五大州の現況をつぶさに見聞けんぶんすることであります」

「それで、そちたちは本艦に乗り込み、アメリカに渡りたいというのじゃな?」

「御明察にございます」


 葵はしばらく考えたのち、吉田の目をまっすぐに見て言った。

「分かった! そちたちの考えは、誠に当を得たのもである。褒めてつかわす」

「ありがたき幸せにござりまする」

 二人は、改めて平伏した。

「予も、出来得るなら、こうした船で七つの海を駆け巡りたい。じゃが、そうもしておれん。であるから、何ならそちたちの望みがかなうよう、取り計らってやってもよいぞ」

「え! それはまことでございますか?!」

綸言りんげん、汗のごとしじゃ。ただし、一つ条件がある」

「いかなることでも、お申し付けください」

「そちたちが諸外国見聞の旅から戻った時には、真っ先に予のところに来るのじゃ。そして、見たもの聞いたものを、すべてありのままに聞かせよ」

「承知いたしました。武士に二言にごんはございません」


 葵は、入口に立っているペルリの方に顔を向けた。

「ペルリ殿。この者たちの願いを入れてはくださらんか。つまり、二人を貴国まで乗せて行っていただきたい。貴国に到着した後は、何もなさらなくて結構です」

 ペルリは安堵の表情を浮かべた。

「もちろん、お引き受けします。実は、彼らの密航の理由を聞いて、その志の高さに驚きました。国を思う心は、賞賛に値します。しかし、貴国の法では海外渡航は禁じられています。彼らを貴国に戻せば、捕縛されて処刑されてしまうでしょう。どうしたらよいか、私も悩んでおりました」

「御無理をお願いして、誠に恐縮です」


「上様。お持ちください!」

 部屋の中で立っている堀田が叫んだ。

「この者たちは、国法を犯した罪人でございます。このまま二人を本艦に残したとあっては、国法がないがしろにされ、国政の乱れに繋がるのは必定。二人を捕縛し、連れて帰るべきかと存じます」

「堀田の申すことにも、一理あるな」

 喜びにあふれていた吉田らの顔が曇った。

「ところで、ペルリ殿に伺いたい。西洋諸国の間で取り決められているという『万国公法ばんこくこうほう』によると、本艦の上における出来事には、日ノ本の法の力は及びますか?」

「いえ。本艦の上では、貴国の法の力は及びません。アメリカの法が適用されます」

「なるほど。して、本艦における法の執行者は誰ですかな?」

「艦隊司令長官の本職が、執行者であります」

「では、法の執行者であるペルリ殿にお尋ねする。この二人を、罪人として我が方に引き渡しますか?」

「上様が二人をお許しになったことを踏まえて、本官は二人を罰することなく、本艦の乗組員と見なします」

「かたじけない。これでよいじゃろ? 堀田」

「は、……はい。よく分かったような分からないような……」

「さあ、城に帰るぞ!」


 こうして、吉田松陰と金子重輔は、ポーハタンに残ることになり、葵一行は帰途に就いた。

 カッターボートの上で、勇斗は葵に話しかけた。

「煙に巻かれた堀田様の顔は、見ものでしたね」

「煙になぞ、巻いておらん」

「そうですね。吉田たちの国を思う心を、寛大にも受け入れられた上様は、やはり英明でいらっしゃると、私も感動しました」

「世辞はいらんぞ。しかし、太平に慣れ、しきたりや前例に固執する幕閣どもより、彼らの方がはるかに国を思っておることは事実じゃ。広い世界を見て日ノ本に帰った暁には、彼らの見聞や知識が、新しい国造りに役立つだろう」

「上様。素晴らしいお考えです。ですが、吉田が日本を離れたとなると、何かが変わってきそうですね」

「そこよ。松下村塾は作られず、そこで学ぶこともできなくなる。さすれば、倒幕を目指す『勤王きんのう志士しし』とやらも、出てこなくなるかもしれぬ」

「上様は、そこまでお考えになって……」

「当たり前じゃ。予は徳川家の将軍であるぞ。徳川家と幕府を守るのも、大切な役目じゃ」


 ボートが岸に近付くにつれて、お城が徐々に大きくなってきた。しかし、そこに天守閣はない。「明暦の大火」(1657年)で焼失してから、再建されることはなかったからだ。


後年ペルリが著した『日本遠征日録』には、次のように記されている。


「――わが艦隊が江戸湾に停泊していた時、二人の日本人青年が夜陰に乗じて旗艦・ポーハタンに忍び込み、密航を企てた。

 彼らはすぐに見つかり、捕縛された。彼らの話を聞いてみると、盗み目的などではなく、一緒に連れて行ってほしいという。広い世界を、自分たちの目で見たいというのが、その目的だった。

 日本の法では、密出国は大罪とされていた。彼らの望みをかなえて連れて行けば、日本との外交関係に悪影響を及ぼす恐れがある。しかし、彼らを母国に送還すれば、死刑は免れないだろう。私は酷く悩んだ。何とかして、高い志を持つ青年たちを助けたかった。

 私の悩みは、予想だにしない方法で解決した。たまたま本艦を視察しに乗艦されていた将軍・葵が、彼らの話を聞き、二人の出国をお認めになったのだ。


 この国はまだ、文明という光が差し始めたばかりで、いわば、生まれたての赤ん坊と同じようなものである。しかし、日本人は概ね礼儀正しく、約束を守り、清廉である。そして何より、極めて好奇心が強い。

 私は確信している。将来、この国は予想も出来ない発展を遂げるだろう。その中心に、英明な将軍・葵がおられれば、なおさらのことである。――」


《続く》


 

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