第11話 いろは丸沈没。どうする葵

 甲板から階段を、大慌てで降りてきた者がいた。顔を強張らせた竜馬だった。

「上様。一大事にござります。大きな船に衝突され、船体が損傷した模様です。最悪の場合、沈没するやもしれませぬ」

 と、言っている間に二度目の衝撃が襲ってきたので、立っていた竜馬はその場に倒れ込んだ。

「これはいけませぬ。上様、船が沈む前に、お逃げください」

「逃げるといっても、海の上じゃな。乗り移る小舟はあるのか?」

「ありませぬ。海を泳いで、できるだけこの船から離れるのです。さもないと、沈む船に引き込まれてしまいます」

「ふーむ。それは困ったのぅ。予は、水連すいれん(泳ぎの練習)をしたことがない。つまり、泳げないのじゃ」

 葵は少しずつ傾いてきたゆかの上で、胡坐あぐらをかき腕組みをして、思案している。


「上様。私が上様を背中に乗せて泳ぎますゆえ、ご安心ください」

 蘭丸が、力強い声で励ました。

「おお、蘭丸か。頼むぞ」

「蘭丸殿、上様をお頼み申す。この近くに掛塚湊かけつかみなとという港がございます。掛塚湊で一番大きな廻船問屋は、土佐藩御用達ごようたつ大黒屋だいこくやでございますが、そこから助け舟がこちらに来るはずです。それまでのご辛抱です。私と社員数名は、談判のため、相手の船に乗り込みます。上様、くれぐれもご無事で」

「あい分かった。竜馬殿も、十分気をつけられよ」

「はい。皆さま! 間もなくこの船は沈没します。急いで甲板にお上がりください!」


 一同が甲板に上がると、冷たい海風が身に染みた。船は、左舷船首寄りから水没し始めている。

 あたりの海は暗く、時々白い波頭が見えるだけだ。

 すこし離れた所に、大きな船の灯りが揺れているのが見える。いろは丸より5~6倍は大きい。

「あれが衝突した船で、紀州藩の軍艦、明光丸めいこうまるとみられます。こちらが面舵おもかじ(船首を右へ)を切り、警笛を鳴らし続けたというのに、構わず突っ込んできました。しかも、いったん後退し、再び本船に向かって前進したのです。故意に行ったとみて間違いありません。あるいは、上様のお命を狙ってのことやもしれませぬな。真相が分かるまで、上様は御身分をお隠しください。では、大黒屋でお会いしましょう」

 竜馬と社員数人は、暗い海に飛び込んでいった。


「さ、上様。私の肩にしっかりお掴まりを」

 葵と蘭丸も、暗く冷たい海に飛び込んだ。親衛隊や勘定奉行・金井らもそれに続いた。


 波は荒く、葵は何度も波を被ったが、蘭丸の巧みな泳ぎのおかげで、少しずつ掛塚湊の灯りに近付いて行った。

「やはり、蘭丸は頼りになるな」

「はい。もう少しのご辛抱です」

「それにしても、水が冷たいのぅ。歯の根が合わぬ。しかも、何やら、左足が引っ張られる心持ちがする」

「先ほどから、ずいぶん重く感じられるのですが、上様は何か荷物をお持ちですか?」

「いや。何も持っておらんが……」

 葵は、首を回して、後ろを見た。


 そこには、波に没したり浮かんだりしている勇斗の顔があった。必死の形相である。

「ん? 予の足をつかんでおるのは、勇斗か?」

「……。ブハッ。は、はい。もうヘトヘトで泳げません。この手を話したら、僕は間違いなく死にます」

「そうか。じゃがな、このままでは、共倒れじゃ。済まぬが、手を放して自力で泳げ。もうすぐ助けが来るから、それまでの辛抱じゃ」

「お言葉ですが、ゴボッ、この手だけは離せません。ブハッ」

「困った奴じゃ。いくら屈強な蘭丸じゃとて、二人は無理じゃ。せめてもの情けじゃ。そちの顔面を蹴るような手荒なことはせぬから、大人しく手を離せ。そして、何としても生きるのじゃ」

「ゴボッ。この勇斗、上様をお恨み申し上げます……」


 勇斗が手を離した時、波間から一人の侍が顔を出した。亀谷会社副長の高山たかやまだった。

「勇斗殿は、拙者がお助けいたします」

「おお、これは天の助け。勇斗を助けてやってくれ」

「は。お任せください。助け舟の灯りが見えてまいりました。もうすぐこちらに到着いたします。拙者は、竜馬の命により、上様ご一行を大黒屋にご案内いたします」

「頼むぞ」

「浜に上がりましたら、ご一行は全員、亀谷会社社員ということにいたします。大黒屋の主、清兵衛せいべえにだけ、まことのことを耳に入れておきます」

「あい分かった」


 葵たち一行は、無事大黒屋の舟に助けられ、大黒屋に入った。

 海難事故には慣れているとみえ、手際よく葵らの世話を焼いてくれた。とりあえず、みなは大黒屋の御仕着せの着物に着替えた。


 葵たちが炊き立ての飯や熱い汁もので体を温めていると、竜馬がやってきた。

「上様、ではなく……、あれ、何とお呼びしたらよろしいでしょうか?」

「竜馬殿。大儀であった。そうじゃな……。徳山青之介とくやまあおのすけというのはどうじゃ?」

「良いお名前かと存じます。やはり相手は、紀州藩の軍艦・明光丸で、船長は柳田杉之助やなぎだすぎのすけと申す者でございます」

「やはり紀州か」

「しかし、あくまで当方の進路妨害であると申し立てております」

「見え透いた嘘じゃな」

「御明察のとおりでございます。ただ、どうも柳田は、いろは丸に上様、いや徳山殿がご乗船なされていたことまでは、知らされていないようでござります」

「それを知らせれば、柳田が怯むかもしれぬからな。それで、柳田らは今どこにおる?」

「掛塚湊の廻船問屋、赤西屋あかにしやに入りました。この大黒屋に比べれば、小さく貧相な問屋でございます。明日、五ツ半(午前9時ごろ)より、ここ大黒屋で、どちらに非があるか、沈没の償いをどうするか、談判を行います」

「その談判には予も出たいが、どうじゃ?」

「もちろん、お出いただきたいと存じます」

「いろは丸から、『万国公法』は持ち出したか?」

「はい。黄金より大事なもの。しっかりと油紙に包み、泳ぎの上手い社員に持たせました」

「では、明日の談判には『万国公法』を持参なされよ。航海日誌があれば、それもな」

「承知いたしました。もちろん、航海日誌も持ち出しました。それにしても、大変失礼とは存じますが、航海日誌などよくご存じで」

「『万国公法』に書いてある。大坂で3日間足止めされた時、暇つぶしのために読み始めたら面白くてのぅ。全部読んでしまった。じゃから、大方頭に入っておる。さ、竜馬殿たちも旨い飯を食べて、体を温められよ。そののち、明日の談判をどう進めるか、相談いたそう」

「恐れ入りました。これは面白くなってまいりましたな」

 竜馬は、日に焼けて栗の渋皮のようになった頬を緩めた。


《続く》

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