第3話 将軍、ペルリと対決す
お城の大広間には、いっぱいに引いた弓の
今しも、ペルリ一行による将軍拝謁の儀が始まろうとしていた。
席の
そのテーブルの長辺の先に、高さが身の丈ほどもある立方体の台が
ここが、将軍の座だろう。
将軍の座からテーブルの手前の端までは、5mほども離れている。
テーブルの両側に、それぞれ7脚の椅子が並んでおり、将軍から見て左側にアメリカ東洋艦隊司令長官・ペルリとその随員が、右側に老中首座・堀田
ペルリと堀田の後ろ脇には、それぞれの通訳が座っている。日本側の通訳は、
幕閣の背中側からだいぶ離れた位置に並べられた椅子に、若年寄などが
ペルリは堂々たる
気まずい沈黙が、見えない
突然、男の声が沈黙を切り裂いた。
「上様のおなりーー」
襖がさっと開き、
ペルリ一行を含め全員が起立し、葵に一礼した。葵が
台上の葵の位置は、着座した人々の頭よりも上にある。そこから葵は、鋭い視線で参列者を
ペルリの顔に、困惑が見て取れた。
低い声で、通訳を通じて堀田に問いかけた。(以下、米語も日本語で標記する)
「堀田殿。あの方が将軍ですか? 見たところ、まだ幼い少女のようですね。将軍は
「昨年貴殿が来航されたのち、家慶公が亡くなりましたので、ご息女の葵様が将軍職を継いだのです」
「なるほど。世界では、ヴィクトリア女王のように、女帝は稀ではありません。また、
すると、なりに似合わない葵の大きな声が、大広間に響き渡った。
「予は飾りではありませんぞ。ペルリ殿」
ペルリは一瞬
「これは失礼いたしました。ご無礼をお許しください」
「
「私は、アメリカ大統領ピアースの
ペルリは国書を読み上げた。外交辞令を除くと、要するに開国の要求だった。
国書の奉読が終わると、再び沈黙が訪れた。みな
「アメリカ大統領のご意向は理解しました。私は、開国は世の流れであり、避けがたいと思っています」
「おお、ご理解いただけましたか」
「ただし、大砲を積んだ軍艦を7隻も連ねて、江戸湾深く品川沖まで来られたのは、穏当を欠くように思います。これまで西欧諸国がアジアで行ってきたことは承知しています。しかし、わが日ノ本は、武力による
葵は微笑を浮かべているが、ペルリに対して一歩も引かない気迫を見せている。
「将軍は、見かけによらず手厳しいですな。大洋を渡ってくるのには軍艦が必要なのです。武力に訴えようなどとは、決して考えておりません。それに、品川沖まで来て周囲を見ると、あちこちに人工島が作られており、そこには大砲も見え隠れしておりましたな。私は、無用な
「それは、私も同じです。太平洋を挟んで対面する貴国と日ノ本は、
ペルリは、深く
「国を開くに当たっては、いくつかの条件があります。それは――」
葵があげた条件とは、以下の7か条だった。
1.両国は、相互不可侵を約す。
2.開港地は当面の間、函館、横浜、大阪、神戸、長崎の5港とする。
3.日ノ本における米国の領事裁判権は、1か年に限り認める。
4.日ノ本は自ら関税を決する。
5.片務的最恵国待遇は認めない。
6.米国は日ノ本に対し、法律、科学等に関する高度な専門知識を有する顧問を派遣する。
7.米国は、日ノ本からの留学生を受け入れ、便宜を図る。
上記の内容は、勇斗がいた日本において、幕府が諸外国と結んだ不平等条約の改正に、後継の明治政府が苦労を重ねた事実を踏まえている。
うろ覚えながら、勇斗が葵や堀田に話した日本史の知識が役立ったのだ。
「ペルリ殿が以上を了解するならば、私はさっそくミカドに拝謁して、開国の許しを得たいと思います。許しを得るまで、開国はしばらくお待ちいただきたい」
「上様の一存では決まらないのですか?」
