五話

 民家が立ち並ぶ、人通りのまばらな道を歩きながら、ヒューは自分にはどんな主がふさわしいのか考えていた。別にしもべの立場で主を選ぶつもりではなかったが、時に主を守らなければならない場面もあるはずで、そんな時に、この小さな身体でも守り切れるような主ならば、自分の力をより発揮できるのではと思っていた。しかし子供であるヒューが守り切れる相手など限られるだろう。周りは大人ばかりでヒューよりも力が強い。となると理想は同じ子供となる。あるいはそれよりも小さな者……そんな主候補などいるのかどうか、ヒューにはわからなかったが。


 ニー、という何かの鳴き声が聞こえて、ヒューは足を止めた。以前どこかで聞いたことのある声だった。辺りを見回してみるが、あるのは民家と空き地くらいだ。その時また、ニーと高い鳴き声が聞こえた。聞こえてくるのはその空き地のほうからだった。ヒューの足は自然とそちらへ向かって行く。


 左右後ろと民家に囲まれた小さな空き地は一面雑草に覆われ、地面はほとんど見えない。長いこと放っておかれているのか、雑草が居心地よさそうに生えている。ヒューにとってはいい食事場所だが、今はそれより鳴き声の正体を見つけるのが先だ。


「ニー、ニー……」


 ヒューの気配を感じたのか、鳴き声は呼ぶように繰り返す。距離も近い。すぐ近くにいるようだ。声の出所をヒューは雑草をかき分けて探した。そうしてうろうろしていると――


「……!」


 空き地の隅の地面を探ると、そこには大きく深い穴があった。何のために掘られた穴かはわからないが、その底には枯れ草や木片、紙くずなどのゴミが溜まっている。そしてその上にちょこんと座って見上げてくる小さな生き物――


「ニー」


 それは灰色に薄汚れた子猫だった。ヒューと目が合うと助けを求めるかのように鳴く。それもそのはずで、穴の深さはヒューの背丈よりあって、子猫が前脚を伸ばしても絶対に届かない深さだ。壁に傾斜もなく、ほぼ垂直の穴から自力で脱出するのは困難に思える。興味本位で入ったのか、獲物を追っていて落ちたのか、理由はどうあれ鳴き続ける子猫を見捨てることはできず、ヒューは助け出すことにした。


 まずは手を伸ばしてみるが、やはり届くことはない。自分が穴に入って助けてやりたいが、そうすると今度はヒューが出られなくなる可能性もあり、安易な行動はためらわれた。その間も子猫は頭上を見上げて悲痛な声を出し続けている。どうすれば助けられるのか。梯子でもあれば簡単だが、そんなものがあるわけもない。


 一旦穴から離れたヒューは、空き地内を歩き回る。そしてかき分けた雑草の下から折れた枯れ枝を見つけ、再び穴へ戻った。子猫ならこれを梯子代わりにして登って来られると考えたのだ。枯れ枝を壁に立てかけるように置いてみる。長さは少し足りなかったが、上まで登ればヒューが引き上げてやれるだろう。


「……さあ、これを使って登ってください」


 穴の底の子猫に声をかけるが、突然枝が入れられたことに、子猫は警戒して後ずさってしまった。


「大丈夫だから。あなたを助けたいんです」


 安心させようとしても子猫の様子は変わらない。やはり言葉の通じない生き物との意思疎通は難しい。以前ロバを貰った時もそうだったが、動物の主になるのも、主を動物にするのも、どちらも適さないのだろう。主に選ぶなら最低でも人間にするべきか――子猫の動きを待ちながら、そんなことを思っていた時だった。


「――デミ! デミ!」


 道のほうから少女らしき声が響いてきた。振り向いて見ていると、道の右から小さな少女が周囲に目をやりながら、ゆっくり歩いて来る姿があった。


「デミ! どこ行っちゃったの……」


 結った赤い髪を揺らし、少女は不安げな表情を浮かべている。空き地の前に差しかかった時、その目がヒューに気付いた。無視してもよかったが、何か困っている様子にヒューは声をかけてみた。


