六話

 人通りの多い道をヒューは歩いていた。これまでいくつかの町村を巡って来たが、この町はそれまでの中で一番大きな町のようだった。建物はどれも大きく、商店もあちこちに見える。行き交う人は切りがなく、どこを歩いても喧騒が絶えない。その活気に溢れた空気にまだ慣れないヒューは、目まぐるしさから少し離れようと、町中を流れる川沿いに進んだ。


 透き通った綺麗な水がさらさらと静かに流れている。そこに鴨の群れが浮かび、時折水中にくちばしを突っ込んではすいすいと泳いでいた。そんな景色を横目にヒューは歩いていたが、喧騒から離れたつもりが、ここでも人は多く見かけられた。散歩をしている人や、ベンチで休んでいる人などが目に付く。正午を過ぎた時間帯だからかもしれない。子連れの女性だったり、すでに引退したような老人も多い。皆もヒューと同じく、川の流れる景色と音で心を休ませに来ているのだろう。


「ちょっと、君……」


 どこからか声をかけられ、ヒューは周囲を見る。が、相手はどこにも見当たらない。気のせいだったのだろうかと思った時、再び声がした。


「こっち、こっちだよ」


 振り向いてみても、そこには建物の壁しかない。と思ったが、よく見ればその建物と建物の間のわずかな隙間に隠れるようにして、若い男性が小さく手招きをしていた。何だろうかと、ヒューはとりあえず近付いてみる。


「……何でしょうか」


 男性は尚も壁に身を隠しながら、抑えた声で言った。


「君に、頼みたいことがあるんだけど……」


「僕に、ですか?」


「そう。子供の君なら怪しまれないと思うからさ……いいかな」


 そう言いながら男性はヒューではなく、別のほうをちらちらと見ていた。


「どんなことでしょうか」


「えっと、これなんだけど――」


 すると男性は背中に隠していた花かごを見せた。色とりどりの花がぎっしりと詰まった可愛いかごだ。


「これをさ、あそこにいる彼女に渡してきてくれないかな」


 あそこと言って指差したほうをヒューは見やる。川に面して置かれたベンチ……そこには長い金の髪の女性が座る姿があった。


「……自分で渡したくないんですか?」


 すぐ目の前にいるのにわざわざ他人に頼む理由がわからず、ヒューは聞いた。


「渡したくないってわけじゃないんだけどさ……自分だと、やっぱ、恥ずかしいから……」


 そう言うと男性は急にもじもじし始める。よくわからないが、本当に恥ずかしいらしい。


「頼むよ。渡してくれるだけでいいから……そうだ。お駄賃あげるよ」


 ズボンのポケットを探ると、男性はそこから硬貨を二枚取り出した。これと引き換えに渡してくれということらしい。だがヒューにとって金は魅力的なものではない。あっても困りはしないが、食事は道端で済ませるし、眠るのもそこいらで済んでしまうのだ。金を使って何かすることは今のヒューの生活には組み込まれていない。


