【KAC2023⑤】ルネサンス筋肉小話~レオナルドVSミケランジェロ~

鐘古こよみ

ルネサンス筋肉小話~レオナルドVSミケランジェロ~


 時は西暦一五〇〇年代、場所はイタリア中部に位置するフィレンツェ共和国。

 ルネサンスと呼ばれる文化的雰囲気が、ヨーロッパ全土に波及していた時代。


 修道僧サヴォナローラによる恐怖の神権政治を脱したフィレンツェにて、二人の天才芸術家による筋肉描写対決が、今まさに幕を開けんとしていた!


 東・カプレーゼ村出身 “筋肉の求道者” ミケランジェロ・ブオナローティ。

 西・ヴィンチ村出身 “筋肉の表現者” レオナルド・ダ・ヴィンチ。


 両者睨み合い、制限時間いっぱい。今にも取り組みを始めそうな雰囲気の中、コホンと咳払いをしたのは、この世紀の取り組み……もとい、天才芸術家二名によるコラボレーション企画を立案実行に導いた、敏腕政治家だった。


 フィレンツェ行政長官 “正義の旗手” ピエロ・ソデリーニ。


 彼の目的は政庁舎パラッツォ・ヴェッキオ二階に新設された大会議場の壁面に、巨匠の手による筋肉絵画をババーンと飾ることだ。

 フィレンツェはここ最近、メディチ家の食い物にされたり、クソ真面目な坊さんの洗脳支配を受けたりして、パッとしなかった。

 かつて近隣国と戦い勝利した日の栄光の筋肉絵画を掲げて、いっちょ景気でもつけますか、といった算段である。


 酒のつまみは過去の栄光に限る。そのつまみを提供するのは、そりゃあ芸術の都として散々鳴らしてきたフィレンツェなのだから、当代随一の巨匠でなくては困る。


 まず白羽の矢が立ったのは「万能の人」として有名なマルチタレント、レオナルド・ダ・ヴィンチだった。既に<最後の晩餐>を描き上げ、一流画家としての地位を不動のものとした彼に、フィレンツェがミラノ公国の軍勢に勝利した<アンギアーリの戦い>を筋肉多めで描かせるのだ。


 ただ、不安があった。レオナルドは確かに天才だが飽きっぽく、難しい理屈をこねて仕事の取り掛かりが遅いわりに、絵を完成させず代金だけ持ち逃げする悪癖があるという。

 部下のヴェスプッチが自分の蔵書に「【悲報】トンズラ魔Lに文化予算垂れ流す。行政長官オワタ\(^o^)/ まあ高みの見物といくわ。どうなるか見ものpgr」とラテン語で書きこんでいるのを見て以来、不安は高まるばかりだった。


 そこで思いついたのが、もう一人巨匠を雇って競わせる作戦だ。筋肉はぶつかり合い、傷ついてこそ成長するもの。レオナルドと相対させるライバルなのだから、もちろん相応の巨匠でなくてはいけない。となると、思いつくのは一人しかいなかった。


 ミケランジェロもまた「万能の人」と呼ばれている多才な人物で、最近<ダビデ像>の制作を終えて手が空いているはずだ。彼にはフィレンツェ軍がピサ軍を打ち破った<カッシナの戦い>を、筋肉増し増しで描いてもらおう。


 ピエロに限らず、この辺りの時代から人々は、筋肉偏愛主義にならんとしていた。


 結論から言うと、ピエロの思惑は当たった。

 依頼を受けて間もなく、ミケランジェロは、触れるものみな傷つけるオーラを全身に纏わせて姿を現した。

 彼を見るなり、弟子兼アイドルのサライといちゃいちゃしていたレオナルドは、眼差しを人体解剖時のそれに変え、懐から愛用の手術用小刀ランセットを取り出して身構えた。

 ミケランジェロの分厚い手の中にも、密かにのみが握られている。絵画の依頼を持ち込まれるたび、「俺は絵描きじゃねえ、彫刻家だ!」と吼えてみせる彼の、分身とも魂とも言える道具だろう。今回の依頼は壁画だが、こうして現れたのはひとえに、ここにレオナルドがいると知ったからに違いない。


 ピエロの誤算があったとすれば、ただ一つ。

 彼らは筋肉の解釈という一点において、ライバルや論敵という言葉では生易しいほどの、殺し合いも辞さない対極の関係にあるのだ。


 既に戦い、いや、殺し合いは始まっている。彼らの睨み合いが狭間の空間を焼き切ろうとしている。ここは大会議場だ、流血沙汰は困る。

 ピエロがコホン、と咳払いをしたのは、まさにそうした状況下においてだった。

 こうなったら、挨拶とか紹介とかどうでもいい。早く仕事して帰ってもらおう。


「よき筋肉に期待いたします。試合、始め!」


 最初に動いたのはレオナルドだった。

 これまでの体たらくはなんだったのかというくらい、素早い動きで赤チョークを動かし始める。まずは下絵シノピアだ。瞬く間に人が、馬が、砲煙や飛び交う矢が、白昼夢のように立ち現れたかと思うと、徐々に現実の重みを伴い始める。