「どうしたんですか?」


 見知らぬ少年に話しかけられて、少女は一瞬戸惑いを見せるも、遠慮がちに答えた。


「……デミを、捜してて」


「デミとは何ですか?」


「私が飼ってる、猫の名前……昨日からいなくなっちゃって……」


 猫という言葉に、ヒューはすぐに言った。


「もしかして、ここにいる猫があなたの飼ってる猫じゃないですか?」


「え……?」


 自分の足下を指差すヒューに、少女は怪訝な目を向ける。


「穴に落ちてる猫がいるんです。……ほら、鳴いて」


 ヒューが子猫を見つめると、子猫もヒューを見つめ、そしてニーっと大きく鳴いた。


「デミ……!」


 声を聞いた少女は空き地に入ってヒューの側へ来ると、その足下の穴をのぞき込んだ。


「……デミだ。汚れちゃってるけど、間違いない!」


 すると飼い主の姿と声がわかったのか、子猫のデミは興奮したように激しく鳴き始めた。


「待ってて。今助けてあげるから……」


 手を伸ばそうとする少女をヒューは止める。


「僕達の手は届きません。だからこの枝を下ろしたんですけど、警戒されてなかなか登ってくれないんです。でも飼い主のあなたが呼べば、警戒しないで来てくれるかもしれない。呼んでみてくれませんか?」


「う、うん、わかった。……デミ、ほら、こっちに来て」


 少女は身を乗り出し、立てかけた枯れ枝を叩きながらデミを呼ぶ。ヒューの時は後ずさるだけだったが、少女の呼び声に子猫は穴の底を歩き回り、側へ行きたがる素振りを見せた。


「これだよ。これを登って来て」


 少女は枯れ枝をさらに叩いて示す。その手を子猫は見上げながら、しばらく歩き続けていたが、やがて枝に近付くと、確かめるようにそこに前脚を触れさせた。


「そう! そのまま登って」


 子猫は何度も枝に触れ、そこから少女を見上げると、自分の呼ぶ声に引かれるように枝に爪を立てて登り始めた。小さな身体がぐらぐら揺れる枝を危なっかしくたどる。それを少女は頑張れと励まして呼び続ける。そして――


「やった! デミ!」


 手の届くところまで来ると、少女は子猫をつかみ上げ、自分の腕の中に抱えて喜んだ。


「もう、勝手にどっか行っちゃ駄目でしょ。こんなに汚れて……」


 頭を撫でられる子猫は尚も鳴いている。だが先ほどまでとは違い、甘えるような落ち着いた声だ。それを見ながら助かってよかったとヒューも安堵する。


「見つかってよかったですね」


「うん。えっと、ありがとう。いるって教えてくれて」


「本当によかったです。……一つ、聞いてもいいですか?」


「何?」


「僕の主になってくれませんか?」


 少女はつぶらな瞳をぱちくりさせると聞き返した。


「……主って、何?」


 ヒューよりも幼い少女は、主という言葉の意味をまだ知らないようだった。


「主というのは自分に仕えるしもべを使役させる権限を持った方のことです」


 これに少女は首をかしげる。


「何か、難しくてわかんない……」


「つまり、あなたが主になってくれるなら、僕はしもべになって、あなたの命令に従って働きます」


「命令……?」


「はい。何でも言ってください。僕はあなたのためなら何でもやってみせます」


 少女は難しい顔で考え込んでいたが、ぱっと閃いた顔を見せると、にこにこ笑いながら言った。


「ああ、そういうことか。いいよ」


「本当ですか!」


「うん。でもデミを綺麗にしてあげないといけないから、うちに行こう」


「ご主人様の家ですか? わかりました」


「まだ始めないで。うちに着いてからだよ」


「……? はあ」


 笑顔の少女に付いてヒューも空き地を後にする。何を始めるなと言っているのかよくわからなかったが、もうこの少女はヒューの主になったのだ。しかも理想とする自分よりも小さな子供だ。幼い彼女ならヒューでも守れるし、きっとヒューの力を必要としてくれるはずだ。そんな新たな主に喜びと期待を抱きながらヒューは聞いた。