「……まさか、これじゃ足りない、とか?」


 無反応で見つめるヒューに、男性は不安そうに聞く。


「お金は要りません」


「え? じゃあ――」


「その代わりと言っては何ですけど、僕の主になってくれませんか?」


 これに男性はぽかんとヒューを見つめる。


「……ど、どういうこと?」


「僕はあなたのしもべになって命令を聞き、力になります」


「しもべとか主とか、何言って――あっ!」


 急に男性は慌てた声を上げた。その視線はベンチの女性を見ていた。振り向いてヒューも見ると、女性はちょうど立ち上がり、その場を去ろうとしている。


「サラさんが行っちゃうよ! 頼むから早く――」


「それじゃあ僕の主になってくれますか?」


「……っ!」


 男性は言葉に詰まりながらヒューと遠ざかる女性とを交互に見ていたが、急ぎたい気持ちが勝ったのか、大きな声で言った。


「わかった。主とやらになるから、見失わないうちにこれ渡してきてくれ!」


 花かごを押し付けられたヒューは、それを笑顔で受け取る。


「わかりました。じゃあ僕のことはヒューと呼んでください。ご主人様のお名前は――」


「そんなこと後でいいから、早く行って! 早く!」


 背中を押されたヒューは仕方なく女性の元へ急ぐ。ベンチから離れた女性はそのまま川沿いを歩いていた。その姿を見つけ、ヒューは走って追い付く。


「あの、待ってください!」


 後ろから声をかけると女性はすぐに振り返った。華奢な身体が髪を揺らし、丸く見開いた緑の瞳がヒューに気付く。その容姿は男性と同じく若い。


「……何? 坊や」


 微笑んだ女性にヒューはすかさず花かごを差し出した。


「これを、あなたに渡すよう頼まれました」


「え? これを……?」


 可愛らしい花が詰まったかごを女性はおずおずと受け取る。


「別に記念日でも何でもないけど……ん?」


 すると女性は花の間に小さな手紙を発見し、それを開いて読む。何やら嬉しいことでも書いてあったのか、女性の顔に笑みが浮かぶ。


「……ねえ坊や、これは誰からのものなの?」


「あそこにいる方から――」


 そう言って建物の壁のほうを指差すが、そこに男性の姿は見えなかった。


「? さっきまでいたんですけど……」


「そう……じゃあ代わりにお礼を言っておいてくれる? 素敵なお花をありがとうって」


「はい。言っておきます」


 女性は嬉しそうに花かごを抱えると、笑顔を残して立ち去った。それを見送り、ヒューは踵を返して男性のいた場所へ戻った。


「……どっ、どうだった?」


 戻ると建物の横からすぐに男性が現れた。隠れていただけらしい。


「ちゃんと渡してきました」


「そうじゃなくて、彼女の、サラさんの反応だよ」


「喜んでるように見えました」


「本当か? よしっ!」


 男性は拳を握り、満面の笑顔を見せた。


「誰からのものか知りたがってましたけど、教えたほうが――」


「いや、それはいいんだ」


「何か都合でも悪いんですか?」


「だからさ、恥ずかしいっていうか……僕じゃサラさんと、釣り合わないっていうか……」


 またもじもじし始めた男性に、ヒューは率直に聞いた。


「もしかして、あの人のことが好きなんですか?」


「そっ、そんなこと、君には関係ないだろ!」


 男性は伸びた黒髪の下で耳を真っ赤にしていた。


「関係なくはないですよ。僕はしもべとして事情ぐらいは知っておきたいんで」


「何だよ、しもべって。知らなくていいよ!」


「そうですか……ところで、ご主人様のお名前は何というんでしょうか」


「ご主人様って……ああ、主がどうとか言ってたから、そんなふうに呼ぶのか」


「嫌ならお名前で呼びましょうか?」


「そうだな……僕はリアムだよ。君はヒュー、だったっけ?」


「はい」


「それじゃあヒュー、明日も同じこと、頼めるかな」


「同じというのは、花をあの人に渡すことですか?」


「ああ。彼女……サラさんに明日も花を渡してほしいんだ」


「でも、あの方がまたここに来るかはわからないんじゃ……」


「天気が良ければ来るよ。サラさんは僕と同じ学校に通っててさ、学校終わりに必ず川沿いのベンチで休んで帰るんだ。だから大丈夫」


「はあ……そうなんですか」


 リアムはヒューの肩をつかむと、真っすぐ目を見て言う。


「明日のこの時間、この場所にまた来てくれよ。待ってるからさ」


「わかりました。リアム様のために必ず来ます」


「じゃあ頼んだぞ」


 そう言ってその場を後にするリアムの後ろをヒューは付いて行こうとしたが、気配に気付いてすぐにリアムは振り向く。


「……な、何で付いて来るんだよ」


「しもべは主のお側に付いてないと……」


「付いて来るなって! 一人で帰れってば」


「でも――」


「でもじゃない! 来たって家には入れらんないよ。ここでお別れだ」


「そう言うのなら……仕方ありません」


「また明日会おう」


 しょんぼりするヒューを残し、リアムは建物の向こうへ消えて行く。しもべとしてはいつでも主の側にいたかったが、それを拒否されては素直に聞く他ない。姿は見えなくなるが、それでも主としもべの関係には違いないのだと、ヒューは自分に言い聞かせて今夜の寝床探しに向かうのだった。


