十六話

 午後の暖かな日差しが降り注ぐ、にぎやかな街中。商店に面した通りは大勢の人々が行き交い、それを引き止めようとする客寄せの声や、値段交渉をする声、顔馴染みと談笑する声などが引っ切り無しに響き渡っていた。しかしそんな光景もヒューは見慣れたものだ。子供相手では見向きもしない客寄せを横目に歩き慣れた通りを進んでいた時だった。


「ちょっと、そこの君――」


 不意に後ろから声をかけられ、ヒューは振り向く。と、そこには白髪混じりの髪の中年男性と、その家族と思われる女性と子供がいた。


「何でしょうか?」


 聞いたヒューを見て、男性は異様に驚いた表情を見せながら言う。


「……まさか、いや、そんなわけは……」


 一人呟き、横の女性と顔を見合わせる。その女性も男性ほどではないが、ヒューを見て目を丸くしていた。一体何なのか。困惑していると、それに気付いた男性はすぐに言った。


「あ、すまない。あまりに似ていたものだから、びっくりしちゃって……」


「何に似てるんですか?」


「その、昔、一緒に暮らしていた男の子がいてね。その子にそっくりで」


「一緒に……?」


 ヒューは男性の顔をまじまじと見つめた。よく見るとどこかで見たような気もしてくる。


「ある日忽然といなくなっちゃって……それ以来、会えていないんだけど」


 ヒューの脳裏に稲妻が走るようにある姿が思い出された。そしてその顔と男性とを見比べてみる。髪に白いものが増え、しわも深くなっているが、輪郭や顔立ち、何より優しく笑む青い目は、以前ヒューに向けられていたものとまったく同じものだった。


「……ん? 俺の顔、何かおかしい?」


 凝視するヒューに今度は男性が戸惑う。そんな相手にヒューは驚きを隠しながら聞いてみた。


「あなたの名前は何ですか?」


「俺は、セシル・シェリダンっていうんだ」


 セシル――間違いなかった。警官で、ヒューを引き取ってしばらく一緒に暮らしていた、あのセシルだ。しかし住んでいる場所はここから離れた町のはず。なぜいるのか。


「君の名前は、まさか、ヒュー・エメット……じゃないよね?」


 半信半疑な視線を受け、ヒューは答えた。


「……違いますけど」


 これにセシルは一瞬動きを止めたが、次には笑顔を浮かべた。


「そうだよね……ごめんよ。そんなわけはないよね」


「そうよセシル。あの子がいなくなったのは十年前よ? こんな小さな子でいるわけないじゃない」


 横の女性――バーバラがくすくすと笑いながら言う。


「でも君も、すれ違った時にヒューだと思っただろう?」


「思ったけど、他人の空似であり得ないってすぐ思ったわ」


「ねえねえ、早くお爺ちゃんち帰ろうよ!」


 つまらなさそうにしていた二人の息子が、業を煮やして母親の服を乱暴に引っ張り始める。


「わかったから、引っ張らないで。……セシル、もう一度ちゃんと謝って」


 妻に言われ、セシルは苦笑いを浮かべると、ヒューに向き直った。


「呼び止めて悪かったね。それじゃあ――」


「あの……」


「ん? 何だい?」


「ここに、住んでるんじゃないんですよね?」


「ああ。この街には妻の実家があってね。休暇で来ているだけだよ。君はここに住んでいるんだろう?」


「はい」


「いい街に住めていいね。俺も仕事がなければ引っ越して来たいところだ。……いろいろすまなかったよ。じゃあ」


 セシルは踵を返すと、家族と共に雑踏の中へ歩き去って行く。その後ろ姿をヒューは微笑みながら眺めていた。思い出すことなどなかったあの頃の喜び、幸せ、そしてわずかな寂しさが胸によみがえる。ヒューが去った後も、セシルはバーバラと仲睦まじく暮らし、新たな家族まで作ったようだ。関係の途絶えた相手でも、ヒューはセシルが大事なものを得たことを喜ばしく思えた。と同時に、二人の仲に何も変化がなさそうな様子に安堵もした。姿を消したことは少なからず二人を心配させたはずだ。そのせいで問題でも起きていたらあまりに忍びないと思ったが、そんな憂いは必要なかったようだ。あれから十年、セシルは自分の家族を持ち、幸せそうにしている。だがもしかしたら自分はあそこにいたのかもしれない――ふとそんな想像もしたが、ヒューはすぐに頭から振り払った。セシルは主にならなかったし、これからもなりはしない。去ったことにも後悔はない。それらがあって今のセシルの暮らしがあるのだから。本当によかった――胸の中で喜びの言葉を呟き、ヒューは家路へとつく。


