第13話 談判の顛末

 翌日も翌々日も、大黒屋で談判が行われたが、互いの主張は平行線のままで、決着はつかなかった。

 そのうちに、妙な俗謡が掛塚湊で流行り始めた。

 小さいながらも港町であるためか、場末に遊郭があった。次のような俗謡が遊郭で口ずさまれるようになり、それが町にも広がっていった。


「〽伊呂波いろは沈みぬ 千尋ちひろの海へ 素知らぬ顔の 紀州様」


 また、子供たちも何やら新しいまりつき歌を歌い出した。


「〽通りゃんせ通りゃんせ ここはどこの海の道 遠州灘の海の道 ちっと通してくだしゃんせ 行きはよいよい帰りは恐い 紀州様に沈められ 二度と浮かんで来れませぬ」


 掛塚湊は江戸と大坂の中間にあったから、出船入り船でふねいりふねが頻繁だった。そのため、これらの俗謡は江戸や大坂にも知られるようになってきた。


 柳田ら明光丸側の動向を隠密裏に探らせている親衛隊・お小夜さよなど忍びからの報告によると、柳田らは相当焦っており、早期の妥結を望んでいる。幾ばくかの見舞金を亀谷会社に支払うことについて、紀州藩の了解を取り付けた模様だという。ただし、くれぐれも藩の名誉を損なわない範囲で、という指示らしい。


 10回目の談判でついに、明光丸側が妥協案を出してきた。

「決して当方の落ち度を認めるわけではないが、このような小港で話し合いを続けていても埒が明かぬ。紀州の殿様の寛大なる思し召しにより、貴公に見舞金100両を支払うゆえ、談判は手打ちということにいたそうではないか」

 柳田は、忌々しそうに言葉を吐き捨てた。

「これはこれは、有難きお言葉。この坂本、衷心より御礼申し上げる。ただし、見舞金の額については、しばしお待ちいただきたい」

 そう言って、竜馬は隣の徳山青之介(実は将軍・葵)の方を見た。


「万国公法によりますれば――」

 葵が話し始めると、すかさず高柳が遮った。

「また、万国公法でござるか。ここは日ノ本でござる。異国の法は通用しないはず」

「柳田殿。まだお分かりにならぬようですな。日ノ本であっても、このように双方の話し合いが収まらぬではありませぬか。いにしえのごとく、力の強い者がゴリ押しをする世の中でよろしいとお思いか? そのようなことでは、西洋列強に伍していけませぬぞ!」

 子供のような風貌の葵に一喝され、柳田は憤怒ふんぬ形相ぎょうそうになりかけたが、何とか自制した。


「この一件で、双方にどれほどの損害が生じたかを基に考えるのが、理にかなっております。まず、明光丸ですが、特段の損害は生じておりません。よろしいですな? 柳田殿」

「いや。この小港に足止めとなり、宿賃や食費がかさんでおる」

「それは、いろは丸とて同じでござる。ゆえに、相殺そうさいされまする」

 葵の言葉にいきり立つ、柳田の歯ぎしりが実際に聞こえてきそうだ。


「一方、いろは丸は沈没したゆえ、二度と使えませぬ。このような場合、いろは丸と同等の船を新たに調達する場合、どれほどの金員きんいんが必要かが重要でござる。坂本殿、いかほどであろうか?」

「10万両は下らぬでしょう」

「至極もっともですな。さらに、いろは丸にあった積み荷はすべて深い海の底に沈み、到底回収はできませぬ。積み荷の内容は、航海日誌に記載されております。すなわち――」

 葵は、航海日誌を手に取って、頁をめくった。

「スナイドル小銃1000丁。金塊50万両――」

 明光丸側からどよめきが起こった。


「お疑いなら、航海日誌をとくとご覧くだされ」

 葵は、日誌の該当箇所を広げて、柳田たちの方に向けて掲げた。

「すると、竜馬殿。失われた積み荷の合計はいかほどになりましょうや?」

「100万両未満ということはあり得ませんな」

「では、明光丸側から亀谷会社に、賠償金および見舞金として、150万両を支払うということでいかがでしょう。柳田殿」

 柳田は、もはや不動明王と化していた。

「150万両だと! そんな馬鹿なことがあるか! それに、そのような大金、わしの一存で決められるか」

「今ここで支払えなどとは申しておりませぬ。紀州のお殿様のお許しを得なければならぬのは当然でございます。支払いについても、一括ではなく割賦かっぷという方法もございますぞ」

「このような大金、お殿様にお伺いを立てねば、どうにもならぬ。ただちに使いを出すゆえ、暫時ざんじ待たれよ」

 柳田は、憔悴した表情を浮かべた。


 その日の談判はそこで終わることとなり、双方は各宿舎に引き上げた。

「上様、何と御礼申し上げればよいやら。竜馬、このご恩は一生忘れませぬ」

 さっそく祝宴が催されたが、葵と竜馬は別室で差し向かいになった。竜馬は酒の入った銚子ちょうしを持って、葵の杯に注ごうとした。

「予は、酒をたしなみみませぬゆえ、甘酒にいたします。しかし、あの柳田という船長、少し哀れに思えてきました。航海日誌にあった積み荷は、真実ではないですな?」

「見抜かれておられましたか! 有体ありていに申し上げると、事故当日、大黒屋に来てすぐ書き加えたました。実のところは、めぼしい物は干し海鼠なまこ10俵くらいですかな」