 翌日、ヒューは言われた通り同じ時間、同じ場所に来ると、リアムから花を受け取り、ベンチで休む思い人サラにそれを渡した。再びのことにサラは驚き、首をひねりはしたが、添えられた手紙を読むとすぐに笑顔を見せ、礼の言葉を伝えるよう頼み帰った。これにリアムはまた少し自信を付け、よくやったとヒューを褒めた。主の力になれている――そう感じるだけでヒューは嬉しかった。明日も頼むと言われ、喜んで頷いたヒューは次も、その次もと、連日サラにリアムからの花を渡し続けた。こうも多いとヒューとサラは顔見知りになり、互いの名前を知るまでになっていた。花の贈り主について、サラは気にしているふうではあったが、たずねることはなかった。一体誰からなのか、手紙の文面から思い浮かぶ人物を予想することを楽しんでいるようだった。だからヒューもリアムの名を出すことはなかった。


 だが、花を渡し続けて一週間が過ぎた頃だった。


 この日もヒューはリアムに見守られながら、川沿いのベンチで休むサラの元へ向かった。その手には小さな花束が握られている。


「……こんにちは」


 声をかけるとサラはすぐに振り向き、笑顔を浮かべる。


「こんにちはヒュー。今日も来て……くれた、のね……」


 元気に挨拶をしたと思うと、その言葉は徐々に尻つぼみになっていく。いつもとは違う様子にヒューは聞いた。


「どうかしましたか?」


 そう聞いた少年の全身をサラは見ていた。頭からつま先までを、曇った表情が見つめる。何だろうかとヒューが自分の身体を見下ろした時、サラが聞いた。


「ねえヒュー、毎日ちゃんと食べてる?」


 突然の質問にヒューは不思議に思いながらも答えた。


「はい。食べてますけど」


「そう……それにしては痩せてるわね……」


 草花が主食では大量に食べても太れないが、そんな食事でもヒューに不満は微塵もなかった。


「それに、身体も汚れてる……お風呂には入れてるの?」


 汚れていると言われて、ヒューは改めて身体を見下ろす。確かに服には汚れが目立っていた。道端で野宿をしているせいでもあるが、この町に来る前は見かけた水場で定期的に身体や服を洗うこともできていた。しかし町の中では川があるとは言え、行き交う人々の目が多くある。そんな場所で堂々と水浴びなどできるはずもなく、ヒューはここしばらく身体を洗えていなかった。


「水浴びをしたのは、七日以上前のことです」


「そんなに? お家では入れないの?」


「僕に家はありません」


 サラは目を丸くした。


「もしかして、身寄りがないの……?」


「両親はいませんけど、ご主人様ならいます」


「ご主人様? って、誰のこと?」


「この花を渡すよう僕に言ってくれる方です」


 ヒューは持っていた花束をサラに見せ、差し出す。どうぞと言われ、サラは複雑な表情でそれを受け取った。


「ヒューは、その人に指示されてるの?」


「はい。僕の主ですから」


 にっこり笑ったヒューとは対照的に、サラの顔には嫌悪感が浮かんでいた。


「まだ何もわからない小さな子に、主と呼ばせたり、こんなことさせるなんて……」


「主は主ですから、そう呼んでるだけですけど」


 ヒューにはサラが何を気に入らないのか、まるでわからなかった。感情を理解できていない少年を不憫な目で見るとサラは言った。


「今日は私の家に来て。食事と、お風呂に入りましょう」


「何でですか?」


「だって、汚れちゃってるし、お腹、空いてない?」


 どちらかと言えば空いていたが、その前にヒューは花を渡したことをリアムに報告しておきたかった。


「一度、ご主人様の元へ戻ってもいいでしょうか」


「その人のことだけど……名前は、何ていう人?」


 ヒューは迷った。リアムは名前をまだ知られたくないような態度を見せていて、ここで教えるべきではないようにも思えた。


「お願い。私、その人に会いたいの」


「……会いたいんですか?」


 サラから会うことを願っていると知れば、リアムはきっと喜ぶだろう。それなら今教えても問題はないかもしれない。絶対に言うなとも言われていないし――そう判断したヒューは口を開いた。