「帰りました」


 玄関をくぐるとすぐに見える居間に、ラベルとその弟子達がくつろいでいる姿があった。


「おお、おかえりヒュー」


 気付いたラベルが椅子に座ったまま出迎えの声を上げた。


「え、もしかしてこの子が、例の……?」


 ヒューは初めて見る顔の男性が興味津々な様子でラベルに聞いた。


「そうだ。先ほどの話のヒューだ。……ヒューよ、彼は今日からわしの弟子になったジェームスだ」


「初めまして。ヒュー・エメットです」


 礼儀正しい挨拶に、ジェームスはやや面食らったように返す。


「よ、よろしく……しかし、ちゃんとしてますね。中身は本当に使役霊なんですか? 人間にしか見えませんけど」


「俺も最初はそうだったよ」


「私も。今も人間だって思ってるくらいよ」


 他の弟子達が笑いながら答える。


「それだけヒューを作り出した者の腕が優れていたということだ。生きていればぜひ会ってみたかったものだがな」


「けど、ここまで人間に似せた生命は他にありませんよ。研究対象には持って来いの――」


「言い忘れていたがジェームス、わしはヒューを研究するつもりはない」


「な、なぜですか? こんな珍しい生命なのに」


「確かに、使役霊とは言え、ヒューは肉体を持ち、生命を宿した珍しい存在だ。それはもはや人と言っても過言ではない。しかしこの子は作り出した者が望み、叶えた存在なのだ。ヒューは人として生きることを望まれ、生まれた存在。ゆえにその気持ちを尊重し、敬意を払うのなら、研究対象になどするべきではないとわしは思うのだ」


「敬意を払うのはわかりますけど、でもやっぱり、もったいない気が……」


「いいのだ。研究対象など他にいくらでも見つけられるだろう。こちらの利己でヒューの時間を奪うようなことはしたくない。この子はようやく自由に歩き始めたのだ」


 ジェームスはヒューを残念そうにいちべつすると言った。


「先生が、そう仰るなら、仕方ないですけど……」


 まだ気持ちが断ち切れていなさそうな弟子に、ラベルは溜息混じりに言う。


「ふむ、わしがこの世を去った後は、弟子のおぬしらにヒューのことを頼むつもりだったが、そこからジェームスの名は消しておかねばならないようだな」


「せ、先生のご意思に逆らうようなことはしませんから! 信じてください!」


 弟子になって早々、信用を失いかけるジェームスの慌てぶりに皆が笑う。


「その言葉を信じるかどうかは、これからのおぬし次第だな。……もう休憩時間は過ぎた。わしの出した課題を解いて、まずはいい結果を示すことだ」


「わかりました。ご期待に必ず応えてみせます!」


 ジェームスが勢い込んで階段を上がって行く後を、他の弟子達もゆっくり追い、二階の研究室へと消えて行く。それを見送りながらヒューはラベルに歩み寄る。


「身体の調子はどうですか?」


「ふふ、心配してくれるほど悪くはない。だが足腰の弱りはこのまま続くだろう。歳には勝てないということだ」


「困ったことがあれば言ってください。すぐに手を貸しますから」


「ありがとう。しかしわしにはこの杖がある。まだおぬしの手は必要ない」


 椅子の横に立てかけられた杖に触れ、ラベルは笑みを見せた。


 ヒューに自由な時間を生きさせるため、自分の家を拠点として使わせることにしたラベルだが、十年という月日は身体の老いを確実に進め、以前ほどの軽快さを失っていた。歩くことはできても、その足取りは重く、つまづくことが多くなった今は杖が手放せない。弟子やヒューと話す時も座っていないと辛い状態だった。何か病を患っているわけではなく、本人の言う通りこれは老いによるものだ。六十九歳の身では避けられないことなのだろう。


