十二話

「こらっ、暴れんな……」


「だ、誰か! 助け――」


「黙れ! 静かにしろ」


 人気のない、壁に囲まれた袋小路。そこで目付きの悪い男は地面に押さえ付けた幼い少女の手足をロープで縛り、捕まえようと奮闘していた。


「やだ! やめて!」


 だが少女は必死にもがき、抵抗する。そのせいでロープはなかなか手足に絡んでくれない。これに男は苛立ちを見せる。


「暴れんなって言ってんだろ!」


「助けて! 助けて! 誰か――」


「うるせえ!」


 男の手が少女の横面を思い切り叩いた。バシンと音が響き、少女の頭が横へ弾かれる。


「……っち、思わずやっちまった」


 男は後悔するように顔をしかめた。


「痛め付けんなって言われてたんだが……お前がいつまでも暴れるからだぞ。痛い目に遭いたくなきゃ大人しくしてろ」


 そう言って少女の顔をのぞき込むが、少女は目を瞑ったまま何の反応も見せない。どうしたのかと身体を揺するが、先ほどまでの抵抗が嘘のように微動だにしない。


「おいおい、嘘だろ……」


 焦った男は少女を仰向けにし、その口元に耳を寄せてみた。するとわずかな呼吸が繰り返されていた。これに男は胸を撫で下ろす。


「びびらせやがって……気失っただけか……」


 だがロープで縛り、捕まえるのには絶好の機会だった。男は横たわる少女の手足に難なくロープを巻き、自由を奪う。あとはここから運べばいい。力の抜けた少女の身体を持ち上げようと手を伸ばした時、それは背後から聞こえた。


「あの、何をしてるんでしょうか」


 びくりとして男はゆっくり後ろへ振り返った。袋小路の出口に少年の影が立ち、こちらをじっと見ていた。その口調は明らかにいぶかしんでいる。


「今、助けてって声が聞こえた気がするんですけど……」


 少年――ヒューは、振り返った男の向こうに誰かが倒れているのを見つけ、何か問題が起こっているのだと思い、続けて聞いた。


「僕にできることがあれば、手伝いを――」


 そう言いながらヒューが近付こうと歩き出した瞬間、男は素早く立ち上がると、ヒュー目がけて走り出した。その行動に驚き、ヒューは思わず足を止めるが、男は構わず向かって来る。そして――


「うぐっ……!」


 ヒューの腹に突然拳が入り、痛みと息苦しさに身体を折る。だが痛みはもう一度来た。伏せた顔に裏拳が飛んできて、ヒューは景色が回るのを見ながら地面に倒れ込んだ。


「まあ、一人多くても困りはしねえだろ」


 頭上からそんな声を聞いて、ヒューは間もなく意識を手放した。


 それからどれだけの時間が経ったのかわからない。ぼんやりと意識を取り戻したヒューは、横たわる身体をゆっくり起こして周囲を見回した。辺りを照らすのは壁にかけられたランプ一つだけで薄暗いが、部屋は四角く石造りなのはわかった。数本の柱が天上を支え、その間の奥には出入り口の扉が見えた。どういう用途の部屋かは知らないが、ここで生活するための物品などはなく、あまりに殺風景過ぎる部屋だった。もちろんヒューは見知らぬ場所で、ここに連れて来られた理由もわからない。まだ少し傷む頬をさすりながら、この痛みを作った男の顔を思い出す。なぜ襲って来たのか。あの人は何者だったのだろう……考えても答えが出ることはなく、ヒューはとりあえず部屋を出ようと扉へ向かった。


 上部に格子を付けた小窓があったが、ヒューの背丈ではのぞくことはできず、普通に取っ手を引いてみる。案の定と言うべきか、扉には鍵がかかっているのか、ガタガタと音を立てるだけで開いてはくれなかった。これはつまり、あの男はヒューをここに閉じ込めておきたいということだ。でもなぜなのか。その目的がさっぱりわからない。疑問だらけの状況を考えながら踵を返した時、それは不意に視界に入った。