「それなら教えます。ご主人様のお名前は、リアム様と言います」


 これにサラはわずかに驚いたように小さな声を漏らした。


「え……リアムって、同じ教室の……?」


「同じ学校に通ってると言ってましたけど」


 そう言うとサラは落胆した溜息を吐いたが、すぐに微笑むとヒューを見た。


「わかった。ヒューにこんなことさせてるのはリアムなのね。今日はとりあえず私の家に行きましょう。戻るのはその後でもいい?」


「早く報告はしたいですけど、そうしたいなら、仕方ないです」


「じゃあ行きましょうか」


 サラと並んで歩き出したヒューは、背後をちらと振り返る。建物の壁から顔だけ見せているリアムを見つけたが、呼び止めてくる素振りはない。このまま行っても大丈夫だろうかと心配を残しつつ、ヒューはサラの家へと向かった。


 リアムとヒューが再会したのは一時間後、サラの家を出た直後だった。見送られ、道の角を曲がったところでリアムが飛び出して来たのだ。


「ヒュー! な、何でサラさんの家に招かれたんだよ! ずるいじゃないか!」


「リアム様……わざわざ来てくれてたんですね」


「どうしてサラさんは君なんかを……ん? ヒュー、ちょっとさっぱりしてないか?」


「風呂に入れてもらいました」


 リアムは目を見開いて見つめる。


「なっ……サラさんも使う風呂に、だと?」


「あと、料理もごちそうになりました」


 リアムの目がさらに見開く。


「なあっ……サラさんの家の味を堪能したのか! くう……当然、美味しかったんだろ?」


「はい。どれも美味しかったです」


 悔しげにリアムは天を仰ぐ。


「ああ、羨ましすぎる……サラさんの家に、側に行けるなんて……」


「大丈夫です。リアム様も側に行けますよ」


「い、行けるなら、こんなことしてるかよ。はあ……できることならそうしたいけどさ」


「だから、大丈夫です」


 リアムはヒューをじろりと睨む。


「何を根拠に大丈夫だって――」


「サラさんが明日、リアム様に会いたいと言ってました」


「……へ?」


 動きを固まらせてリアムは見つめる。


「ま、待て……まず、何でサラさんが僕のこと知ってるんだよ」


「僕が教えました。……やっぱり、まずかったですか?」


 聞いてくるヒューにリアムは複雑な表情を見せる。


「まずい、けど、まずくない、っていうか……この後次第だ。その、サラさんが僕に、会いたいっていう……本当にそんなこと言ってたのか?」


「はい。明日、直接会ってお話ししたいから、僕に伝えてほしいって」


「僕と、話を……!」


 思いも寄らない展開に、リアムはおろおろと戸惑い、しかし大きな喜びと興奮を覚えていた。


「それって、僕が花に込めた気持ちが、サラさんに届いたってことなのか?」


「わかりませんけど、リアム様のお名前を知りたがってたから、そういうことなのかもしれませんね」


「や、やった! 贈り続けた成果がようやく……それで、サラさんはどこで会いたいって?」


「いつもの、川沿いのベンチで待ってると」


「そ、そうか。あのベンチで……こうしちゃいられないな。明日のために用意しないと」


「よかったですね。想いが通じて」


 ヒューが笑いかけると、リアムも笑みを浮かべた。


「全部ヒューのおかげだ。ヒューがいなきゃ僕はサラさんを遠くから見てるだけだったんだからさ。明日も来てくれるだろ? サラさんもきっと、ヒューに感謝したいはずだ」


「行ったら邪魔じゃありませんか?」


「そんなわけないだろ。ヒューは僕達を結び付けてくれた功労者なんだからさ」


「ありがたい言葉です……それじゃあ、そうします」


「ああ。待ってるからな……本当、ありがとう」


 礼の言葉を残し、リアムは走って帰って行く。幸せを溢れさせる後ろ姿を見送り、ヒューもしもべとしての幸せを感じていた。主が喜んでくれる姿を見ることこそ、しもべの至福の時。次もまた働こうという気持ちを強く湧き立たせてくれる。明日になれば、もっと幸せなリアムを見れるだろう。それを楽しみにヒューは今日の寝床へと向かうのだった。


