第8話 将軍、上洛する

 いよいよ、開国と日米和親条約締結についてミカドの許しを得るために、幕府要人が上洛じょうらく(京へ行くこと)する運びとなった。


「ここは、老中首座の身共みどもが行くのが、筋というものでございましょう」

 堀田は、将軍・葵に言上ごんじょうした。

「いや。国運がかかった大事だいじに臨んで、予が行かずしてどうする?」

「この堀田、上様のお気持ちは痛いほど分かります。しかしながら、京への道は長ごうございます。ペルリの時のように、紀州派と気脈を通じた大奥の者たちが、刺客を放つやもしれませぬ」

「そのようなことを恐れていては、将軍職など勤まらん」

 不満な時の癖で、葵はぷいと横を向いた。


「はあ。さらに、近ごろ京の街では、過激な攘夷論じょういろん(開国を迫る欧米を武力で撃退すべしという考え)に染まった浪士が跋扈ばっこし、火付強盗は言うに及ばず、幕府方の要人への襲撃・暗殺事件も頻発しております」

京都所司代きょうとしょしだい(朝廷や西国大名の監視・京都町奉行統括などをする職)は、いったい何をしておる? いっそのこと、長谷川平蔵はせがわへいぞう(通称・鬼平おにへい)でも送り込んだらどうじゃ」

「はあ。それに加え、孝明帝こうめいていは筋金入りの異国人嫌いと聞いております。開国についても、すんなりお認めになるか……。極めて難しいと思われます」

「そうか。だったらますます、そちに任せるわけにはいかんな。予が行くぞ。もう、決めたのじゃ」

 こうなったら、葵がてこでも動かないことは、堀田にもよく分かっていた。


「それでは、こうしたらいかがでしょう。現在ペルリ艦隊は、日米和親条約の細則を協議するため、下田しもだにおります。ペルリに事情を話して、艦隊の一隻を乗組員ごと借り受け、海路にて大坂へ行かれましては?」

「堀田! そちはいつから、そんな腰抜けになり果てたのじゃ? 海路をこそこそ行くとは、将軍の威厳はどうなる。堂々と、東海道をいくぞ」

「はあ。そこまでおっしゃるのなら、もう何も申し上げません。ただ、将軍のご威光を見せつけるためにも、大軍勢を率いて行かれませ」

「駄目じ駄目じゃ! 大軍勢など連れて行けば、宿代だけでも馬鹿にならんぞ。予の供は、親衛隊だけで十分。それと、勘定奉行(租税徴収・出納すいとう担当役人)にも供をさせ、大判3000両を用意するのじゃぞ」

「勘定奉行ですと? 3000両! お城の金蔵はもはや空だと、先日上様がおっしゃったばかりではありませぬか」

「いや。それは嘘じゃ。敵を欺くには、まず見方を欺くべしと言うであろう? それじゃ。しかし、まあ、1000両にしておくか」

「いったい何にお使いになられるので?」

「決まっておろう。朝廷対策費じゃ」


 こうして、葵は上洛の途に就いた。供は親衛隊20人、勘定奉行・金井かない中間ちゅうげん(武家の召使の男)10人だけであった。

 葵と金井は騎馬だが、他の者はかち(徒歩)である。だから、徒の者たちは常に走らなくてはならない。当時の人は健脚が普通で、落伍者も出なかった。

 しかし、勇斗はそうはいかない。そのような長距離を走ったことがないから、置き去りにされないよう、死ぬ思いで走った。それでも精魂尽き果て、背中に荷を載せ中間たちが引いている駄馬に乗せてもらったりした。

 