「……人、だ」


 おそらくヒューの後ろにいたから気付かなかったのだろう。最奥の壁際に、冷たい床に横たわる少女の姿があった。ヒューはすぐさま駆け寄り、膝を付いて様子を確認してみる。


「大丈夫ですか……?」


 声をかけるが、静かな呼吸を続けるだけで目も口も開けてはくれない。左頬が赤く腫れてはいるが、その他に傷らしい傷は見当たらず、どうやら眠っているだけのようだった。見た感じ、少女はヒューと歳が近そうで、濃茶の長い髪に質素だが女の子らしい服装と、ごく一般的な子供に見える。この少女も男に連れられて来たのだろうか。話を聞きたいヒューはもう一度呼びかけてみる。


「……あの、起きてください」


 今度は肩を揺らしてみる。そんなことを何度か繰り返した時だった。少女の瞼がようやく開き、茶の瞳がのぞいた。


「よかった……やっと起きてくれましたね」


 上から見つめてくるヒューを少女はしばらくぼーっと見ていたが、意識が鮮明になるや否や、飛び起きて背後の壁に身を寄せた。


「だっ、誰……?」


「僕はヒュー・エメットです。あなたは?」


「悪い、人、なの?」


 少女は身を縮こまらせ、怯えた表情を向ける。


「悪いことはしてません。気付いたら僕はここに連れて来られてただけです」


 そう言うと少女は少しだけ表情を緩ませた。


「え……じゃあ、あなたもあの怖い男の人に?」


「はい。殴られました」


 同じ被害者とわかり、少女に浮かぶ怯えの色が薄まった。


「本当だ。顔、赤くなってる……」


「あなたの顔も赤いですよ。まだ痛いですか?」


「うん、ちょっと……」


 腫れた頬を一撫ですると、少女は微笑みを浮かべ言った。


「……あたしは、リンゼー」


「リンゼーさん、僕達を殴ったあの男性は誰なんですか?」


「……知らない……」


 リンゼーは力なく首を横に振る。


「じゃあ、ここに連れて来られた理由は?」


 再び首を振り、リンゼーは言う。


「わからない……家に帰ろうとしてたら、あの男の人に急に路地に引っ張られて、逃げようとしたけど、殴られて……」


 その時の恐怖がよみがえったのか、リンゼーの目には涙が溜まる。


「お母さんに、会いたい……」


 膝を抱え、泣き出しそうなリンゼーにヒューは優しく話しかけた。


「一緒にここを出て、早くお母さんに会いましょう」


「あたしを、助けてくれるの?」


「当たり前です。一人だけでなんて逃げません。……そこで、一つお願いがあるんですけど」


「何……?」


「僕の、主になってくれませんか?」


 きょとんとした目がヒューを見つめる。


「そうすれば、僕はあなたを優先して全力でここから逃がします。どうですか?」


 これにリンゼーは困惑の表情を浮かべる。


「優先とか、そんなのはいいよ。二人で逃げるんだから。あとその、主じゃなくて、友達じゃ駄目……?」


「友達、ですか?」


「うん。友達なら、なってもいいよ」


 主と友達では大分意味が違ってしまう。ヒューは粘って聞いてみる。


「そこを主にしてもらえませんか?」


「主って、何か偉そうに聞こえるからやだな。それより友達のほうがいい」


 リンゼーに主になる意思はなく、代わりに友達ならなるという。しかしヒューには主が必要なのだ。しばし考えたヒューはこんな提案をしてみた。


「……じゃあ、あなたは僕を友達と思ってください。僕はリンゼーさんを勝手に主と思います。これでどうでしょうか?」


「友達ってことが変わらないなら、別にあたしをどう思ってようといいけど……」


「それじゃあ、そうさせてもらいます。呼び方は、リンゼーさんがいいですか? それともリンゼー様? あるいは――」


「何それ。友達ならリンゼーでいいよ。さんも様もいらない」


 主でありながら友達として接しなければならない……何だか複雑な心境だが、そう言うのなら仕方がなかった。


「そう、ですか……じゃあ、リンゼーと呼ばせてもらいます」


 そう言うとリンゼーは涙の消えた顔に笑みを浮かべた。


「こんなところで、まさか友達ができるなんて思わなかった。でも、ヒューがいてくれてちょっとだけ怖くなくなったかも」


「リンゼーは僕が守り、逃がします。そのためにはまずここから出なきゃいけないんですけど、さっき調べたら扉には鍵がかかって――」


 そうして視線を扉へ向けた時、はっとしたようにリンゼーが言った。


「待って。……足音が、来る」


 言われて言葉を止めたヒューは、リンゼーと共に耳を澄ませる。コツ、コツ、コツ……と、確かに足音らしき音が扉の向こう側から聞こえてくる。それは次第に大きくなり、耳を澄まさずとも聞こえる距離まで近付き、そして扉の手前で止まった。誰かが来た――ヒューとリンゼーは身を硬くし、扉を凝視する。