 そして、次の朝を迎えた午後――


「サラさんは? 来てるか?」


 いつもの建物の壁の陰から、リアムはベンチのほうをうかがいながら聞いた。


「……まだです」


 道に立つヒューは何の姿もないベンチを確認して答えた。それを聞いてリアムは落ち着きなく息を吐く。こう聞かれるのはもう何度目かわからない。ヒューはいつも通りの時間にここへ来たのだが、その時にはすでにリアムがいて、聞けば二時間前から待っていたという。黒い髪は整髪料で撫で付け、見慣れた普段着も今日はしわ一つない上着とズボンで、見るからに気合いの入りようが違った。それと同じぐらい緊張もしているようで、ヒューが来てからはベンチを見てくれと、何度も確認をさせていた。それでまだいないと聞くと、その二分後にまた確認をさせる……そんな繰り返しだった。だがそれがしもべの役目だと、ヒューは呆れもせず実直に報告をしていた。


 そんな中、待ちに待った時はやって来た。


「……リアム様、サラさんが来ました」


 そう言うとリアムは壁から半身をのぞかせ、ベンチのほうを見つめる。そこには奥から歩いて来るサラの姿があった。


「きっ、来た!」


「行きましょう」


「ちょっ、ちょっと待ってくれ! まだ、心の準備が……」


 そう言ってリアムは胸に手を当て、深呼吸を始める。


「……よし、大丈夫だ。行こう!」


 自分を落ち着かせ、リアムはヒューを連れてサラの元へ向かった。


 ベンチには座らずに川を眺めていたサラは、近付いて来る二人に気付いて表情を引き締めた。


「リアム」


 名前を呼ばれ、抑えた緊張がまた出てきたのか、リアムは強張った顔と口調で言う。


「っやあ、サラさん、こ、こんにちは。僕なんかと、話がしたいなんて言ってくれて、すごく、嬉しいよ」


「その話なんだけど――」


「あっ、その前に、これを……」


 リアムは持っていた一本の薔薇を差し出す。


「始まりの今日は一本だけど、次に会う時はもう一本増やして、そのたびにどんどん増えて、最終的には抱え切れないほどの花束になればいいかなって、そう思ったりしてさ……サラさん、薔薇は好きかな」


