三話

 どこまでも続きそうな広い緑の草原をヒューはてくてく歩いていた。周りを見渡しても樹木が点々とあるだけで、建物などは見当たらない。真っ青な空に浮かぶ白い雲は、草原を吹き抜ける緩い風と共に流れては形を変え続ける。静かで、気持ちのいい場所だ。だがヒューにとっては気持ちよさなど関係ない。新鮮で食べられそうな草花を探していたら、いつの間にかここへ来ていただけで、眺めのいい景色を堪能する意識はなかった。その視線は自分の周囲や足下だけに集中していた。


 摘んだ花を食べつつ、歩き進んでいたヒューは、ふと気付くと大きな池の側まで来ていた。かすかに泥臭さは漂うが、水面は陽光にきらめき、水は透き通って綺麗そうだった。喉を潤そうかと近付いた時、池の反対側に人影があった。外套を着た白髪の老人が小さな椅子に座って、池に竿を向けている。どうやら釣りをしているらしい。このくらい大きな池なら、小魚くらいは釣れるのだろう。


 すると、向こうの老人もヒューに気付いたようで、ちらと視線を向けた。ヒューがどうしようかと立ち尽くしていると、それを見兼ねたように老人は手招きしてヒューを呼んだ。その顔は微笑んでいる。少なくとも邪険に扱う様子はなさそうで、ヒューは素直に老人の元へ行ってみることにした。


「こんにちは坊や。こんなところで何をしとる」


 笑みを浮かべたまま、老人は穏やかに聞いた。


「食事をしてました」


「見たところ、何も持っていないようだが?」


「ここに生えてる草や花を食べてました」


 これに老人は、わずかに目を見開いてヒューを見つめた。


「草を? そんなに腹が減っているのか?」


「食べられる時に食べておいたほうがいいと思ったんで」


「ほお……それで、草というのは美味しいものなのか?」


「そうでもありません。シチューのほうがもっと美味しいです」


 老人はほっほっと笑う。


「だろうな。それはわしでも想像できる」


「あなたは釣りをしてるんですか?」


「若い頃からの趣味でな」


「何か釣れましたか?」


「いいや、今日はまだだ。だがこの池には主がいてな」


「……ヌシ?」


「姿は見せないが、時々黒く大きな影を横切らせて、泡を吐き出しとる。そいつはわしが子供の頃から知っているが、未だに釣り上げられない賢いやつでな」


 ヒューは首をかしげて聞いた。


「その主というのは、魚ではないんですか?」


「泳いでいた影から魚には間違いないだろう。……なぜそんなことを聞く?」


「あなたが子供の頃っていうのは何十年も昔のことですよね。その頃から今日まで、魚は生き続けられるものなんでしょうか」


 ヒューの知識では魚というのは何十年も生きる生き物ではなく、人間よりも短命な生き物という認識だった。この子供らしくない指摘に、老人はまた笑った。


「なかなか鋭いな坊や。確かに、池に棲む魚が何十年も生きることはないだろう。わしが幼い頃に見た主は、最近見た主とはまた別の、おそらく、子孫だろうな」


「主の子供が、また主になってるんですね」


「そういうことだ。それをいつか釣るのがわしの夢で――」


 その時、老人の握る釣り竿がびくっと揺れた。


「おお? かかったか」


 浮きは水面下に沈み、釣り糸はぴんっと張って引かれている。老人は両手で竿を上げようとするが、なかなか持ち上がらない。


「くう、力が強いな……これはもしかすると、もしかするぞ」


 歯を食い縛り、竿を支える老人だが、獲物は相当な力があるらしい。椅子から立ち上がった老人は両足で踏ん張り、懸命に竿を握る。


「今日こそ、釣って、やるぞ……!」


 池の中に続く糸が左右に動いて暴れ回る。その動きは明らかに小魚ではない。本当に主かも――ヒューも期待して見守っていた時だった。


「ぬあっ――」


 糸が一際大きく引かれた瞬間、老人の踏ん張った足は地面を滑り、傾いた身体は池の中へどぼんと落ちてしまった。


「お爺さん!」


 慌てたヒューはすぐに池の縁に行き、老人へ手を伸ばした。


「つかまってください!」


「がぼがぼ……足が、着かん……」


 泳ぎが苦手なのか、老人は両手で水をかいて浮かんでいるのが精一杯のようで、差し出した手を握る余裕はまったくなさそうだった。それならばとヒューは、水面をたゆたう老人の外套に手を伸ばす。池の縁ぎりぎりまで身を乗り出し、腕がつりそうなほど伸ばしてその裾をつかまえると、急いで老人を引き寄せた。