 ガチャリと鍵が外されると、扉は悲鳴のような音を立てて開けられた。そこから入って来たのは、二人の記憶に残る目付きの悪い男だった。その姿を見てリンゼーは息を呑み、恐怖に顔を引きつらせた。


「……よお、お目覚めか。顔、まだ腫れてんな。殴って悪かったよ。これでも食って元気出してくれ」


 気さくな態度の男は手に持っていた大きな盆を扉の前に置く。そこには皿に盛られた二人分の食事が載っている。


「一日一回の食事だから、大事に全部食えよ。んじゃ、また明日な」


 それだけ言うと男は二人に近付くことなく、そのまま部屋を出て扉に鍵をかけ、去って行った。


「……僕達の食事を、持って来たみたいですね」


 ヒューが立ち上がり、取りに行こうとすると、リンゼーは後ろから服をつかんで止めた。


「た、食べる気なの?」


「腹は減ってますし、何か食べないと動けなくなります」


「毒が入ってたらどうするの? 死んじゃうよ?」


 自分達を殴ってさらった悪い男だ。そう心配するのもよくわかるが、いつまでここに閉じ込められるのかわからない今は、逃げ出す方法を探し続けなければならないわけで、それを見つける前に餓死するなどあってはならない。


「そう言うなら、僕がまず先に食べてみましょう。何も問題がなければリンゼーも食べてください」


「ほ、本当に、食べるの……?」


 心配の声を背中で聞きながらヒューは置かれた盆に近付く。リンゼーを餓死させないためには自分が毒味をするしかない。二人分の皿には、それぞれオムレツ、ポテトサラダ、豆のスープがある。作られたばかりなのか、オムレツとスープはほんのりと熱を放っていた。


 ヒューはフォークをつかむと、まずはオムレツを切って口に入れた。温かく、塩味と弾力があって美味しい。次はポテトサラダを食べてみる。砕かれたジャガイモがクリーミーで美味しい。最後に豆のスープの具をすくって食べてみる。これも温かく、野菜と豆がとろけるように柔らかくて美味しい。結果、すべて美味しい料理だった。おかしな苦味や気にかかるような箇所はどこにもない。これならリンゼーも食べて問題ないだろう。


「毒は入ってないようです。安心して食べてください」


 盆を持ってリンゼーの前に置き、ヒューは食事を勧めた。最初こそ疑いを捨て切れないリンゼーだったが、ヒューが目の前で食べ進めるのを見て意を決し、サラダを一口食べると、そこからは一気に食欲を解放させた。ヒューよりも腹を空かしていたようで、食べ終えると満足そうに、だが少し照れたように笑うのだった。


 男が言っていた通り、食事は一日一回だけ部屋に運ばれて来た。毒など入っていないとわかれば、もう警戒なく食べることができ、餓死の心配もひとまず消えた。だが状況は何も変わってはいない。二人は閉じ込められ、自由を奪われた時間を送らされているのだ。太陽の光が見えない部屋では時間の経過がわからず、一日の始まりと終わりは運ばれる食事で感じるしかなかった。そしてその食事はすでに七回以上食べていた。つまりここに来て一週間は経っているということだった。


 娯楽もなく、同じ景色を見るだけの毎日に、リンゼーの顔からは少しずつ表情が消えていた。ヒューと話していても覇気のない返事ばかりで、突破口の見えない状況に心が弱り始めているようだった。主を守るのがしもべの務め……それを胸にヒューは脱出方法を常に探し求めていたが、窓も物もない部屋ではそう簡単に見つかるわけもなかった。


