第16話幽霊男爵は最愛の妻を想う

 見渡す限り、遮るものは何一つない大海原。

 甲板に立ち視線を少し上げれば、空と海の青が混ざり合う。


 本日の風は穏やかだ。

 おかげで船の揺れも随分と少ない。


「へえ? 国ではアップルパイにチーズを入れるのが流行なのか」


 "屋敷では日々アップルパイ作りに精を出しております"と書かれた手紙に鼻を寄せ、すんと吸い込んでみるも、感じるのは慣れ親しんだ塩の香りだけ。


 残念に思いながらリックから届いた手紙で少し遅れた近況報告を受け、折り畳んだそれをズボンのポケットに押し込んでから、もう一通の手紙を丁寧に開く。


 一年も前に婚姻を結んだ、妻からの手紙。


 父親の背負った借金のかたに身売り同然に嫁がされたとあって、さぞかし俺を恨んでいるだろうと思っていたけれど。

 一年前からリックの報告書と共に届くようになった手紙には、俺への感謝と、体調を気遣う言葉ばかりが並べらえていた。


「純粋すぎるのも、心配なものだな」


 手紙には、お茶会に呼んでくれたご夫人のためにも、ディーンと共に必ずや目的のアップルパイのレシピを完成させてみせますと、可憐な字で綴られている。


 彼女が巷で"おせっかい夫人"と呼ばれているとリックから報告があったのは、随分と前のこと。

 経緯から推察するに、おそらく今回も彼女が心を痛める結果になるのではないかと思うが……。


 本気で夫人の力になれると信じて奮闘する今の彼女は、さぞかし生き生きとしているのだろう。

 そう簡単に思い浮かぶものだから、止めてやることもできない。


 あのディーンが協力しているとあっては尚更だ。

 彼の料理への追及心は、世界各国の希少品を求めて船にばかり乗っている俺と似ている。

 一度始めてしまったら、納得するまで止まらない。


 彼女の努力の証として生み出さたアップルパイは、俺が戻ってから振舞ってもらえばいいか。

 うん、そうしよう。一緒にティータイムも楽しめるし。

 何度も夢見たその日を空想しながら、つい頬が緩む。


「順調に行けば、あと七日ってとこか」


 早く会いたい。けれど少しだけ、会うのが怖い。

 彼女は本当に俺を恨んではいないだろうか。

 "男爵"とは名ばかりで貴族紳士らしくない俺に、幻滅しないだろうか。


 ――"幽霊男爵"と。

 畏怖や嫌悪を込めてそう呼ばれる男の妻になってしまった運命を、嘆いてはいないだろうか。


「結局、直接会わないことにはわからないものだからな」


 ただでさえ一年も放置していたという負い目がある故、リックに頼んで使用人の皆には極力俺の情報を伏せておいてもらっている。

 というのも、直接目の前に立ち言葉が交わせる状況ならば、多少なりとも彼女からの好感を得る自信があるからだ。


 幸い、俺は容姿に恵まれている。

 黒い髪と青い瞳が彼女のお気に召すかはわからないが、これまでの商談で培った話術も合わせれば、色など些細な問題にすぎないと考えてくれるかもしれない。


 いや、してみせる。

 なぜなら俺は、彼女に愛されたいから。


「……お会いできる日を心待ちにしております、か」


 彼女は知らない。そのたった一言を、俺がどれだけ待ち望んでいたか。

 彼女は知らない。俺がなぜあの国で、迷うことなく"男爵"の叙爵を受け入れたのか。

 彼女は知らない。俺がどれだけ長い間、彼女を想い続けていたのか。


「何事も粘り強く、希望を捨てずにいるものだな」


 俺と彼女の"初めまして"は、彼女がまだ今の半分ほどしか背丈がなかった頃に。

 幼かった彼女は、覚えていないだろうが。


 あの時に感じた衝動は、恋と呼ぶには重く、渇望に近い欲だった。

 彼女を得たい。

 けれど彼女には、嵐に怯え船底で眠る俺とは違い、伯爵家のご令嬢としての華々しい先が約束されている。


 だから全ては胸の内に秘め、彼女が幸せな日々を過ごせるよう願うだけのつもりだった。

 それなのに。


 いつからだろう。

 再び小さな欲が芽生え始めたのは。


 宝飾品を見繕うたびに、成長した彼女が自分の持ちこんだ品々を身に着けてくれたらなら、どんな幸せなことかと夢みるようになり。

 爵位を得ていれば、いつかどこかの夜会で会うことも叶うかもしれないと望むようになり。


 そろそろ適齢期を迎えた頃だろうかと、つい調べてしまった彼女の近況を、"好機"だと。

 欲を抑え込んでいた全ての理性を振り捨て、身勝手に彼女を"妻"として得た。


「……愛して、もらえるだろうか」


 いや、それこそ粘り強くあろう。

 彼女はもう、記憶の中の少女ではない。淑女となった姿も、心も、変わってしまっているだろう。

 それでも。


 愛して、愛して、いつか俺のことも、愛してくれるよう。

 大切に甘やかして、俺の側が彼女にとっての"幸せ"なのだと、そう"思い込んで"くれるまで。


「ま、粘るのは得意だからな」


 時間はたっぷりとある。少しずつ慎重に、逃げられないように、仲を深めていけばいい。

 あと七日。それまでは、この手紙を抱いて眠ろうか。


「それにしても、"おせっかい夫人"だなんて。名付けた連中は見る目がないな」


 彼女はただ、誰かの悲しみを放っておけないほど優しい女性というだけだ。

 そして俺は間違いなく、彼女のその優しさに救われた。


 ――だが。

 破かないよう注意深く折り畳んだそれに、軽いキスを落とす。


「その噂のおかげで"虫払い"が出来ているのなら、俺は可愛い妻を慰めるに徹するとするか」


 なんといっても俺は、彼女の夫である"幽霊男爵"なのだから。

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幽霊男爵のおせっかい夫人~借金返済のために結婚した令嬢の、愛され問題解決録~ 千早 朔 @saku_chihaya

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