十三話

 長い階段を駆け上り、光の差し込んでくる出口を出ると、そこには緑の庭が広がっていた。芝は刈り込まれ、植木も手入れがされており、人の手がしっかり入っている庭だ。その右側には白い石壁の大きな建物があり、反対の左側にはレンガで作られた高い塀が前後に長く伸びている。ここは誰かの家の敷地内なのか。少なくとも公園や空き地ではなさそうだ。だが今はどうでもいいことだ。太陽の光は浴びられたが、ここからのさらなる逃げ道を探さなければならない。左の塀は高すぎて子供の二人が乗り越えることは無理だ。とりあえず庭を突っ切り、別の道を探るしかなかった。


「待て! 逃げんな!」


 後ろからは階段を上る男の声が追って来る。ヒューはリンゼーの手を引き、整えられた庭の中を駆けて行く。塀が途中で途切れていないかと期待するも、それはどこまでも長く続いていた。だがやがて角にぶつかり、二人は右へ曲がる。するとそこにも広い庭があり、人工の池や花を咲かせる低木などが美しい景観を作り出していた。


「ヒュー、あそこ……」


 リンゼーが何かを見つけ、遠くを指差す。庭の奥、塀が連なる先に門が見えた。あそこからなら出られそうだった。


「行きましょう」


 再び駆け出し、美しい庭に入ろうとした時だった。


「おおっ!」


「わっ!」


 植木の陰から現れた老人とぶつかりそうになり、ヒューは思わず声を上げた。


「んん? 見かけん子供だな。どうしてこんなところに……もしや、こっそり入って来たのか」


 麦わら帽子に腕まくりをしたシャツ、腰には何種類ものハサミを入れた袋を提げる老人は、どうやらここの庭師のようだった。


「先週、あの木の枝が折れてたのは、お前達の仕業じゃないのか? ええ?」


「違います。僕達は――」


「言い訳は後でゆっくり聞いてやる。子供と言えども、これは立派な不法侵入だぞ。お灸を据えてやる」


「――てめえら!」


 角を曲がって現れた男が二人を見つけ叫んだ。これに庭師の老人は驚いた顔を向ける。


「んあ? 何だあやつは――あっ、待て! お前達にはお灸を……」


 老人の意識が逸れた隙に、リンゼーがヒューの手を引いて建物の中へと駆け込んで行く。


「リンゼー、出口はこっちじゃありません」


「あの人に追い付かれたら門までたどり着けない。だから一旦逃げなきゃ」


「でもどこに逃げるんですか?」


「わからない、けど、あの人が見失ってくれれば……」


 リンゼーの考えはわかった。しかしヒューは建物内に逃げ込んだのはまずい気がした。確かに追って来る男は撒けるかもしれないが、ここにいる人らに自分達が逃げていることを知られるのだ。そうなれば追っ手はさらに増える可能性もある。


 そしてそんな気がかりは、やはり的中した。


「きゃあ! 誰、あなた達」


「何で子供なんかが……」


 美しい庭を作れるだけあり、部屋の中も豪華に飾られていた。高そうな家具に品のある内装。そんな部屋を綺麗に保つため、数人の使用人達が働いていたが、その脇を駆け抜ける二人の子供に皆驚きの声を上げる。


「おい! そいつら捕まえてくれ!」


 建物に入って来た男がそう叫ぶと、目で追っていただけの使用人達が動き出す。


「奥様が戻られる前に、早く捕まえるんだ!」


「あっ、そっちの廊下へ行ったわ!」


 各場所にいた使用人達は一斉に二人を追いかけ始める。ヒューとリンゼーは長く広い廊下を右往左往しながら逃げるが、その範囲は徐々に狭められていく。建物内を知り尽くす使用人は先回りをして二人の逃げ道を順に塞いでいて、必死な二人を少しずつ追い詰めようとしていた。そして――