「ところで、お名前は何ていうんですか?」


「私はエレンだよ」


「エレン様……いいお名前ですね。僕はヒュー・エメットです。ヒューって呼んでください」


「わかった。ヒューだね」


 道なりに歩くこと五分。レンガ造りの小さな家の前でエレンは止まった。


「ここが私の家だよ。入って」


 エレンは扉を開けると足早に入って行く。ヒューはその後からゆっくり入った。居間と思われる部屋には大きな机と四脚の椅子が並んでいる。その上には花瓶の花が飾られ、他にも畳まれた衣服や何かの食べかけの小皿などが雑然と置かれていて、この家の生活感が感じられる。左奥には台所があり、鍋や洗われた食器が片隅に見える。その流し台でエレンは布巾を濡らし、絞ると、足下で待つ子猫の全身を丁寧に拭き始めた。灰色の汚れは次第に消え、デミの本来の真っ白な毛並みに戻っていく。


「この猫は白猫だったんですね」


 ヒューは拭かれる子猫を見ながら言った。


「そうだよ。外行くとすぐ汚れちゃうから、時々拭いてあげないといけないの。……よし、できた」


 頭から尻尾の先まで拭き終わり、エレンはデミを床に下ろす。するとすでに用意してあった皿の餌にデミは一直線に駆けて行き、無我夢中で食べ始めた。相当腹が減っていたようだ。


「じゃあ始めよう。ちょっと待ってて」


 ヒューにそう言うと、エレンは隣の部屋に行き、何かを抱えて持って来た。


「……これは?」


 机に置かれた様々な木型を見て聞く。


「これはパンで、これはケーキで、こっちのはコップ」


 ひっくり返った物を直しながらエレンは一つ一つ見せていく。確かによく見れば、手のひら大の木型は食べ物や食器の形になっていた。だがこれで何をするというのか。


「ヒューはケライをやりたいんでしょ?」


「家来……?」


「だって、命令を聞くって……」


「はい。ご主人様の命令なら喜んで聞きます」


「ご主人様じゃなくて、女王様って呼んで」


「……女王じゃないのに、そう呼ぶんですか?」


「うん。呼んで」


「わ、わかりました」


 意外な注文に戸惑いつつも、ヒューは素直に応じた。しもべに無駄な口答えは許されない。


「それじゃあ……ヒュー、私、喉が渇いたわ。美味しい紅茶を入れてくれるかしら?」


 突然口調が変わったエレンをヒューは驚いて見つめた。


「ど、どうしたんですか? 急に人が変わったみたいに……」


「何にも変わってないわ。いいから早く紅茶を入れて」


「はい……すぐに……」


 指示に従い、台所へ行こうとすると、エレンがすぐに止めた。


「ちょっと、どこ行くのよ」


「紅茶を入れるにはまずお湯を沸かさないと――」


「紅茶はこのコップに入れて。ティーポットもあるから」


 エレンは机に散らばる木型の中からコップとティーポットを取り、自分の前に並べた。だがそれを見せられてもヒューにはどういうことか理解ができなかった。


「……あの、このティーポットは蓋も開きません。一体どうやって紅茶を入れれば……」


 これにエレンは面倒くさそうにヒューを見やる。


「入れるふりでいいから、早くやって」


「ふり? ふりだけでいいんですか?」


「うん。……紅茶はまだかしら」


 意味がわからないまま、ヒューは言われた通りにやるしかなかった。指でつまんだティーポットで、小さなコップに見えない紅茶を注ぎ入れる。


「ごしゅ……女王様、どうぞ」


 するとエレンはコップを持ち、口元へ運んでごくりと飲むふりをした。


「……うーん、美味しいけど、時間がかかったから冷めちゃってるわね」


「すみません。次は冷めないように気を付けます」


 そう頭を下げながらも、ヒューにはこうする理由がさっぱりわかっていない。存在しない紅茶のためになぜ謝っているのか、自分でも不思議だった。


「次はケーキが食べたいわ。用意してくれるかしら」


「ケーキ、ですね。わかりました」


 机から離れようとするヒューをエレンはまた止めた。


「だから、ケーキはこれだってば」


 木型の中からエレンはケーキを指差す。


「でも、これは食べられません」


「わかってるよ。いいから並べて」


 食べられないものを出されて、ご主人様は何が嬉しいのだろうか――大きな疑問を感じながらヒューは木型の中から取った三つのケーキをエレンの前に並べた。


「……どうぞ」


「うわあ! とても美味しそう。じゃあこのケーキから……いただきます」


 丸いケーキをつまみ、エレンは口へ入れるふりをしてむしゃむしゃと噛む。


「……甘くて美味しい! もう一個――」


 次のケーキも食べるふりをし、また次のケーキも食べるふりをする。そのたびに美味しそうな表情を作るエレンを、ヒューは怪訝な目で眺めていた。指示されたこととは言え、自分は一体何をしているのだろうか。主が満足ならそれでいいのだろうが、ヒューの疑問は深まる一方だった。