「それで、今日はどこへ行って来たのだ?」


「国境のある山へ登ってきました」


「ほお、カダブリ山か。あそこは名峰と言われている。景色もさぞ美しかっただろう」


「はい。登ったのは途中までですけど、思ったより緑が多くて、見たことない植物がたくさんありました。味も美味しかったです」


 これにラベルは苦笑する。


「おぬしはまだ野草を食べているのか。食料は持っているのだ。もうそんな必要はないだろうに」


「そうなんですけど、気付くと食べてて……昔の癖が抜けないみたいです」


 ラベルの呆れた様子を見て、ヒューは恥ずかしそうに笑う。


「美しかったと言えば、山から見下ろした街の景色は素晴らしかったです。あと、そこから見上げた空……何もさえぎるものがなくて、街で見る空より、何だか広くて綺麗な色に見えました。鳥も気持ちよさそうに飛んでて、ちょっと羨ましかったです。僕もあんなふうに飛べたらいいなって」


「それなら、いつかそうしたいことの一つにすればいい」


「でも、空を飛べるのは羽や翼を持った生き物だけですよ? 僕はどう頑張っても飛ぶことは……」


「それはわからないぞ。人の知恵や技術は常に進歩している。翼を持たない我々でも、いつか大空を飛び回れる時が来るかもしれない。不可能を可能にするには想像を絶やさず、常識を捨てることだ。さすればいつかは叶えられる瞬間が訪れるだろう」


「僕は、それを叶えられるんでしょうか?」


 聞かれたラベルは優しい眼差しを向ける。


「叶うかどうかは、おぬし自身を信じられるかどうかだ。自分を信じなければ、一体誰が信じてくれるというのだ? ヒューは己の主になったのだろう。ならば自分という主を信じ、突き進めばいい」


「そうですね。主を……自分を信じて探してみます」


 自分にとっての幸せとは何か――ヒューはかつてそれを考えていた。だが思い浮かんだのは、やはり主に仕えることだった。けれど主から得る喜びは自分の幸せと違うものだとは感じていた。自分の幸せは自分の中にしかない。そう察したヒューは考えた挙句、主を自分の中に見出した。自分の心、意識こそが仕えるべき主だと。つまり己は主であり、そのしもべでもあることにしたのだ。


 しかしそうなるとヒューに命令する者はおらず、すべての行動はヒューにゆだねられ、自発的に動かなければならなかった。主のためにやることがわかっていれば動けるが、主は自分なのだ。食事や睡眠の他にやるべきことが見つからないヒューは行動できずにいた。そんなヒューにラベルはこんなことを言った。誰も目的を持って生まれることはない。だからそれを探し、見つけながら生きればいいのだと。最初から最後まで、すべてを決めるのは自分自身――この言葉でヒューは一歩の踏み出し方を知った。とにかくまずは出かけてみればいい。そこで目に留まったもの、興味を引かれたものを見て、知っていけばいいのだ。幸いヒューに時間の制限はない。自分はどうしたいのか、何をしたいのか、あちこちを巡りながら今は考えている最中だった。目的は一つとは限らない。各地にはヒューの知らないものがまだまだ溢れているはずだ。それは今もまさにヒューの気持ちを期待で躍らせている。


「……さて、わしは部屋へ戻るとするか。ヒューはどうする? 山登りで疲れた身体を休めるか?」


「はい。少し休んで、次に行くところを決めます」


「そのやる気と元気は何よりだが、遠出し過ぎて身体を壊さないようにな。おぬしの身は幼く、大人ほどの頑丈さはないのだから」


「わかってます。ほどほどに、ですよね。……あ、そうだ。また地図を借りてもいいですか?」


「もちろんだ。目的地を探すのだな」


「はい。でも最近は眺めてるだけでも楽しいです。ここはどんなところかなって想像したりして」


「ふむ、ならば他国の地図も見てみるか? 昔手に入れたものがある。古いから、ここのものより詳細ではないが」


「他の国の地図ですか? わあ、ぜひ見たいです!」


「では取って来よう。どこへしまい込んだかな……」


 ラベルは杖を握ると、ゆっくり椅子から立ち上がる。


「僕も部屋まで行きます」


「そうか。そうしてもらえると手間が省ける。ついでに一緒に探してくれるか」


「はい。喜んで」


 ヒューは笑顔で答える。少年として生きる彼の興味は、この街や地方にとどまらない。気持ちはいずれ世界へと馳せられ、人生という旅は続いて行く。それはまだ、始まったばかりでもある。

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我が主はいずこに 柏木椎菜 @shiina_kswg

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