「レオ先生かっこいい! 頑張って!」

 弟子というより応援団としてこの場にいるらしきサライが、マイクを持ってプールポワンのフリル裾を揺らしながら黄色い声を上げる。

「うおおおおお!」

 推しアイドルの応援に力を得たレオナルドの手は残像となり、やがて煙を上げ、炎を纏い始めた。壁面には人馬が複雑に絡み合う躍動的な筋肉が次々と描き出されていく。いつの間にか見物に集まっていた市民たちギャラリーが「おおっ」とどよめきを上げた。


「これが天才レオナルドの筋肉表現……!」

「一つ一つの動作に伴って際立つ部位が厳選され、ダイナミックかつ繊細な命の躍動が感じられる! 戦に翻弄される人馬の魂の悲鳴までもを炙り出すかのようだ!」

「鎧や盾に覆われて肌の露出は少ない。それなのに何故、こうも伝わるの……!?」


 興奮に顔を赤らめ、感涙すら浮かべる市民の姿をぐるりと見渡し、ふんと鼻で息したのは、対面の壁側に待機しているミケランジェロだ。


「あれが筋肉? 笑わせる。そこのお嬢ちゃんのフリルかと思ったぜ」

「こら、ミケ! レオ先生を愚弄するな! それに僕は、お坊ちゃんだ!」

「ちっちっ、愚弄じゃねえよ。これは……死刑宣告だ!」


 叫ぶなり跳躍し、空中で素早く印を切るミケランジェロ。口を開けてその動きに目を奪われた市民たちは、揃って「ああ!?」と驚愕の声を上げた。


 滞空するミケランジェロの身体から眩い光が放たれたかと思うと、その奥に一つの幻影が浮かび上がり、徐々に巨大化してこちらへ向かってきたのだ。

 閉じた眼、百合のようなかんばせ。清純の涙を流し、膝には力尽きた裸の男……救い主を腕に抱く、聖母マリアだ。


嘆きの聖母ピエタ!」


 その一声でミケランジェロの姿は、巨大な聖母に隠れて完全に見えなくなった。

 市民はどよめき、狼狽する。


「み、見えない!」

「見学料払ってここまで来たのに!」

「鬼才ミケランジェロは作業風景を人に見せるのを嫌う……噂は本当だったのか!」

「その通りです!」


 市民たちギャラリーの後ろから一際悲痛な声が上がり、みんなギョッとして振り向く。そこには、目に涙を浮かべた紅顔の美少年が立っていた。


「あ、あなたは!」

「レオナルド、ミケランジェロと並んでルネサンスの三大巨匠と名高い、ラファエロ・サンティさん……!?」

「僕はただミケランジェロさんを尊敬してご挨拶したかっただけなのに、シッシッて追い払われたんですよ!? ああいう若造に気を許すと絶対に罠に嵌められるとか、パン屋の女の尻ばっか追いかけてキモいストーカー乙とかSNSに書くし!」


 わあ、なんて陰湿な。人々がラファエロに同情し、やや引き気味に巨大なピエタ像を見上げた時だった。その美しい顔の中央に、ピシッと光の線が走った。

 扉が開くように、その線から先ほどの光が溢れる。


「うわあああッ……!」


 人々が目を背け、しばらくして光がやんだ。目を庇っていた腕をどかし、恐る恐る顔を上げると、そこには――


「こ、これは!!」


 誰もが瞠目し、驚嘆せずにはいられなかった。

 そこには、レオナルドのものとは全く違う、筋肉の驚異が描かれていたのだ。


 まず認められるのは、数多の男たちの裸体だ。

 水浴びをしていたのだろう。そこに敵の急襲を受け、慌てて岩に上ったところだ。混乱の様子が伺える様々なポーズと表情で、男たちはこれでもかと、己の筋肉美を鑑賞者に訴えかけてくる。

 レオナルドと違うのは、依頼された絵画の題材が戦勝記念であることなど一切顧みる気配がなく、ただひたすらに筋肉を主役として描けるシチュエーションを選び、あらゆる筋肉パターンをこれでもかとばかり盛り込んでいる点である。どんなに小さな筋肉の挙動も描き漏らすまいとする凄まじい執着心に、観る者は圧倒される。