「――捕まえた! こら、止まれ」


 待ち伏せていた使用人にヒューはがばっと抱き付かれ、その腕に捕まった。


「ヒュー!」


 だがリンゼーはまだ無事だった。それを見てヒューはつないでいた手を離し、叫ぶ。


「構わないで、逃げてください! すぐに追い付きますから!」


 一瞬ためらうも、リンゼーは振り切るように駆け出した。その後を別の使用人がすぐさま追って行く。


「どこから入り込んだんだ? 町の子か?」


 使用人は腕の中のヒューを自分へ向かせる。


「他人の家へ何しに来たんだ?」


 厳しい目付きの質問に、それは自分も知りたいとヒューは胸の中で言い返すしかない。


「だんまりか。どうせ金目の物でも盗みに来たんだろう。これだからしつけのなってない子供は――」


「ねえ、もう一人はどこ?」


 背後から同僚に話しかけられ、使用人は振り返る。


「え、ああ、女の子のほうは――」


 今だと、ヒューは咄嗟に捕らえる腕からすり抜けた。


「あっ! しまった――」


 使用人が慌てて伸ばした手は届かず、ヒューは廊下を駆け抜けて行く。


「逃がした! 誰か捕まえてくれ!」


 追いかけながら使用人が誰ともなしに叫ぶ。近くにいた使用人達がそれに応えて追って来る。だがヒューの頭にはリンゼーのことしかなかった。早く見つけて追い付かなければ。自分のように捕まっていないだろうか――無事を願い、どうにか玄関までたどり着いたヒューだったが、そこにあった光景にがく然とした。


「……ヒュー……」


 怯えた顔のリンゼーが力ない声でヒューを呼んだ。そんな少女の腕は使用人につかまれ、その傍らには目付きの悪い男が立っていた。逃げ切れなかった……。主が捕まっては、ヒューはもう逃げることはできなかった。駆ける足を緩め、リンゼーに歩み寄ろうとしたところで、後ろから来た使用人達にその身は捕まった。


「ケッ、俺から逃げようなんて十年早いんだよ」


 男はリンゼーとヒューを見やり、不快な笑みを浮かべた。


「それで、この子達はどうしましょうか」


 使用人の一人が男に聞く。


「ああ、俺に任せてください。離れに連れて行くよう奥様に頼まれてますんで」


「奥様が? じゃあこの子達は奥様のお知り合いなの?」


「さ、さあ? 俺は頼まれただけなんで、詳しいことは何とも……とにかく、助けてくれて感謝しますよ」


 すると男は後ろからリンゼーとヒューの首根っこをがっちりとつかんだ。


「ほら、行くぞ。言うこと聞いて歩けよ」


 強引に押されて二人は歩かされる。そのまま建物を出ると右へ曲がり、緑の庭を直進して突き当たるとまた右へ曲がる。そしてしばらく真っすぐ歩かされた先には、先ほどの建物より一回り小さなもう一つの建物が見えてきた。同じ白い石壁で、二階建てのようだが、一般的な民家よりはやはり立派な見た目だ。


 男はその建物へ一直線に入ると、暖炉やソファー、様々な調度品が置かれた部屋には目もくれず、入り口脇にある薄暗い階段へ二人を向かわせる。


「下りろ。転げ落ちるなよ」


 首根っこをつかまれたまま、二人はゆっくり階段を下って行く。下へ行けば行くほど光はさえぎられていく。逃げ出してきたばかりの、あの場所と同じに思えた。また地下へ連れて行かれるのか。同じように何日も閉じ込められるんじゃ――そんな不安が二人の胸に渦巻く。


 下まで下り切ると、そこには鉄製の扉があった。男はそれを足で押し開き、二人と中へ入る。その途端、ヒューの鼻には得体の知れない生臭さとさび臭さが漂って来た。


「……んじゃ、そこのやつ、自分の足に付けろ」


 逃げ出した部屋と似てはいたが、こちらのほうが狭い部屋だ。奥には火が灯ったろうそくが何本も立てられ、まるで祭壇のような場所が作られている。その手前に二本の柱があり、その側面に打ち付けられた鎖の先の輪を男は指し示していた。だがそれは考えずとも、自分達を拘束するためのもので、自ら付けるにはかなり抵抗感があるものだった。


「見えるだろ。その輪っかのだよ。足に付けろ」


 リンゼーはヒューを、どうする? とでも聞くように見つめる。ヒューはそれに返す答えを用意できていなかった。


「俺の手は塞がってんだよ。だから自分で付けろ。早くしろ」


 つかむ首根っこを押し、男は急かすが、二人はやはり動けなかった。するとこれに男は声を荒らげて言う。


「おい、言うこと聞けねえんなら、この頭、床でかち割ってもいいんだぞ! こんなふうに――」


 男はリンゼーの頭を力で強引に押し込み、その場に膝を付かせて額をぶつけようと揺らす。その恐怖に声も出ないリンゼーは両手をばたつかせ、苦しそうにもがく。見ていられないヒューはすぐに声を上げた。


「付けますから、やめてください!」


 これに男の動きは止まり、ヒューを見てにやりと笑う。


「……最初からそう言えばいいんだよ。さっさとやれ」


 首根っこをつかまれたまま、二人は怯えながら自分の足首に鉄の輪をはめる。カチリと音を立ててはまると、男はそれぞれの輪をしっかり確認し、次に持っていたロープで二人の両手を後ろ手に縛り上げた。