 そしてまた食事が運ばれ、一日が経ったと知らされたある日のことだった。


「ほら、食事だぞ。ちゃんと食えよ」


 大きな盆を持って男がいつものように扉を開け、入って来る。そして床に置くと、前日の盆を回収する。その時、出入り口から風が吹き込み、半分開いた扉が煽られて部屋の壁にガンと当たり音を立てた。それに驚いた男は振り返る。


「……何だ? 今日は風が強いな」


 回収した盆を持って男はさっさと部屋を後にした。そんな光景を何気なく眺めていたヒューの頭に、ふと閃くものがあった。この部屋を出るにはやはり一つだけの扉しかないのだ。問題はその扉からどうやって気付かれずに出て行くかだった。鍵のかかった扉を壊す術はなく、そうなると逃げるのは男が食事を運ぶために開けた時だけとなる。その時、男に姿を見られず出ることができれば――ヒューはそれをずっと考えていたが、ようやくその方法の一つを閃いたのだった。だが思い通りにいくかはわからない。絶対とは言えない方法だが、リンゼーのためにも希望の光は見せたかった。


「リンゼー、もしかしたら明日、ここを出られるかもしれません」


 虚ろな茶の瞳が見開き、ヒューを見つめる。この期待を喜びに変える――ヒューは顔を寄せると、考えた作戦をリンゼーに伝えた。本当に上手くできるのか、不安を見せるリンゼーに、ヒューはわざと自信を見せるしかなかった。成功すると信じて動かなければ、何も変わりはしないのだ。


 翌日、いつものように男が食事を持って部屋に入って来た。


「食事だぞ。今日はこの後……ん?」


 男は部屋の異変に気付き、動きを止めた。盆を足下にそっと置きながら部屋を見回すが、いるはずの二人の子供の姿が見えない。


「おい、どこだ? 顔を見せろよ」


 呼んでも返事はなく、姿を現すこともない。これに男は表情をしかめる。


「まったく、かくれんぼでもしたいのか? 柱の裏にでも隠れてんだろ」


 そう言って男は初めて部屋の奥へ向かった。そして柱の裏を確認していく。


「……ここだろ!」


 かくれんぼの鬼のように捜して回るも、二人の姿は見つからない。これに男は徐々に焦りを見せ始める。


「どこだよ……どこ行ったんだよ!」


 柱の裏には隠れていなかった。では一体どこに消えたのか。この部屋で身を隠せる場所は柱ぐらいしかなく、他には壁と床があるだけだ。扉もしっかり施錠されていて開けられた痕跡はない。出入り口から逃げたとは考えづらく、となると二人はこの部屋のどこかに消えたとしか思えなかった。


「冗談じゃねえぜ……よりによって本番当日に逃げるとか、勘弁してくれよ」


 男は引きつった顔に嫌な汗を滲ませながら部屋の最奥まで捜す。まさか床や壁に穴でも掘ったのではと、そんな可能性まで考え始め、二人がいつもいた辺りの床にかがみ、そういった跡がないかを捜し始めた。


 その光景をじっと見ていたヒューは、今なら逃げられると感じて、静かに扉の裏から身を出した。二人がまさか、開けられた扉の裏にいるとも知らず、男は必死にあるはずのない逃げ道を探し続けている。緊張を隠せないリンゼーの手を引き、ヒューは目だけで逃げようと伝える。足音を立てず、ゆっくり出入り口へ向かう。その奥には光の差し込む長い階段が見えた。あの先に本当の出口があるはず――二人は息をひそめながら、薄暗い部屋からの脱出を果たそうとした。


 キィィと悲鳴のようなきしみ音が響いて、ヒューの心臓は跳び上がった。出口から流れてきた緩い風が扉をわずかに揺らしたのだ。ヒューの視線は反射的に部屋の奥の男に向く。


「ん……?」


 音に男の顔がこちらを振り向いた。そしてその目は、今まさに部屋を出ようとしていた二人の姿を見つけ、瞠目した。


「リンゼー、走ります!」


 ヒューは咄嗟に言って駆け出した。その後をリンゼーはすぐさま追って走る。


「なっ、てめえら! 待ちやがれ!」


 男は慌てて追いかけて来る。ここで捕まったら、もう逃げることはできないだろう。しかしそうだとしても、主のリンゼーだけはどうにか逃がさなければ――そんな思いを抱いて、ヒューは出口へと駆け抜ける。

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