「僕の手をつかんでください」


 縁にたどり着いた老人はようやくヒューの手をつかむ。その助けを得てどうにか陸へ這い上がる。


「……た、助かったか……」


 老人は座り込み、全身から滴る水を見つめながら呟いた。暖かい陽気とは言え、池の水は冷たく、頭からつま先までびしょ濡れの老人はわずかに身体を震わせている。ヒューも助けた際に手と服を濡らし、そこに風が当たるたび、ひんやりとした寒さを感じていた。


「いかんな。風邪をひきそうだ。早いところ帰って――」


「――様! どちらにおられるのですか。ご主人様!」


 遠くから響いてきた声に二人は顔を向ける。そこには広い草原の中をこちらへ歩いて来る人影があった。


「……ちょうどいい時に来てくれたようだ」


 老人がそう言った直後、人影は座り込む二人を見つけたのか、駆け足で向かって来た。


「ご主人様! やっと見つけました。どちらをお捜ししてもおられないと思ったら、またこの池へ……」


 側へ来た男性はやれやれという口調で言っていたが、老人の濡れた姿を見て思わず言葉が止まった。


「ど、どうなされたのですか! まさか池で泳がれていたわけではありませんよね」


「馬鹿なことを言うな。真夏でもないのに……釣りをしていたら足を滑らせてな」


「そんな事故を起こされていたとは……お身体は痛めておりませんか?」


「大丈夫だ。自分で歩ける」


「では私の肩におつかまりください。早くお身体を温めましょう」


 男性は老人に肩を貸し、ゆっくりと立ち上がらせる。するとその目が横にいるヒューを見た。


「……ところで、こちらの少年は? ご主人様のお知り合いで?」


「知り合いではないが……そう言えばまだ名を聞いていなかったな」


 知り合いではないと聞き、男性の顔に険しさが浮かぶ。


「では不法侵入……ただちにここから出て行かなければ通報し――」


「待て待て。名も知らぬ子供だが、わしの命の恩人だ。そう冷たくするな」


「恩人……?」


「溺れたわしを池から引き上げてくれた。感謝しなければいけない相手だ」


 はっとした表情に変わった男性は、すぐに態度を変えて言った。


「それは大変申し訳ございませんでした。ご主人様をお助けくださっていたとは。私からも礼を申さねばなりませんね」


「それより、坊やも濡れた服を乾かさなければならんだろう。館へ案内しろ」


「かしこまりました。……では私共に付いて来てください」


 男性をぼーっと見つめながらヒューは聞いた。


「あなたは、誰ですか?」


 これに老人は笑う。


「おお、すまない。紹介をしないとな。彼はわしの家で執事をしているダウデンだ」


 そう言われてダウデンは老人を支えながら小さく会釈した。


「遅くなったが、わしはローレンス・レッドモンド。ここの住人だ。坊やの名は?」


「僕は、ヒュー・エメットです……」


 名乗りつつ、ヒューは辺りに目をやる。


「家がないのに、ここに住んでるんですか?」


「家ならこの先にある。ここはその敷地内でな。言わば庭の一部だ」


「ここが、庭……?」


 ヒューにはだだっ広い草原にしか見えず、到底庭とは思えなかった。


「行けばわかる。さあ行こう」


 ダウデンと歩き出した老人ローレンスに目で促され、ヒューは立ち上がるとその後を付いて行った。


「ヒュー様はなぜここにいらしたのですか?」


 ダウデンが聞くと、代わりにローレンスが答えた。


「食事をしていたそうだ」


「食事とは、どういうことでしょうか」


「何も食べるものがなかったのだろう。草を食べていたそうだ」


「何と……それはご不憫な……」


「食べるものを探すうちに、この敷地内に入ってしまったのだ。……そうなのだろう? 坊や」


 まさにローレンスの言う通りで、ヒューは頷いた。この草原が私有地とは思いもしていなかったのだ。


「だからダウデン、食べ物も用意してやってくれ」


「かしこまりました。……ヒュー様、お召し上がりになりたいものはありますか?」


「……美味しければ何でもいいです」


 そうですか、とダウデンは笑う。ヒューに食や味のこだわりなどはなく、多少不味くとも食べられれば十分で、美味しければなお良いという程度のことだった。決して面倒だったり遠慮しての返答ではなく、これが素直な気持ちだった。