「あー、美味しかった。お腹いっぱい。次は何しようかしら……」


 未だ戸惑うヒューをエレンは見やる。


「暇なんだけど、何したらいいかしら」


「何と、言われても……」


 状況の理解に苦しむヒューに閃く瞬発力はなかった。するとエレンが何かを閃いたように声を上げた。


「あっ! 今日はお城でブトウカイがあるのよ。ヒュー、一緒に踊りましょう」


「は……え? な、何て言ったんでしょうか。もう一度……」


「ブトウカイよ。ドレスを着て、皆で踊るの。さあ行きましょう」


 そう言うとエレンはヒューの手を引き、机から離れた場所に連れて行く。


「ヒュー、一緒に踊りましょう」


「ここで、ですか?」


「そうよ。ここはお城で、ブトウカイが開かれてるの」


 ヒューは思わず部屋内を見回す。


「どう見ても、一般的な民家ですけど……」


「ここはお城だって思って、一緒に踊ってよ!」


 強い口調で言われ、ヒューは大人しく従う、エレンと向き合い、互いの両手を組む。ヒューに踊りの経験はないが、何となく想像できる範囲で身体を動かしてみる。そのつたない足の動きに、エレンもぎこちなく身体を揺らす。


「音楽に合わせて……ラン、ララ、ルン、ラン、ララ――」


 口ずさむ即興の音楽を聞きながら、ヒューはそれに足の動きを合わせてみる。遅くばらばらだった動きが少しずつ規則的になり、二人の動きが合い始める。


「ラン、ラン、ラララン……うふっ、踊れてる!」


 手を組んで向かい合う二人は、足を打ち鳴らし、くるくると回る。ただそれだけの単純な動きで、舞踏会での踊りとは程遠いものだったが、二人にとっては十分踊りになっていた。エレンは笑顔を浮かべ、口と足で音楽を刻み続ける。それを感じながら踊るヒューは、その様子を見て、抱いていた疑問などどうでもよくなっていた。主が楽しそうにしていると、不思議と自分も楽しい気分になってくる。しもべとしては役に立てているわけで、それでいいのかもしれない。


「……あ、デミも一緒に踊りたいの?」


 餌を食べ終えて寄って来た子猫を、エレンは片手で抱えると、再びヒューと手を組んで踊る。スキップをするような動きで二人はその場で回り続ける。ここは大広間でもないし、楽団が演奏をしてもいない。けれど、子供達の視界には豪華絢爛な世界が広がり、軽やかで美しい音楽がしっかりと奏でられていた。