「竜馬殿は、なかなか隅に置けぬお人ですな」

「上様と、どっこいどっこいでしょう」

「竜馬殿にお願いの儀があります。予の正体は絶対に明かさぬこと。また、今回の談判は、すべて竜馬殿がなさったこと、この二つです。将軍が、特定の藩に肩入れしたとなると、騒ぎ出す向きがないとも言えませぬゆえ」

「すべて、この竜馬の胸の内に秘め、死ぬまで他言しないことを上様にお誓い申し上げます」

「礼を申します」

「祝宴がだいぶ盛り上がっているようです。上様、私たちも加わりましょう」


 翌日、まだ日が昇らないうちに掛塚湊を出立した葵一行は、浜松城に入った。突然の将軍の御成りに、城中は騒然となった。

 中間ちゅうげんはそこに残し、葵以下、親衛隊、勘定奉行・金井らは、全員馬に乗り、江戸に向けて急いだ。勇斗は乗馬がまだ上手くないので、蘭丸の後ろに乗せてもらった。

 小田原の宿に一泊して、翌日には江戸に入った。


 そのころ、城中の一室では、大老・井伊と御年寄筆頭・滝川が、額を寄せて密談していた。

「紀州藩家老からの知らせでは、いろは丸は間違いなく遠州灘で海の藻屑となり申した」

「井伊様のはかりごとが、成就いたしましたな。これで、あの憎々しい小娘も、さめか何かの餌食えじきになっておることでしょう」

「さて、そこが、不可思議なのでござる」

「それは、どういうことでございますか?」

「紀州の軍艦に体当たりされて、いろは丸はたちまち沈みました。ところが、近くに掛塚湊とかいう小さな港があり、そこから沢山の助け舟が出て、いろは丸の乗員は全員助けられた模様です」

「何ですと! そうすると、小娘も助けられたのですか?」

「それが、その後、上様の姿はふっつりと見られなくなったとのことです」

「はて面妖な。小娘だけ、遁走したのでは?」

「そうかもしれませぬな。ただ、もう一つ気になることが……」

 井伊は、眉根を寄せた。 


「いろは丸沈没に係る償いについての談判が、10日以上かけてその小港で行われたのですが、いろは丸を操船していた亀谷会社の社員の中に、万国公法に詳しい者がおって、その者が紀州方をり込めることが度々たびたびあったとのこと」

「いやな予感がして参りましたぞ」

「しかも、その社員は、一見すると子供、しかも女子おなごのようなれども、舌鋒ぜっぽう鋭く、万国公法に関する知識は並大抵のものではなかったとのことでござる」

「うーむ。間違いない。それは小娘に相違ありませぬ」

「だとすると、早晩、お城に戻られましょうな」

「途中に忍びの者を埋伏まいふくさせて、討ち取りまするか?」

「いや。滝川殿。焦っては、ことを仕損じまする。時を待ちましょうぞ」


 突然、葵以下の騎馬隊がお城に戻ってきたので、一時城内は騒然となったが、すぐに静まった。

 その夜葵は、大奥のお米の方のもとに渡った。

「大変お疲れ様でございました。でも、遠州灘の水はさぞ冷たかったでございましょう?」

「うん。歯の根が合わんかった。蘭丸がおらなかったら、予は死んでおっただろう」

「いえいえ。上様は決して亡くなったりいたしません。なさらなければならぬことが、まだたくさんありますゆえ」

「しかし、そもそもお米が元いた世では、葵などという将軍はおらなかったのじゃろ?」

「はい。でも、あちらとこちらは、似ているようで少しずつ違っていますから」

「そうじゃな。勇斗は、長州と薩摩が、坂本龍馬の仲介によって手を結び、幕府を倒すと言っておった。先日ペルリの軍艦で、吉田松陰なる者の海外渡航を許してやった。今回は、坂本龍馬に加勢して大儲けさせてやった。彼らはもう、幕府に弓引くことはあるまい。あとは、薩摩じゃな」

「そうでございますね。ただ、それより急がねばなりませんのは、井伊殿や、井伊殿と気脈を通じている滝川殿らの動きを封ずることではござりませぬか?」

「おお、お米の言うとおりじゃ」

「今日はさぞお疲れでしょう。難しいことはこれくらいにして、もうお眠りください」

「そうじゃなー。ふぁ――。お米がそう言うから、欠伸あくびが出て来たぞ。添い寝してくれ」

「はい。おいでなさいませ」

 葵は布団の中でお米に抱かれると、たちまち深い眠りに落ちていった。


《完》


 


 


  

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将軍と僕 あそうぎ零(阿僧祇 零) @asougi_0

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