 耳を赤くしながらも言うリアムだったが、それをサラは険しい眼差しで見るだけで、差し出された薔薇に手を伸ばす様子もなかった。


「……花は綺麗だから、何でも好きよ」


「よ、よかった。じゃあ――」


「こんな花より、あなたはヒューを見て何とも思わないの?」


「……え?」


 突然言われたヒューも驚いてサラを見た。


「痩せて、身体も汚れて……だから昨日、家に来てもらって食事と入浴をさせたの」


 リアムはサラの様子に困惑する。


「あ、あの、何の話を――」


「身寄りもないって聞いたわ。リアムはそれ、知らなかったの?」


「身寄り? え?」


 リアムは隣に立つヒューとサラとを交互に見やる。


「それともう一つ。あなた、ヒューに自分のことを主だとかご主人様とか呼ばせてるそうね」


「そ、それは違う! 誤解で――」


「何もわからない小さな子をいいように使って……自分のしてることにためらいを感じないの?」


「だから、そうじゃなくて……ヒュー、僕が言わせてるんじゃないって説明してくれ!」


 必死な目に促され、ヒューはサラに言った。


「僕がそう呼ぶのは、リアム様が僕のご主人様で――」


「リアム様……?」


 嫌悪の視線がリアムを突く。


「ヒュー! ちゃんと言ってくれ! 主と言ってるのは君だけで、僕は――」


「ひどいのね。全部子供のせいにするなんて」


「違う! 誤解なんだよ!」


「そうです。リアム様は――」


「ヒューは黙ってろよ!」


 睨む目と共に怒鳴られ、ヒューはビクッと肩を跳ねさせた。


「最低ね。言い訳ができないと子供を怒鳴るのね」


 見損なったと言わんばかりの目がリアムを見る。


「本当に違うんだよ。本当に、これは……」


「他人の苦しみを見ぬふりして、自分さえよければいいって人、私は尊敬できないし、気持ちも受け取れない。まして子供に横柄な態度を取る人なんて、人格を疑いたくなるわ」


「サラさん……」


 冷たい視線を浴びせられ、何の言葉も言えなくなったリアムを横目に、サラはヒューに歩み寄った。


「誰も頼る人がいなくて、食べる物も寝る場所もないなら、ここを訪ねてみて。ここでは困ってる人達を助けてて、きっとヒューの力になってくれるはずよ」


 そう言って渡された紙をヒューは見る。そこには簡単な地図が描かれており、大きな丸で示された箇所には、支援という文字と共に教会の名前が書かれていた。ここで世話になれということらしい。


「これは必要ありません。僕には主であるリアム様が――」


「ヒューに主なんていないの。リアムが勝手に決めたことなんだから、聞かなくていいのよ」


 これにリアムは何か言いたげにサラを見るが、言葉を発することはなかった。


「ちゃんと助けてくれる人に会って。ここにいちゃ駄目よ?」


 ヒューの頭を撫で、にこりと笑ったサラは、隣のリアムをいちべつすると、特に何も言わず、そのまま踵を返して去って行った。小さくなっていく姿を、リアムはただ悲しそうに眺め続ける。


「……どうして、こんなことになったんだ……」


 互いの気持ちが通じ合ったと思ったら、その逆だった。サラはリアムを軽蔑し、不信を抱いていた。ほんの数分前までは天にも昇りそうな幸せを感じていたのに、一体どこで変わってしまったというのか。


「リアム様、その、何だか残念なことになってしまって……」


 ヒューにもこんな結果になった理由がわからなかったが、自分の力が至らなかったせいだと、気まずい空気を感じて目を伏せた。そんなヒューを見たリアムは、その目にじわじわと怒りをともらせていく。


「……サラさんに、何を言ったんだよ」


「何、とは?」


「家に招かれた時、何か言ったんだろ。それまでは何もなかったんだ」


 ヒューがサラの家へ行くまでは、サラに変化は見られず、いつも通り笑顔で花を受け取っているのをリアムは見ていた。心境が変わったとするなら、ヒューが家へ行った時しか考えられなかった。


「僕は、リアム様のことは何も……」


「正直に言えよ! 僕の悪口を言ったんだろ!」


「そんなこと言うわけが――」


「こき使われてるとか、何にも助けてくれないとか、嘘ばっかり話したんだろ!」


「リアム様は僕の主で――」


「それやめろよ! 気持ち悪いんだよ!」


 ヒューは呆然とし、睨むリアムを見つめる。


「勝手にそんな呼び方して、それでサラさんに嫌われたんだぞ! 僕が望んだわけでもないのに……全部お前のせいだ。お前がいなきゃ上手く行ってたはずなんだ!」


「ご、ごめんなさい。僕がしっかり言えなかったから……」


「そうだよ! どうしてくれるんだ! これからどんなふうにサラさんと会えばいいんだよ!


え?」


「僕が会って、サラさんに説明して――」


 リアムの怒りの視線がヒューの言葉をさえぎる。


「お前なんかに誰が頼るか。もう目障りなんだよ!」


 胸を押し潰す言葉に、ヒューは一瞬息を呑み、聞く。


「僕はしもべなんです。お側にいさせてくれますよね……?」


「何がしもべだ。気持ち悪いって言っただろ! もう俺の前に現れるな!」


 不愉快極まりない目がヒューを突き放す――しもべにとって、一番無念で悲しい言葉だった。主の役に立てず、その上怒らせては、ヒューに弁解の言葉はない。


「もう、僕の主になってくれないんですか……?」


「初めからなったことなんてない! そっちが勝手に言ってたことだろ。子供の遊びになんか付き合い切れないんだよ!」


 そう吐き捨てるとリアムは感情もあらわな足取りでその場を去って行く。


「待ってくだ、さい……」


 呼び止めようとするも、リアムにその声は届かず、ヒューは落胆の顔で見送ることしかできなかった。また、主を失った――しもべとしての幸せはいつつかめるのか、ヒューは孤独にそれを探し続けるしかなかった。

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