「征夷大将軍はミカドから任命され、日ノ本の統治を負託されております。国の重大事については、ミカドのお許しを得る必要があると判断しております」
「分かりました。私は、上様の
その場に、安堵の空気が流れ出した。
「上様、一つご提案があります」
「何ですか?」
「明日はぜひ、わが東洋艦隊の旗艦、ポーハタンにご乗船ください。艦内をご案内いたしましょう」
とっさに、堀田が発言した。
「ペルリ殿。その儀はまたの機会ということで……」
「いや。ペルリ殿、お願いしましょう。予は、蒸気船というものを、ぜひこの目で見てみたい」
「大変光栄に存じます」
拝謁の儀が終わると葵は退出し、堀田主催の晩餐会に移った。
テーブルはそのままで、日米が交互に座る配置に替わった。中央に、堀田とペルリが隣り合わせに座った。堀田とペルリの間には、通訳として音羽が座っている。
豪華な
「堀田殿。今日は、ほとほと驚かされました」
「将軍、ですな?」
「はい。将軍は、幼いながら実に
「身共もそう思います。前将軍が
「特に、領事裁判権とか、関税とか。どこから、そのような知識を得られたのでしょう?」
「幕府内に蕃書調所があります。そこにご下問されたのかもしれませんな」
「堀田殿は当然、あの7か条の策定に
「もちろんそうですが、私どもが進言するというより、上様から、これではどうかとご下問がありました」
「ますます驚きますな」
晩餐会が終わると、堀田の勧めにより、ペルリ一行は城内に宿泊することとなった。宿泊場所には
のちにペルリは、『日本遠征
――部屋に入ってきた将軍は、まだ
しかし、その予測はすぐに崩れた。開国交渉に入ると将軍は、開国は世の趨勢であって避けがたいことだとの認識を示した。
その一方で、開国に際してかの国が不利な立場に立たされないよう、周到に考えられた条件を示したのだ。
驚くべきことに、その条件の中には領事裁判権、関税自主権、最恵国待遇といった西洋で生まれた概念が含まれていた。西洋文明にまだほとんど触れていない彼女らが、いったいどのようにしてそれらを知ったのか? 幕府の高官の説明は、腑に落ちなかった。
また、将軍の中には、子供らしい溢れんばかりの好奇心と、不思議な威厳とが、分かちがたく結びついて併存していた。
将軍・葵は未来を予知する能力と人心掌握の術を身に付けた、一種のシャーマン(呪術師)であったというのは、ほとんど根拠のない馬鹿げた空想であるが、そう考えたくなる場面があったことは事実であり、ここに記しておきたい――
*
大広間で晩餐会が盛り上がっているころ、大奥の一室で、何やら声を潜めて話し合う者がいた。
大奥を一手に取り仕切る
「滝川様。今晩ペルリらは、お城の白書院に泊まるとのことです」
「何じゃと! 汚らわしい
「堀田殿も、すっかりペルリと打ち解けておられたということです」
「堀田殿ともあろうお方が、うまうまと小娘に
「それが、よく分からぬのでございます。半年ほど前、吹上御庭で倒れているところを見つかったとのことでございます」
「いかにも怪しげじゃな。その者に
「かしこまりました」
滝川は年のころ50歳くらいで、品のある顔立ちの中に、厳冬の凍てついた空にも似た厳しさを漂わせていた。
「あの者たちは、どうじゃ?」
「常に準備は整っております。滝川様のお指図があれば、すぐにでも……」
「では、夜八ツ(午前2時ごろ)を期して白書院に忍び込み、ペルリ一味を一人残らず亡き者にせよ。くれぐれも、隠密にな」
「かしこまりました。では、お指図を伝えてまいります」
仮にペルリ一行が殺害されたとすると、その衝撃は計り知れず、日ノ本の存立にも重大な影響を及ぼすことは必定である。
《続く》
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます