十一話

「あれが、メルシナの家のオレンジ農園だ」


 建物に挟まれた路地に身を隠しながらユーリックは視線を向けて言った。その隣に立つヒューは示された農園を眺める。高い柵に囲まれた敷地は農園だけあってやはり広く大きい。柵の向こう側にはいくつか茶色の屋根が見える。あれが住んでいる家なのだろう。そこへ行くには正面の門から入らなければならないが、その門も柵と同じく高く、乗り越えるのは一苦労しそうだ。だがそのすぐ横に普通の大きさの扉がある。大きな門をいちいち開け締めする手間を省くため、住人や従業員はこちらから出入りするようだ。ヒューが見ている間も、その扉から従業員が出て来ていた。中へ入り込むならここしかなさそうだが……。


「中へ入る必要はない」


 ヒューの心を読んだかのようにユーリックは言った。


「入らずに、どうやってメルシナさんと会うんですか?」


「彼女は毎日、決まった時間に買い物に出かけるんだ。母親の言い付けらしい」


「じゃあ、その買い物に出て来た時に?」


 ユーリックは静かに頷く。


「午前十一時……昼前に必ず姿を見せてくれるはずだ。もう時間だから、待ってればじきに――」


 そう言っていた時、通用口の扉がまた開いた。出て来たのは作業着姿の男性従業員……まだかと思った直後、その後ろからブラウスにスカート姿の若い女性が出て来た。控え目だが小奇麗な服装で、従業員の作業着とは明らかに違う。


「彼女だ……!」


 ユーリックは路地の奥へ下がり、さらに身を隠して小声で言った。


「……あの従業員、まさか護衛なのか?」


 だがすぐに怪訝な声と目がメルシナを見つめる。


「何か問題ですか?」


「彼女はいつも一人で出かけて、従業員を連れて行くことなんかなかったのに……」


 見ていると、先に出て来た従業員がメルシナから離れず、隣に付いて一緒に歩いていた。


「僕との接触を警戒してのことか……困ったな」


「渡すのは見ず知らずの僕です。困ることはありませんよ」


「でもな、護衛がいると僕の名を出して渡すことはできない。そんな手紙を素直に受け取ってくれるかどうか……」


 ユーリックの予定では、ヒューが彼からの手紙だと言って受け取らせるつもりだった。でないと見知らぬ子供からの手紙を不審に思われ、拒否されることも考えられるからだ。そのために名前は出したいのだが、そうすればそれを聞いた従業員が彼女の両親に報告しかねない。手紙のやり取りは二人だけの秘密でなければいけないのだ。


「……ユーリックさん、手紙をください」


「上手い渡し方でもあるのか?」


「そう言えるかわかりませんけど、やってみます」


 この間もメルシナは歩き進んで行く。ユーリックはそれを悩みながら見る。


「ぼーっと見送るわけにはいかないし……わかった。ヒューに任せるよ」


 ユーリックは上着のポケットから昨晩書いた手紙を取り出すとヒューに手渡す。ヒューはそれをズボンの腰に挟み、通り過ぎようとするメルシナを見やる。


「頼んだ、ヒュー」


「はい。行ってきます」


 主の言葉に押され、ヒューは小走りに向かう。その視線はメルシナと、隣を歩く従業員を見据える。手紙を渡す時に不都合なのは従業員の存在なわけで、要はそれさえどうにかできれば、あとはどうとでも手紙は渡せるだろうとヒューは考えていた。つまり、従業員の意識を他へ向かせるのだ。


「すみません……」


 ヒューが突然声をかけると、二人は揃って顔を向け、足を止めた。


「ん? 何だ小僧」


 顎ひげを生やした中年の従業員はどこか面倒くさそうな表情で聞いた。その隣でメルシナは黙って様子を見ている。


「水を飲みたいんですけど」


「はあ? 水なんか持ってるわけねえだろ。家に帰って飲め。こっちは忙しいんだよ」


 さっさと終わらせようとする従業員にヒューは食い下がる。


「僕に家はないんです。どこで飲めば……」


「ったく、浮浪児か……他を当たれよ」


 手を振って追い払おうとする従業員にさらに食い下がろうとした時だった。


「水を飲みたいなら、井戸があるわ。教えてあげたら?」


 メルシナが従業員に言った。ここぞとばかりにヒューは聞いた。


「その井戸ってどこにあるんですか?」


「あ? 井戸は、そこの道を曲がってった先の、細い道に入った――」


「言葉じゃよくわかりません。連れて行ってくれませんか?」


「行けばわかるよ。こっちは忙しいって言ってんだろが。一人で――」


「遠くないんだし、別にいいじゃない。案内してあげたら?」


 優しい言葉に従業員は困惑を見せる。


「しかしお嬢さん、時間通りに帰らないと奥様が……」


「お店が混んでたとか言えば平気よ。一時間もかかるわけじゃないんだし、案内してあげて。じゃないと可哀想よ」


「う……そう、言うんなら、仕方ないな……」


 あまり乗り気でなさそうな従業員はヒューをじろりと見下ろす。


「……お嬢さんのお気持ちに免じて、井戸まで連れてってやる。付いて来い」


「ありがとうございます」


「じゃあ、お嬢さんはここで待っててください。すぐ行って来ますんで」


 従業員が背を向け、歩き始めたのを見て、ヒューはすかさず手紙を取り、それをメルシナに差し出した。


「……え、何?」


 当然戸惑うメルシナに、ヒューは従業員を気にしつつ言う。


「早く受け取ってください。誰にも知られないように」


「どういうこと? 一体何の――」


「早く!」


 焦る様子のヒューに、メルシナは恐る恐る手紙を受け取った。


「……おい小僧、何ぐずぐずしてんだ。ちゃんと付いて来い」


 振り向いた従業員にヒューは咄嗟に笑みを向ける。


「はい、すみません……」


 メルシナに目配せをしてから、ヒューは従業員を追って走る。それをメルシナは怪訝な表情で見送った。


「……ヒュー、すごいよ! よくあんなに上手くやれたな」


 数分後、案内された井戸からユーリックの元へ戻ると、そこには成功を喜ぶ満面の笑顔が待っていた。


「あれで、大丈夫だったでしょうか?」


「ああ。少なくともあの瞬間に従業員にはばれてないはずだ。あとはメルシナが手紙を読んでくれれば……」


「無事読んでくれたとして、そのお返事はどうやって受け取るんですか?」


 手紙を渡したら、次は返事を貰わなければならない。ユーリックと同様に、メルシナもまた手紙を渡すには難しい状況にある。


「それなんだけど、ヒュー、また君に頼めるかな」


「もちろんです。役に立てるなら嬉しいです。でも、どうするんですか?」


「メルシナはヒューのことをもう知った。だから今日と同じ時間にヒューには道で待っててもらいたい」


「待って、どうするんですか?」


「待つだけだ。声をかけなくてもいい。返事の手紙があれば、彼女のほうから行動してくれると思う。というか、そうしてもらう以外にないんだけどね」


「お返事、貰えるでしょうか」


「そう願うしかない……」


 路地の陰から、ユーリックはその願いを伝えるように恋人の家を眺めるのだった。


 当初は一泊の約束が、重要な役目を担ったことで連泊することになったヒューは、翌日も同じ時刻にメルシナの家にほど近い道端にやって来た。隠れるユーリックに見守られながらその時を待っていると、見覚えのある二人の姿が現れた。


「……ん? 昨日の小僧じゃねえか」


 従業員が気付き、顔をしかめて言った。


「物乞いなら違う場所でやれ。目障りだ」


「そんなひどいこと言わないで。……ここにいても、いいから」


 メルシナはにこりと笑いかける。


「あんまり優しくすると付け上がりますよ。さ、行きましょう」


 短い言葉を残しただけで二人は通り過ぎて行く。返事の手紙はまだないのかと思ったヒューだったが、その時、メルシナの片手がおもむろに動き、後ろへ小さく振られた。そこからひらりと封筒が地面に舞い落ちる――はっと気付いたヒューに、メルシナは一瞬振り向き、笑って目配せをした。ユーリックの願いは通じたようだ。ヒューはすぐに手紙を拾い、主の元へ戻った。


「ユーリックさん、お返事を受け取りました」


 真っ白な封筒を渡すと、ユーリックはわずかに付いた土を払い、感動したように見つめる。


「さすが、僕の理解者であるメルシナだ。すぐに察してくれたんだね……家に帰って早速読まないと」


 二人は家へ戻り、メルシナからの手紙に目を通した。そこには自分の置かれている状況や、両親への不満に愚痴、そして恋人ユーリックへの愛がつづられていた。あなたに会えない毎日は苦痛だと伝える言葉はユーリックの心に深く突き刺さった。まったく同じ気持ちでいながら打開できない状況はもどかしく、けれど今はヒューの協力で手紙のやり取りだけを続けるしかなかった。


 その後もヒューはユーリックの手紙を渡し、メルシナの返事を受け取り続けた。ヒューが仲介者と知ってからはメルシナも積極的に手紙を受け取ろうとし、善意を装って食べ物をあげては、その中に手紙を忍ばせるなど、努めて自然に渡せるよう工夫を凝らした。そうして二人の気持ちが何度となく交わされていったある日の午後だった。


「ヒュー、頼みたいことがあるんだけど」


 ベッドに座り、ユーリックに貰ったクッキーを食べていたヒューは視線を上げた。


「何でしょうか?」


 椅子に座ったまま上体だけを振り向かせた姿勢でユーリックは言った。


「君に、ひったくり犯になってもらいたいんだ」


「はい。わかりました」


 素直すぎる返事にユーリックは呆気にとられた。


「……ひどいことを頼んでるのに、断らないんだね」


「言われたことはどんなことでもやるのがしもべですから。でも、どうしてそんなことをやるのか、聞いてもいいですか?」


「ああ、もちろん。……手紙で彼女は、もう限界だと言ってるんだ。僕と会えないこともそうだけど、ご両親の意向で、また監視が強まるらしい」


「メルシナさんは監視されてるんですか?」


「買い物に付き添う従業員も監視と言える。今は夜の時間帯に、部屋の前に付けられてるらしい。こっそり外出しないようにってことだろう」


「そこまで……だけど手紙のことはまだばれてないんですよね? それなのにどうして……」


「どうやら、ヒューのことを疑い始めてるようなんだ」


「僕のことを? な、何か、至らないところがあったんでしょうか」


 心配そうに聞くヒューに、ユーリックは頭を振る。


「いや、ヒューに落ち度はない。ただ、メルシナが君と親しくなり過ぎたんだ。表面上、君は彼女と何の関わりもない。しかし手紙のために毎回話しかけて食べ物をあげていれば、付き添う従業員が怪訝に感じるのもおかしくはない。その不自然な行動がご両親に報告されてしまったんだろう。彼女はこのままだと、手紙のことがまた知られると危惧してる。そうなればもう、メルシナは買い物にさえ出かけられなくなるかもしれない。家から出されず、僕とのやり取りも止められる」


「順調だと思ってたのに……」


 主のために役に立てていると感じていたヒューは、自分のせいではないとは言え、落ち込むように表情を暗くした。それを見てユーリックは微笑む。


「そう。何もばれてない今は順調なんだ。だから今のうちに決行したい。メルシナとの駆け落ちをね」


「駆け落ちって……一緒に他の街へ行くってお話のことですか?」


「ああ。ご両親に認めてもらうのが最良だけど、それが見込めないんじゃこういう方法を取るしかない。僕達のやり取りが完全に断たれる前に動かないと。……そこでヒューの出番だ」


「……ひったくり犯、ですか?」


 ユーリックは椅子ごとヒューに向き直ると前のめりの姿勢になる。


「前みたいにヒューが付き添いを引き付けて連れ出す方法が次も成功するかは正直怪しい。何せ疑いの目を向けられてるからね。メルシナからは簡単に離れようとはしないだろう。だとしたら、離れざるを得ない状況を作り出すしかない。そこで僕が考えたのが、ヒューによるひったくりだ」


「付き添いの従業員から何か盗るんですか?」


「それでもいいけど、ヒューを無我夢中で追わせるならメルシナの物のほうがいいだろう。彼らは彼女のために付き添ってるんだ。彼女の物が盗まれれば必死に取り返そうとするはずだ。ヒューはそれを持って追い付かれないように逃げるだけでいい。……ところで、ヒューは足、速いのか?」


「全速力で走ったことはないですけど……でも逃げろと言うなら僕は必ず逃げてみせます」


「ヒューは小さいから、追い付かれそうになったらどこかに隠れてもいいかもしれないね。そうしてヒューが付き添いを引き離してくれてる間に、僕はメルシナを連れて町を出る……っていう作戦だ。どうかな?」


「とてもいいと思います」


 同意するヒューに、ユーリックは申し訳なさそうに笑みを見せる。


「君に一番大変なことをさせるのはすまないけど、ヒューに僕達のすべてが懸かってるんだ」


「任せてください。ユーリックさんとメルシナさんのために、全力を尽くします」


「ありがとう。頼もしいよ。実はもう彼女にはこのことを手紙で伝えてあるんだ。あとは決行日や向こうの都合なんかを聞いて細かいことを決めるだけでいい」


「あの、僕は逃げた後、どうすればいいんでしょうか?」


「そうだった。落ち合う場所を決めないとね。ここから西に街道が通ってるのは知ってる? その十字路で落ち合おうか」


「わかりました。西の十字路ですね」


「無事合流できたら、ヒュー、君も僕達と一緒に街へ行くかい?」


「僕はあなたのしもべです。一緒に行かせてください」


「じゃあ行こう。ヒューもそこで新しい何かを見つけられればいいな」


 明るい未来を描き、見据えたユーリックの目には希望が満ちる。ヒューもしもべとして幸せを感じると同時に、重要な役目を与えられたことに静かな気合いをみなぎらせるのだった。


 そして、すべてが整った決行日――


 午前十一時、先に現れた付き添いの従業員に続き、メルシナが通用口の扉から出て来た。その手にはいつもは持たない小さなかばんがあった。ユーリックの指示通り、中身はオレンジ一個だけで至極軽い、ヒューにひったくらせるためだけのかばんだ。新生活で使う荷物を持って行きたい気持ちは当然あったが、まとめた荷物がもし見つかれば疑いをかけられ、足留めされるのは必至だ。なのでメルシナは手ぶらで向かうことを決めていた。


 買い物をする店がある大通りに入る。正午に近いとあって、たくさんの買い物客や馬車、荷車などが行き交い、騒がしい景色が広がっていた。だがこの騒がしさこそがユーリックとヒューには必要だ。この喧騒に紛れ、ヒューは逃げやすく、そしてユーリックは姿を暗ましやすくなる。


 指示された道の隅で待機していたヒューは、目の前を通り過ぎるメルシナを確認する。付き添う従業員は通行人に紛れたヒューにまったく気付かないが、メルシナはほんの一瞬、その視線をヒューに向ける。今よ、と合図をくれたようだった。その無言の合図にヒューは素早く動いた。


「……あっ!」


 メルシナが小さな声を上げる。その脇をかばんをひったくったヒューが駆け抜けた。


「お嬢さん? どうかしま――」


「私のかばんが、盗まれたわ!」


 そう言ってメルシナは逃げるヒューの背中を指差した。


「え? な、何!」


 あたふたする従業員にメルシナは急かすように言う。


「取り返して! お願い!」


「わ、わかりました! くそっ……待て!」


 従業員はひったくり犯を追い、その場から駆け出して行った。それをメルシナは心配そうに見送るも、その姿が人ごみに消えると、表情を引き締め、軽く息を吐き出す。必ず上手く逃げ切れるとヒューを信じて、あとはこちらが町を出るだけ――


「メルシナ」


 振り向くと、そこには久しぶりに見る愛しい恋人がいた。その顔は少しやつれただろうか。お互い苦悩し、メルシナも食事が喉を通らない日もあった。喜ぶままに抱き締めたい衝動があったが、今は触れ合う時間などなく、一刻も早く町を出なければならない。二人が会っている姿を誰が見ているかわからないのだ。


「行こう」


 ユーリックが差し出した手を握り、メルシナは強く頷く。そして二人は大通りの人ごみを抜け、町の外へ向け駆けて行く。もう何も邪魔するものはない。心のままに、自由な世界がこの先で待っている――


「男女め、尻尾出しやがったな!」


 その時、二人の行く手を阻むように作業着姿の男性が立ち塞がった。ヒューを追って行った従業員とはまた別の男性――それを見てユーリックは表情をしかめた。メルシナの買い物を監視していた従業員は一人だけではなかった。あえて距離を置き、付き添わせていたのだ。このようにユーリックが現れるのを待って……。


「まだ懲りてないらしいな。お嬢さんを誘拐した罪で警察に突き出してやる!」


「誘拐じゃない! これは――」


 すぐさま反論しようとしたメルシナの手を引き、ユーリックは止める。


「構うな。こっちだ」


 道を少し戻ると、脇道にユーリックは駆け込む。


「待ちやがれ! 逃げても無駄だ!」


 男性はその後を追って来る。気配を背中で感じながらユーリックは路地をジグザグに逃げるが、男性の足は速く、なかなか距離を開けられない。このままでは自分達の息が切れてしまうと、ユーリックは再び人通りの多い道へ出ることにした。そこで再び姿を暗ませようと考えてのことだった。


「観念しろ! 逃げられねえぞ!」


 追って来る男性を見ながら広い道に飛び出した時だった。


「ユーリック!」


 手を引くメルシナが悲鳴のように声を上げた。その視線の先へ顔を向けると、眼前に茶色の馬の身体が迫っていた。その奥には手綱をつかみ、驚いた表情を向ける御者――ユーリックは咄嗟にメルシナの手を離した。そして降りかかる衝撃に強く目を瞑った。


「……遅いな……」


 野原の景色の中に伸びる十字路の真ん中に立つヒューは、なかなか現れないユーリック達を長いこと待ち続けていた。青かった空はもう夕暮れの紫色に染まろうとしている。


 あの後、従業員から無事逃げ切ったヒューは、言われた通り街道の十字路に来たのだが、何時間経っても二人は現れなかった。何か問題が起きたのだろうかと一度戻って家や町中を捜してもみたが、結局見つからず、再びここで待つしかなかった。ヒューの頭には様々な可能性が浮かんでいた。二人とも従業員に捕まってしまった、落ち合う場所を忘れてしまった、ヒューに黙って街へ行ってしまった……など、残念なことばかりを想像してしまうが、ヒューにしてみれば従業員に捕まる以外なら特に問題はないことだった。ユーリックに会えないのは寂しいが、主が幸せでいてくれるならそれに越したことはないのだ。ヒューの存在を忘れたり、言ったことを守ってくれなくても、ヒューは一向に構わないという気持ちだった。ただ、それは二人が予定通りに街へ行っている場合だ。ヒューにはその証拠も確信もない。本当に従業員に捕まっていないだろうか……わだかまる不安を払拭しようと、数日間町を歩いて捜し続けたヒューだったが、やはり二人を見つけることは叶わなかった。


 メルシナからひったくったかばんを持ち続けるヒューは、その中身を確認する。一個だけ入ったオレンジは、その表面の色を茶にくすませている。時間が経ち、痛み始めているのだ。腐らせて捨てるのも惜しいと思い、ヒューは取り出してかじってみた。分厚い皮は甘く爽やかな香りを放つが、口の中には苦味を広げた。それはユーリックが入れてくれたお茶を思い出させた。


「二人は、きっと幸せでいるよね……」


 ユーリックはもうヒューの協力が必要ないのだ。恋人がいるから、だから現れないのだ――そう結論付け、ヒューは十字路から道なりに歩き出した。現れず、見つからない主にすがっても仕方がない。止まったまま、無為に過ごしてはいられない。どこかで出会う次の主へ思いを馳せ、小さな足は当てなく進んで行く。

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