 このままずっと草原と樹木の景色が続くと思っていたヒューだが、進むにつれ木の柵や手入れのされた植木などが現れ、緑の地面も石畳に変わっていく。そして立派な巨木を越えた先に、ローレンスの言った通り、家はあった。


「あれがわしの住む家だ」


 ヒューが目を覚ました村の家と比べれば、それはまるで城のように思えた。真っ白な壁が眩しい三階建てで、まるで純白の翼を左右に広げたように佇んでいる。無数にある大小の窓を見ると、一体部屋数はいつくあるのか。煙突の数も一本や二本ではない。あちらこちらの屋根から伸び、白い煙を吐いているものもある。その屋根や壁、窓枠に施された装飾はどれも細かく美しい。風雨にさらされ多少色あせてはいるが、傷や欠けている箇所は見当たらない。しっかり補修、維持がされているようだ。そこからわかるのは、この家はただの家ではなく、かなりの地位、あるいは資産家の館なのだろう。こんなところに平凡な人間が住めるはずがない。


「ローレンスさんは、ここに独りで住んでるんですか?」


「まさか。わしの家族も住んでいるし、ダウデンや、下働きの者らも住んでいる」


「皆で住んでるから、こんなに大きい家にしたんですか?」


 これにローレンスは考えるように言った。


「うーむ、どうなのだろうな。気付いたら皆が集まり、ここに住んでいた気もするが……」


「まだ幼いヒュー様はご存知ないのかもしれませんが、ご主人様は一代で貿易会社を築かれたお方で、レッドモンド会社と言えば知らない者がおられないほど有名なのですよ」


 へえと感じながらヒューは聞いていた。貿易会社がどんなものかは知らないが、こんな館に住めるくらいなのだから相当儲かる仕事なのだろう。そんな会社を作ったというのだから、やはりローレンスは並みの人ではないのだ。


「引退した今は息子らに会社を任せている。もうわしは関係ない」


「とは言え、ご主人様をご尊敬なさる方々から、仕事に関して今もご相談が引っ切り無しではありませんか」


「ふっ、いい迷惑だ。わしは余生を悠々自適に過ごしたいというのに」


 苦笑いを浮かべたローレンスにダウデンは笑って、そのまま二人は大きな玄関扉を開けてくぐった。


「ふう、やっと着いたか。寒気を覚える前に早く湯を浴びたい」


「ただちにご用意いたします。では浴室へ――」


 行こうとするダウデンの肩から、ローレンスは手を離した。


「独りで行けるからいい。それより坊や……ヒューの服を乾かしてあげるのが先だ」


「承知いたしました。……ヒュー様、どうぞこちらへ」


 促され、ヒューはダウデンに付いて行く。


 外観と同じく、内装も白で統一された玄関広間には、金糸で織られたタペストリーや、大自然の風景をそのまま切り取って入れたような絵画などが飾られている。そこから自分の姿が反射するほどぴかぴかに磨かれた大理石の廊下を進むと、ダウデンは広い部屋へヒューを案内した。


「そちらにお座りになって、しばしお待ちください」


 そう言うとダウデンはすぐに廊下へ戻って行く。ここは応接間なのか、長く大きなソファーが丸い机を囲むように並び、その奥の壁には石で作られた暖炉がある。寒い季節ではないので火はつけられていない。他にも花やら彫像やら、ヒューにとっては物珍しいものが置かれていたが、大人しくソファーに座ってそれらを眺めていると、再びダウデンがやって来た。


「服を乾かしますので、こちらにお着替えください」


 渡されたのはふわふわな手触りの厚手のガウンだった。濡れているのはシャツだけなので、サスペンダーを外し、シャツだけを脱ぐ。そして代わりにガウンを着た。素肌に触れると、すぐにじわじわと温かさが生まれ、まるで毛布にくるまっているような感覚だった。冷たい雨が降る日には着ていたいなと、ヒューはその温もりに思った。


 すると部屋にまた誰かが入って来る。その手には料理が載った盆があり、ヒューの目の前の机に置かれる。


「服を乾かす間、こちらをお召し上がりください。また後ほど参ります」


 ヒューのシャツを持ってダウデン達は出て行った。だがそれを見送るよりも、ヒューは香ばしい匂いを立たせる料理に釘付けだった。皿にあったのは、パン、オニオンスープ、果物の盛り合わせ、そして牛肉のステーキ……どれも初めてで、どれも美味しそうで、絶対に美味しいに決まっていた。手元にはナイフもあったが、ヒューはフォークだけを使ってステーキにかぶり付く。歯ごたえのある肉を噛みちぎると、ソースの味と相まって幸せな美味しさが口に広がった。そこからはただ一心不乱に食べ進めた。今まで食べていた草花の苦味は忘れ、肉のうま味、スープの塩味、果物の甘味と次々に味わう。