「に……肉の大感謝祭や~~~~!!」


 知らず市民たちギャラリーが心を一体化させて声を上げてしまうような、有無を言わさぬ迫力と説得力に満ちた、筋肉の祭典がそこに繰り広げられていた。


「ううっ、さすが、 “筋肉の求道者” の異名を誇るだけある……!」

 首筋の汗を拭って思わず呟いたサライに、レオナルドの鋭い声がかかる。

「サライ、顔料を載せるぞ! 絵筆をよこせ!」

 ハッとしてサライはマイクを置き、顔料入りバケツと絵筆を手に走った。


 この時代、壁画を描く技法と言えば、普通はフレスコ画だ。壁面に漆喰を塗り、それが乾かないうちに水性顔料で色をつける。すると、漆喰が乾くと同時に顔料が定着し、絵は壁と一体化して高い耐久性を持つようになる。ただ、一度乾くとやり直しがきかない、難しい方法でもある。

 レオナルドは塗り直しができない画法を嫌い、「乾式ア・セッコフレスコ」と呼ばれる画法で壁画を描いた。最初に漆喰を壁面全体に塗り、それが乾いてから下絵を転写し、定着材を混ぜた顔料で彩色していくのだ。

 この定着材として彼が今回選んだのは、ろうだった。


「先生、本当にこの方法で大丈夫なんですか?」

「心配するなサライ、小さな板絵で実験済みだ。顔料を混ぜてっと……こうだ!」


 蝋を定着材にして炭火で顔料を焼き付ける――文章で説明するとそういうことを、このときのレオナルドは行ったらしい。

 小さい板絵では成功した。だが大きな壁面では、炭火の熱が上手く伝わらなかったようだと、数多の目撃者の証言が伝えられている。

 

 何かが上手くいかなかったようだ。

 蝋が溶け出し、躍動感溢れる人馬一体の筋肉絵は、台無しになった。


 シン、と場が静まり返る。


 レオナルドは壁面を見つめ、しばらくの間、遠い目をしていた。

 急に「あっ」と言って、お腹を押さえる。

「ちょっとお腹が……あいた、あいたたたた」

 身を屈め、呆然としている人混みをかき分けて、部屋から出ていく。


「待ってください先生、変なものでも食べましたか~?」

 すかさずサライが後を追い、そのまま二人は、いつまでも帰ってこなかった。


「まさか……」


 ピエロが事態を察した頃には、時すでに遅し。「オワタ\(^o^)/」のラテン語が脳裏を掠め、慌ててミケランジェロの方を見る。


「ミケランジェロさん、あなたは逃げたりしませんよね?}


 しかし、様子がおかしい。ミケランジェロは不敵な笑みを浮かべたまま、そこに立ち尽くして微動だにしない。

 怖いもの知らずの市民の一人がのこのこ進み出て、肩に手を置き叫んだ。


「あっ、行政長官さん、こいつ彫刻ですぜ!」

「なんだとぉ!?」


 残念ながら事実だった。ミケランジェロがさっきまでいた辺りに残されていたものは、精巧に造られた本人そっくりの彫刻だったのだ。

 背中に張り紙がしてあった。

「レオナルド去りし今、この場は留まるに値しない。次なる筋肉が俺を呼んでいる」


 行政長官ピエロはがっくりとその場に膝をついた。

 市民たちは同情の声を上げながら、三々五々散らばって、残された二つの壁画に群がり始めた。何故だか手に手に、鑿や金づちを持っている。


「まあこれだけの作品だ」

「剥がして持ってりゃプレミアつくだろ……」

「待て待てお前たち! 至高の筋肉芸術をバラバラにする気か!?}


 若い画家が市民たちに食ってかかり、壁画が剝がされる前にと、必死で模写を始める。押し合いへし合い、噂を聞きつけた新規客まで次々と入場してきて、大会議場は大変な騒ぎだ。ミケランジェロ本人の像も取り合いの末に壊され、皆がかけらを拾っていく。


「は……はは……あははははは……!!」


 狂ったようなピエロの笑いも騒ぎの渦に紛れて、完全に狂騒の一部となった。


 ――こうして、史上稀に見る巨匠同士の筋肉描写対決は、始まったとも終わったとも言えないまま幕を閉じ、決着の行方は歴史の闇に埋もれた。


 若手画家たちの必死の模写のお陰で、この時に描かれたミケランジェロの下絵と、レオナルドの下絵の一部は、現在も展覧会などで見ることができる。


 もしも二つの絵が完成していたら、相対する筋肉絵の壁に挟まれた大会議場での会議は、果たしてどんな空気で行われることになっていたのだろうか。

 巨匠たちの自由な振る舞いが残した美術史上の煌めく痕跡に、興味は尽きない。


<了>



【参考文献】

斎藤泰弘(2019)『誰も知らないレオナルド・ダ・ヴィンチ』NHK出版


※この作品は史実に基づいたフィクションですが、ほぼほぼ事実です。



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