第9話 疑心


 あの電話でひと段落つくかと思いきや、とんでもない。余計にややこしくこじれた翌日。

 泣き腫らした目で起きてきた南に、点呼で寿と会う前に少しでもマシになればと濡れタオルを渡した。正直冷やすのがいいのか、温めるのがいいのか、なんとなく蒸しタオルの方が良いのだろうが、残念ながら洗面所でお湯は出ないし、食堂で用意しようにもそうこうしている内に人が集まってしまうだろうから、ないよりマシ戦法でいくしかない。


 目はパンパンに腫れているものの、気持ち的には一晩経ったことで落ち着いているのか、電話のことを蒸し返すわけでもなく、南は「ありがとう、ごめんね」とだけ言った。

 落ち着いているなら無暗につつくこともないだろうと、私も何も聞かないことにする。本音を言えば、これ以上巻き込まれたくない。痴話げんかは犬も食わないと言うし。野次馬精神で首を突っ込んだら大火傷しそうだというのは、昨日の一件で分かった。


「あ、高野。おはよ」

「高坂。おはよう」


 点呼の時間が近づき、食堂へ降りようと踊り場を通りがかったところで、丁度部屋から出てきたらしい高坂と会った。高坂の部屋は踊り場側の一番端なので、タイミングが合うとこうして顔を合わせることも多い。

 高坂は私の後ろに隠れるようにして立っている南に気づいたらしく、何か察した顔をすると同情するような目で私を見た。

 私も苦笑いでそれに応えるが、南がそれに気づいたようで、分かりやすくむっとする。


「もぉ、なによ今のアイコンタクト!」

「うわバレた」

「こっちは傷心中なんですけど――」


 南の表情が一瞬固まる。視線の先には、寿だ。

 うわ、気まずい。私と高坂の思考がリンクした瞬間、高坂の体がぐらりと揺れた。

 南が高坂の腕に、自分の腕を絡めている。突然のことで、何も反応できない。高坂も驚いたような困惑したような顔で南を見ている。


 南はそんな私たちに構わずわざとらしく声を大きくする。


「高坂みたいな彼氏羨ましいなぁ」

「…ちょっと、南」

「高野は幸せ者だね! めちゃくちゃ愛されてて、」

「南」


 鋭い声が響いて、南の腕が解かれる。自分から離したのではない。

 べったりとくっついた二人を引き離したのは、寿だ。見たことのない表情をしている。


 ――怒っているような、悲しそうな、それと、何かを諦めたような。


 南を見る。

 見て、あぁこれはダメだと思った。

 悪戯がバレた子どもの顔、ならまだかわいげがあると思えたかもしれない。拗ねたような顔の裏に、透けて見えるのものは、寿が来てくれたことに対する喜びだ。

 今の南の頭には私や高坂に対して悪いことをしたなんて感情がこれっぽっちもないだろう。ただただ寿が妬いて、自分のところに来てくれたということしかない。


「朝から痴話げんか?」


 ピリついた踊り場の空気をぶち壊したのは、寝ぼけた顔で出てきた久保博滋くぼひろしげだった。


「久保~! 俺と高野は被害者だよ」


 膠着状態の4人の中で、それに一番最初に反応したのは高坂だ。

 くるっと久保を振り返って大げさなリアクションで久保の肩に腕を回す。久保は鬱陶しそうに逃げようともがいているが、高坂はしつこく絡んでそのまま洗面所の方へと歩いていく。ちらりと私を見て、気まずそうな寿をじっと見つめる南を顎で示す。なんとか連れていけということだろう。南を私に投げるなら、寿のことも連れて行ってほしかったが仕方がない。

 もうじき点呼だ。いつまでもここにいたところで、無駄に注目を集めるだけである。


「南、行くよ」

「……うん」


 南は思いのほか大人しくついてきた。寿が来たという事実だけで満足したのか、短く返事をしたあとは何も言わない。

 一旦は収まったはずの南に対する怒りがふつふつと心の底で蠢きだしている。けれど、これは仕方ないのではないか。怒ってもいいだろう。

 南の自分勝手な都合に、私をないがしろにされて、高坂が巻き込まれて。


 けれど、どう怒ればいいのかわからない。今の南にちゃんと話が通じるのかという不安がある。

 南が何を考えているのか、いや、それ自体はわかる。今までの行動を見れば、寿に好かれているという実感が欲しいのだろう。だからあんな暴挙に出た。

 あんな場面で、寿を見て目を輝かせる今の南を刺激していいのだろうか。

 これ以上巻き込まれたくないと思っていたのに、もう手遅れだと言わんばかりに嵐の方からやってくる。


 結局点呼が終わり、朝の掃除が終わり、学校に行く時まで、南は一言も喋らなかった。



 

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きっとこれは恋じゃないのに。 秋庭 @hrn_kiwa

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