「かなり腹が減っていたようだな」


 不意の声に振り返ると、さっぱりとした顔でローレンスが入り口に立っていた。服は別の上着とズボンに着替えられ、びしょ濡れだった白髪も乾いて綺麗に整えられている。湯を浴びて温まってきたようだ。


「坊やには改めて礼をせねばな」


 向かいのソファーに座ったのを見てヒューは食事を中断しようとしたが、それをローレンスは食べながらでいいと笑顔で言う。


「この料理は口に合っているかな」


「はい。とても美味しいです」


「それは良かった。どれもわしの好物でな。だが命の恩人にこれだけでは気が済まない。何か望みはあるか? 何でも言ってみてほしい」


「……何でも?」


「ああ。こちらができることであればだがな」


 ヒューの望みは一つしかない。口の中の肉を飲み込むと、ヒューはローレンスに真っすぐ目を向けて言った。


「じゃあ、僕の主になってほしいです」


 これにローレンスは怪訝な顔を見せる。


「……それは、どういうことだ?」


「僕には主が必要なんです。主になってくれたら、僕は何でもします」


 少し考えると、ローレンスは笑みを浮かべた。


「なるほど。ここの使用人として雇ってくれと言いたいのだな」


「僕は使用人になりたいんじゃなく、あなたに主になってほしいんです」


「ヒューを使用人として雇えば、わしは結果的に坊やの主になるのだ。それ以外でわしが主になることなどない」


「そうなんですか……?」


「一般的にはそうだろう。使う者とそれに従う者で主従関係が作られる。だがな……」


 ローレンスは渋い顔になって腕を組む。


「この国では幼い子供を雇い、働かせることは違法とされていてな。隠れて働かせているところもあるようだが、わしは法を破るつもりはない。悪いな」


「法を破らずに、僕の主になれませんか?」


 聞いたヒューを見て、ローレンスは口を開けて笑う。


「はっはっ……そんなことが可能であったら、この国には悪党が溢れ返ってしまうな」


「無理なんですか?」


「と言うより、法は一人一人が守るべきものなのだ。子供の頭ではまだちゃんと理解しきれていないようだな」


「つまり、駄目ってことなんですね……」


 ヒューは肩を落としつつ、ブドウの粒を口に入れる。


「……ヒューはなぜ主が必要だと思うのだ?」


「わかりません」


 ローレンスは眉根を寄せ、見つめる。


「わからないのに、そんなことを言っているのか?」


「何となく、そう思うんで探してるんです。……おかしいでしょうか」


「人というのは大体、理由があって行動するものだ。なぜ主が必要なのか、その理由もなく探すというのはな……」


「そう感じるから……それが理由になりませんか?」


 ローレンスは微笑んだ。


「本人にしか理解できない理由もあるだろう。主が必要と思うならば探し続ければいい。だがわしは誰かに仕えるより、自分が主になるほうがいいと思うがな」


「自分が、ですか?」


「考えてもみろ。あれやれ、これやれとこき使われるよりは、そう指示を出す側のほうが絶対に楽しいだろう。だからわしは自分で会社を作ったのだ」


 自分自身が主になる――それはヒューが考えたこともなかったことだった。


「男なら一度は誰かの上に立ってみたいものだろう。別にわしのように会社を持ったり、軍隊を率いる指揮官を目指すことはない。主になると言っても様々だ。家族を持ち、一家の主になるのもいい。畑を耕し、植えた作物の主になるのもいい……そう、何も人間相手に主になる必要はない。植物、動物相手でも主にはなれるからな」


「僕もなれますか?」


「もちろんだとも。……なってみるか?」


 そう言われると興味を抱いたヒューは、素直にはいと返事をした。


「そうか。ではどんなものの主になりたい?」


「僕には、どんなものがふさわしいんでしょうか」


 自分の主を見つけることだけを考えてきたヒューには、まったく頭に浮かばないことだった。


「植物なら手っ取り早い。自分が好きだったり食べたいものを植え、責任を持って育てればいい。だが子供に畑の管理をすべて任せるのは荷が重そうだな……まずは鉢植えで育てるのがいいか……いや、それだと持って帰るのが大変かもしれんな……」