「女王様、素晴らしい踊りです」


「ヒューもとっても上手だわ」


 互いの笑顔を見合い、心と身体を楽しく弾ませていた時だった。


「ただいま」


 玄関扉がガチャと開き、荷物を持った女性が入って来た。その姿に二人の足は止まる。


「エレン、いい子にしてた? ……あら? お友達?」


 女性は荷物を机に置きながらヒューを見やる。


「お母さん! おかえりなさい」


 そう言うとエレンは母親に駆け寄った。


「ほら見て! デミだよ。穴に落ちてたのを助けたの」


 抱えている子猫を見せると、母親は笑顔を返す。


「それはいいことをしたのね。デミも無事でよかったわ。……エレン、机の上のおもちゃ、ちゃんと片付けて。これじゃ食事ができないでしょ」


「はあい」


 言われたエレンは子猫を床に下ろすと、机に散らばる木型を集め、隣の部屋へ持って行く。それを見てヒューは、木型がおもちゃだったことを知った。


「ボクはどこに住んでる子なのかしら?」


 たたずむヒューに、母親は荷物から野菜や日用品などを取り出しながら聞いた。


「特に住んでる場所はありません」


「え? じゃあ、お家や家族は……」


「ありません」


 はっきりとした答えに、母親の表情は明らかに曇りを見せた。何か気に障ることでも言っただろうかとヒューは怪訝に思う。


 そこへエレンが戻って来て、母親はすぐに聞いた。


「ねえエレン、この子とはどこで知り合ったの?」


「向こうのほうの空き地だよ。デミを一緒に助けてくれたの」


「今日知り合ったばかりってこと?」


「うん。そうだよ」


 母親が困ったような目でヒューをいちべつする。何か問題でもあるのか、ヒューにはその目の意味がわからない。


「それじゃあ、まだお友達じゃないでしょ? 何でお家に連れて来たの?」


「王様ごっこがしたいっていうから……でももうお友達だよ」


 これにヒューは首をかしげる。王様ごっこをしたいなど言った覚えは微塵もない。主はなぜこんな嘘を……。


「私が女王様で、ヒューがケライになって、一緒に踊ってたんだ」


「楽しかったの?」


「うん! すごく楽しかった!」


「そう……」


 母親は困り顔でしゃがむと、エレンと視線を合わせて言った。


「でも、もうすぐ夕食の時間だから、今日は帰ってもらわないとね」


「えー、一緒に食べちゃ駄目?」


「食べてから帰ると、お外が真っ暗になって道がわからなくなるでしょ? お友達が迷子になってもいいの?」


 エレンは頭を振る。


「じゃあ今日はさよならして」


 母親に言われ、エレンはまだ納得していない表情だったが、渋々な足取りでヒューの前にやって来た。


「ごめんね。今日はもう終わりだって」


「何が終わりなんですか?」


「王様ごっこ」


 再び出た言葉にヒューは聞く。


「その、王様ごっこというのは何のことでしょうか」


「ずっとやってたでしょ? ヒューがケライになって――」


「僕はごっこ遊びをしたいなんて言ってません。あなたに主になってほしいとお願いしただけですけど」


「だから、私はそのアルジになって遊んでたでしょ?」


 何か話が噛み合わない。そもそも遊んでいたというのもおかしい。エレンはまるでヒューが遊びたがっていたかのように言っているが、もちろんそんな気はなく、ヒューはしもべとして、ただエレンの言う通りに動いていただけなのだ。


「僕はあなたのしもべなんです。お側に付き、あなたの言葉だけに従う存在です」


「私ももっと遊びたいけど、お母さんが駄目って言うから……」


「遊びじゃありません。僕は真面目に言ってるんです。主であるあなたのために――」


「私はもうアルジじゃない。終わったの」


 これにヒューは瞠目してエレンを見つめた。


「主は、終わった……? それは、あの……」


「これから夕食のお手伝いしなくちゃいけないから、また遊ぼうね」


「あ、遊ぶんじゃなくて、僕はあなたのお側に――」


「ボク、遊びはもう終わりよ。日が暮れちゃうから帰ったほうがいいわ」


 エレンの前に割り込むように母親がヒューを見下ろして言う。その顔は笑ってはいたが、目には警戒の色がありありと浮かぶ。


「でも、僕は――」


「帰りなさい。追い出されたくないでしょ?」


 口調は優しくても視線は容赦なくヒューを突き刺してくる。さっさと帰れという見えない圧には逆らえず、ヒューは仕方なく玄関へ向かう。だが後ろ髪を引かれる思いが、最後にエレンに聞いた。


「……もう、僕の主じゃないんですか?」


「うん」


 純粋無垢な返事と笑顔に、ヒューは愕然とした気持ちを与えられて家を出た。


 辺りはまだ明るかったが、目をやった遠くの空はうっすらと赤く染まっていた。だがすぐに視線を落としたヒューは、肩を落としたまま道を歩き出す。単なる遊びで自分をしもべにするとは、何てひどい主なんだ。こっちは真剣に望んだというのに、そんな気持ちをもてあそんだのだ。子供の主が理想とは考えたが、どうやら間違いだったらしい。子供は大人より意思疎通が難解だ。それを理解できなかった自分には、子供の主は向いていないのだろう――また一つ学んで、ヒューは当てなく進む。この先に、必ず素晴らしい主がいると信じながら。

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