 掛川かけがわ宿しゅくに泊まった晩のことであった。勇斗は蘭丸と相部屋だった。

「蘭丸殿。疲れ果てて、京まで行けるか分からなくなってきました。見てくださいよ。足がマメだらけです」

「なるほど、これは酷いな。この膏薬を貸すから、塗ればいい」

 蘭丸は、陶器の小瓶を勇斗に投げて渡した。

「かたじけないです。……。く! 染みるなぁ」

 その時、障子の外から声がした。

「失礼します。入ってよろしいですか?」

 親衛隊中の5人のリーダー格、お小夜さよの声だ。彼女らは、葵の世話も受け持っている。

「入れ」

 親衛隊長の蘭丸が答えた。入ってきたお小夜は、姿こそ奥女中風だが、身のこなしは敏捷そうである。

「さりげなく宿を見回ってきましたが、どうも気になります。虚無僧こむそうだとか巡礼だとか、怪しげな者たちが多すぎます。もしかすると、今夜あたり襲ってくるやもしれませぬ」

「やはりそうか。俺もそう思った」

「どうしますか?」

手筈てはずどおり、くノ一の誰かが葵様の影武者となって、返り討ちにいたすか。葵様に姿かたちが似ておるのは、お前、小夜だな」

「は! 承知」

「葵様にご了解をいただきに行こう。小夜も付いてこい」

 

 葵は、蘭丸やお小夜の話を聞いて、首を傾げた。

「影武者はよいが、その間、予はどこにおればいいのじゃ?」

「そうですね。女中部屋の押し入れの中がよろしいかと――」

 蘭丸が終わりまで言う前に、葵の甲高かんだかい声が部屋に響いた。

「なに? 女中部屋だと? 駄目じゃ駄目じゃ。予は将軍なるぞ!」

「ひらにお許しを」

 蘭丸とお小夜は、平伏した。


「金井を呼べ」

 勘定奉行・金井が、慌てて部屋に来た。

「これから書面をしたためるから、すぐに掛川城主・太田おおたに届けよ」

 葵は筆を執ると、さらさらと巻紙に走らせた。


 しばらくして、掛川城から多数の武者が駆け付けて、葵が泊っている本陣をひしひしと取り囲み、蟻が這い入る隙もないほどの守りを固めた。結局、その夜は何も起こらなかった。


 やがて、葵たちは京の二条城にじょうじょうに入った。

 すぐに京都所司代・板倉いたくらが、葵の前にやってきた。

「長旅、さぞやお疲れでございましょう。まずは、風呂にお入りいただき、旅のほこりを洗い流されませ」

「毎日湯浴みしておったゆえ、埃などついておらぬ。さっそく、ミカドのご様子を聞こう」

「は、はい。実は、孝明帝は数日前から病のためせっておられるとのことです」

「何じゃと! ミカドに目通りできぬのか? それでは、何のために家来どもを走らせて京まで来たのか、分からなくなるぞ」

「朝廷にお伺いをたてましたところ、皇太子・厩戸皇子うまやとのみこ様が、ミカドに成り代わってお会いになるそうです」

「厩戸皇子様じゃと? 聞き覚えがない。勇斗を呼べ」

 勇斗が板倉の陰に平伏した。

「何を隠れておる。もそっと近う。……。そうじゃ。そちは、厩戸皇子様を知っておるか?」

「えーと。確か、聖徳太子しょうとくたいしと同じ人だと思います。うーん」

「何じゃ? 何でもよいから、思い出せ」

「とても偉い人で、憲法……、何条だか忘れましたが、憲法を作った方です」

「おお、そうか」

「でも、変ですね」

「何がじゃ?」

「聖徳太子は、もっとずっと古い時代の人だったはずです」

「それは、そちがおった世の話じゃろ? そことここでは、違っていても不思議ではない」

「まあ、そうですね」


「では、板倉。明日御所ごしょに参上すると、伝えてくれ」

「承知いたしました」

「勇斗は明日、予の供をせよ」

「はい!」

夕餉ゆうげを済ませたら、予の部屋に来い。厩戸皇子様についてそちが存じておることを、細大漏らさず予に話すのじゃ」

 勇斗はまだ腑に落ちないのだが、かの聖徳太子に会えると思うと、わくわくしてきた。


《続く》

 



 




 

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