 首を動かしながらヒューのためにいろいろ考えるローレンスだったが、何か思い付いたのか、ヒューに目を向けて聞いた。


「……動物は好きか?」


「さあ……どちらでもないと思います」


 歩いているとたまに道で野生の鳥や兎は見かけるが、それに対してヒューは特に感想を持ったことはなく、その景色の一部でしかなかった。


「動物なら子供でも可愛がって育てられるだろう。手綱を引けば自分で歩いてくれもする。うちには何頭か馬がいてな。育てる気があるなら一頭譲ってやろう」


「馬ですか……」


 馬という動物は知っているが、実際に見たことはなく、ヒューの中ではいまいち想像しにくい生き物だった。そんな鈍い反応のヒューを見て、ローレンスはまた考え始める。


「……子供に馬はまだ大き過ぎるか。子馬は今はいなかったし……そうだ。ダウデン!」


 大声で執事を呼ぶと、部屋の外からすぐにダウデンがやって来た。


「お呼びでしょうか」


「確か、荷運び用に使うロバがいたな。それはまだいるか?」


「はい。近々下請業者にお譲りする予定と聞いておりますが、変更いたしますか?」


「ああ。そのロバはヒューにやることにする。業者には改めて別のものを渡すと伝えてくれ」


「かしこまりました」


 一礼し、ダウデンは静かに退室する。


「……というわけで、ヒューにはロバをやろう。これなら身体も小さく、世話もしやすい上、子供でも簡単に乗ることができる。どうだ?」


 聞かれてもヒューには何とも答えようがなかった。だが自分に合う動物だと言うならそうなんだろうと思うしかなかった。


「ロバなら、僕は主になれるんですね?」


「温和な動物だ。ヒューなら大丈夫だろう。だが無理にそうなろうとしなくてもいい。合わないと思えば売ってしまっても構わない。どうするかは主次第だ」


 それこそまさに主の権限。自分の判断で自由に動かせるのだ。それを僕が――少しどきどきした気持ちでヒューはローレンスに礼を述べた。


「わかりました……ありがとうございます」


「礼を言うのはこちらだ。命の恩人なのだからな。さあ、料理を食べ終えたら、主としてロバを迎えに行こう」


 満足そうに笑うローレンスを見て、ヒューも微笑み、残りの料理を頬張った。


 食事を終えた後、乾いたシャツに着替えたヒューはローレンスに連れられ、館の外の厩へ来た。艶やかな毛並みの馬が並ぶ奥に、明らかに身体の小さい黒い馬がいて、それを世話係の男性がゆっくりと連れ出して来る。


「ほら、手綱を握れ」


 ローレンスはロバの手綱をヒューに渡す。それに引かれておずおずと近付いてきたロバを見つめた。気のせいか、つぶらな瞳が不安そうにヒューを見ているようにも感じる。


「これで坊やも小さな主だ。せいぜい可愛がって世話をしてやるのだぞ」


「はい。そうしてみます」


 手を振り合ってローレンスと別れたヒューは、使用人に正門まで案内され、そこから道へ出た。特に行く当てもないヒューは貰ったロバを引き連れながら、とりあえず道なりに進んでみることにした。


 だが三十分も歩かないうちに、ロバの様子が変わり始めた。大人しく歩いていたのが、足が重くなり、手綱を引くと顔を振って抵抗し始めたのだ。どうしたのかと近付こうとすると、ロバはなぜかそわそわと落ち着きがなくなった。どこかヒューのことを避けているようにも見えた。


「僕はあなたの主です。言うことは聞いてください」


 そう言って頭に触れようとした時、ロバは突然全身を跳ねさせ、暴れ始めた。


「わっ! し、静かに――」


 人間の言葉が通じるわけもなく、そう言ってもロバの動きは収まらない。するとその勢いでヒューの手から手綱が離れてしまった。


「あっ――」


 すぐにつかもうとしたが、その一瞬の自由を得て、ロバはヒューを置いて駆け出して行く。待てと後を追おうにも、全速力で遠ざかるロバにヒューの足は追い付かず、その姿はあっという間に道の先へと消えて行ってしまった。荒い呼吸を繰り返しながら、呆然とヒューは立っていた。なぜ暴れて逃げたのかわからない。こちらには何の落ち度もなかったのに。気が合わないとでも思われたのだろうか。理由はいくら考えても判然としない。しかしヒューはふと感じる。主が必要だと思っている者に、主は向いていないのかもしれない。興味本位でなろうとしてみたものの、やっぱり自分には、しもべの立場のほうが向いているのだろう――ロバが消えた道を眺めながら、漠然と居座るそんな気持ちに、ヒューは自分を納得させるのだった。

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