「よし、これでいいか……また後で来る。大人しく待っとけよ。って、これじゃ走れもしねえだろうがな」


 薄ら笑いを残し、男は部屋を出て扉に鍵をかけ、階段を上って去って行った。ひとまず緊張が緩んだ二人だったが、状況は明らかに悪化している。両手は動かせず、足も鎖に繋がれ、柱の周囲しか動けない。だが顔が見える距離に互いがいることは、いくらか心を落ち着かせてくれる。


「……ヒュー、これ、どうしたらいいの?」


 不安顔を浮かべながらリンゼーは足下の鎖をジャラと揺らして言った。


「この輪を外すには鍵が必要みたいですね」


 ヒューは自分の足首にはまる輪を観察し、そこに鍵穴らしきものを見つけて言った。


「じゃあ、逃げらんないの?」


「手もこんなですし、残念ながら僕にはどうすることも……」


 縛られた両手を懸命に動かしてみるが、緩むような気配はなく、指先が宙をむなしくかくだけだった。脱出方法を探そうにも、鎖が行動を制限し、気になる祭壇のような場所にすら近付けない。この状況でヒューにできることと言ったら、リンゼーを励まして少しでも不安を取り除いてやることぐらいだった。


「でも、まだ諦めないでください。あの男性は戻って来るって言ってました。その時に逃げる隙が見つかるかもしれません。それまで耐えましょう」


「……うん」


 眉根を寄せた表情でリンゼーは小さく頷く。わずかでも希望を持ってくれたと信じて、ヒューはここからの脱出を頭の中で探り続けるのだった。


 空気が流れるだけの静寂な空間。柱の側で座るだけの二人が、それから数時間過ごした頃だった。上から階段を下って来る足音が聞こえ、ヒューとリンゼーは扉に視線を向けた。男が戻って来たのかと思ったが、音は一人分だけではなく、複数聞こえた。二人や三人ではなさそうだ。ぞろぞろと階段を下って来る。これにリンゼーの顔が強張る。あの男以外に、一体誰が来るのか……。


 鍵が外され、扉が開いた。最初に現れたのは目付きの悪い男。二人をいちべつすると部屋に入って来る。それに続いて現れたのは、全身黒いドレスに黒いベールをかぶった女性だった。ベール越しに見えた顔は四十代ぐらいだろうか。ヒューと目が合うと口紅を塗った真っ赤な口の端がわずかに上がった。


 さらに続いて入って来たのは、同じく全身黒いローブに身を包んだ五人の人物だった。頭に深くフードをかぶっていて、後ろに控える四人の顔は見えなかったが、先頭に立つ男性の顔はちらりと見えた。女性よりもさらに年上のようで、白い口ひげと精悍さを感じさせる眼差しが印象的な老人だ。


「ちょっと予定外なことがありまして、見ての通り二人、用意させてもらったんですが……」


 目付きの悪い男は座る二人を示して、女性にうかがうような目を向ける。


「先ほど聞いたのだけれど、何か問題を起こしたとか?」


「いえいえ! 問題というほどのことでは。目を離した隙にちょっと駆け回った程度で、つまり、至って健康で元気だということですよ」


「二人だからって、報酬は増えないわよ」


「わかってますよ。これはこちらからのサービスってことで……」


 男は作り笑いを浮かべる。それをふんっと鼻であしらった女性は子供二人を見下ろすと、ローブの老人に聞く。


「……いかがですか? 先生」


 そう呼ばれた老人は座る二人の前まで行き、その顔をじっと見てから言った。


「うむ……良さそうな子供だ」


「二人でも大丈夫ですか?」


「人数は儀式に関係ない。大丈夫だ」


 儀式という言葉に、ヒューはろうそくの立つ祭壇らしき場所を見やる。やはりあれは何かの祭壇だったようだ。しかし何の儀式を始めるというのか――会話を聞くことしかできない二人は、ただただ不安を覚えるだけだった。


「先生がよろしければ、早速始めてください。……あなたは上で待っていてちょうだい。こちらが終わり次第、報酬は支払うわ」


「上手くいくことを祈ってますよ……」


 にやりと笑い、男は部屋を出て行く。


「……では先生、お願いします」


「流れは先ほどお話しした通りに……では、これから呪いの儀式を始める」


 老人が堂々と発した言葉に、二人は驚き、息を呑む。それがどんなものかなど知るわけもなかったが、呪いなどと付く儀式が平穏に行われるはずはないと、二人は強く感じていた。

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