第10話 将軍、船上の人となる
葵一行は竜馬と亀谷会社社員に案内されて、二条から
「江戸のことは気にかかるが、船旅も良きものであるなぁ」
葵は、思いがけずに始まった船旅に、まんざらでもない様子だった。
「上様」
同じ舟に乗った勇斗が、葵に話しかけた。
「なんじゃ? そちも船旅を楽しんでおるか?」
「はい。でも、それより、井伊という人は確か、反対派を弾圧したため暗殺されます」
「雪の日に、桜田門外でじゃったな」
「あれ? なぜそれをご存じで? 僕がそのことをお話しするのは、今が初めてのはずでは?」
「そうか? 勇斗が忘れているだけではないか?」
「そうですかねぇ……」
「それに、それはそちらの世の出来事じゃから、こちらでどうなるかは分からん」
「それは、仰せのとおりですね」
<でもなぁー。井伊の暗殺について、葵様に話した記憶はないんだけどな……>
淀川は大坂に入り
安治川の両側には、白壁に屋号や家紋が描かれた蔵がずらりと立ち並び、
「これは凄いぞ! さすがは、天下の台所じゃな」
葵は、しきりに感心している。
「上様、ずっと先に、小山のようなものが見えましょう?」
竜馬が来て、指をさした。
「見える」
「あれが
「おお、そうか。いよいよじゃな」
ところが、天保山を過ぎて辺りに停泊している船の間を回って探したが、いろは丸の姿はなかった。
「これ、竜馬。どういうことじゃ?」
「は。いろは丸は長崎から来る手筈になっておるのですが、事情があって遅延しているのでございましょう」
「では、どうする?」
「いったん戻りましょう。上様には、いい機会ですので、ぜひ
「天満宮じゃと? 今は一刻を争うのじゃがな……。まあ、是非もない。ここでじたばたしても、始まらぬな」
結局、いろは丸が大阪に到着したのは、3日後だった。
葵に同行している勘定奉行・金井が、大阪城に入って船を待つように進言したが、葵は堅苦しいのは好まないと言って、大坂
ちょうど、葵たちが大坂で足止めを食らっている時だ。
ここは、江戸城内の大老・井伊
「井伊様。あの小娘、いえ、葵様は、井伊様が大老にご就任なされたとお聞きになるや大いに立腹され、急ぎ江戸に向かわれたとの由でございます。京におります私の手の者が、早馬で知らせてまいりました」
「堀田殿がお倒れになり、将軍もおらず、致し方なかったことでござる。他の老中からは一人として異議は出ませんでした。しかし、上様がお戻りになり、大老を辞めろとお命じになるなら、ただちに辞める所存です」
「ほほほほ」
滝川が半開きの扇子で口を隠して笑った。
「井伊様ともあろうお方が、何を気弱なことをおっしゃるのです。井伊様は、紀州藩主・
「いかにも。葵様は、徳川家に
下膨れて大きな井伊の顔が、さらに大きくなったように見えた。
「私も同じ気持ちでございます。今回も小娘は、元土佐藩士・坂本
「土佐の坂本? それは、薩摩や長州といった外様大名の家中にしきりに出入りし、長崎で仕入れた鉄砲を
「それに、これは私など、ごく限られた者しか知らぬのですが、あの小娘の
「何ですと! それはどういうことでござるか?」
「先代将軍・
「将軍が奥女中に手をお付けになって子が生まれることは、昔から珍しいことではありますまい」
「はい。葵を生んだという奥女中が変なのでございます。つまり、まったくお腹が大きくなりませんでした」
「何と! では、上様の本当の母はどなたですか?」
「上様の側室、お米の方でございます」
「それは誠ですか!?」
「私は大奥に入って長く、配下が大奥内の各所におりますので、大奥のことは細大漏らさず、耳に入るのでございます」
「その、お米の方とは、何者です」
「これが怪しいのです。ある時、吹上御庭で倒れているところを御庭番に見つけられ、御殿に連れてこられたのです。異国風の服を着ていたとか」
「吹上御庭、異国風の服……」
「その
「上様は、そのことをご存じで?」
「いえ。知らぬでしょう。家慶様が、厳重な
「なるほど。上様の実の母が、素性の分からない者であったとは。これは、由々しき事態ですな」
「ところで、井伊様。上様が乗られた船が万一沈んだら、井伊様はいかがなされますか?」
「え?」
「この滝川、井伊様には心の底の底をお見せいたします。私は何としても、あの小娘にいなくなってもらいたいのです。将軍に就いた途端、大奥に暮らしていたあまたの側室や奥女中に暇を出し、大奥から追い立てました。今の大奥は見る影もございません。あの小娘は、大奥の
「そうでしたか……。慶福様が将軍におなりになった暁には、きっと大奥を再興なされるに違いありません」
「井伊様の有難きお言葉に涙が出てまいります。ただ、いくら正しいことでも、待っているだけでは、いつまでも夢に過ぎません。ところで、海では、船同士がぶつかるということはございますか?」
「ほう。滝川殿がそのようなことにご関心がおありとは、思いもよりませなんだ。そうですな、海は広いように見えて、船が通行する道は意外に限られておるようです。先日も、
いつもは細い井伊の目が広がり、獲物を狙う鷹の目になった。
「軍艦と商船がぶつかると、どうなります?」
なぜか今日の滝川は、海の事故に執着している。
「竜馬の船など、ちっぽけなものでしょう。そこへいくと、紀州の、確か、
「そうすると、笑みがこぼれるのは、井伊様とこの滝川でございますね」
「これは、やってみる値打ちが大いにありますな。しかし、あくまで偶発的な事故としなくてはなりません。夕方、薄暮の海での衝突、これですな。場所は遠州灘が最適でございましょう」
さて、ようやくいろは丸に乗船した葵一行は、紀伊半島を回り、一路江戸を指して快調に進んでいた。
遠州灘にさしかかるころには太陽は没し、空を赤く染めていた残照も、急速に色あせようとしていた。
昔から海の難所の一つといわれた遠州灘には三角波が立っていて、船は前後左右に大きく揺れた。葵や勇斗は船酔いに苦しめられ、船室で横になっていた。
その時だ。急を告げるような短音を繰り返す汽笛が聞こえたかと思うと、船体が異常に傾いた。やや間をおいて、船は激しい衝撃に襲われた。
《続く》
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