二話
風に揺れる枝葉を広げた木々が、気持ちよさそうに太陽の光を浴びている。その下に広がる緑の草花は、頭を揺らして笑っているようだ。それはうららかであり、のどかな景色だった。その中を通る一本の道の端に、しゃがんで頭と両手を動かす小さな影があった。
むしゃ、むしゃと手に取ったものを片っ端から口に入れては食べる。大小の葉、様々な色の花、その茎……味は決して美味しいとは言えなかったが、腹が減ったヒューにはそれなりの食事ではあった。
次の草を取ろうと伸ばした手の上に、黒い点のようなものが動いていた。反射的にそれをつまみ、よく見てみる。針のような細い足と触角をじたばた動かして逃げようともがいている。とても小さな蟻だ。だがヒューは躊躇することなくその蟻を口に入れた。歯でしっかり噛み潰してみると、酸っぱい味が広がった。期待はしていなかったが、やはり味はそこそこだ。これが皿一杯に盛られていたら腹も満たされるかもしれないが、こんな粒のような大きさでは大して満たされることもない。そうならなくとも、せめて満足する味ならよかったのにと、再び草花を取ろうと手を動かした時だった。
「ねえ……」
控え目な声が聞こえて、ヒューはゆるりと振り向いた。そこにはかごを提げた若い女性が立っていた。その目は不憫そうにヒューを見る。
「何、してるの?」
「食事です」
はっきりと答えたヒューに、女性は一瞬驚くも、すぐに心配げな表情に戻る。
「……草を、食べてるの?」
ヒューの右手に握られた葉を見て言う。
「そうですけど、これが何ですか?」
「何って……それ、ただの雑草でしょ?」
「はい。……食べたらいけないんでしょうか」
「いけなくはないけど……あんまり、食べないほうがいいと思うわ」
ヒューは握った葉をじっと見つめた。そう言われても、腹が減っているから食べないわけにもいかない。どうしようかと考えていると、女性がヒューの側まで寄ってきた。
「そんなにお腹が空いてるなら、私がごちそうしてあげるわ。って言っても、昨日の晩に作った余り物だけど」
女性はにこりと笑いかける。
「もちろんお金なんかいらないから、よかったら、うちへ来て食べて。ね?」
ヒューは女性を見つめながら考える。随分と優しい人だと思った。知り合いでもないのになぜこんなことを申し出てくれるのか。怪しいと思えば思えるが、しかし女性の口調や表情には一切悪意や下心は感じられない。ただの善意で言ってくれているのだろう。それなら甘えてみてもいいか――そう決めたヒューは、握っていた葉を捨て、立ち上がった。
「それじゃあ、そうさせてもらいます」
「私はマイアよ。君は?」
「ヒューです」
「ヒューね。よろしく」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「ふふっ、礼儀正しいんだね。じゃあ行こう」
そう言うとマイアは左手を伸ばし、ヒューの右手を握って歩き出した。それを不思議に思ってヒューは聞いた。
「あの、何で僕の手を握るんでしょうか」
「え? あ、ごめんね。嫌だった?」
「そうじゃないですけど、不思議な感じがしたもので」
「小さい子がはぐれないように、手を握って歩くのが普通かと思って……でもヒューなら大丈夫そうよね。勝手にごめんね」
照れたような笑みを見せてマイアは握った手をすぐに離した。だがそうされると心の隅がわずかに寂しくなった気もしたが、ヒューは特に何も言わず歩き続けた。
「……ヒューは、いつもそんなしゃべり方なの?」
「そうですけど、おかしいですか?」
「ううん、丁寧ですごくいいと思うけど、何か……子供らしくないっていうか……」
ヒューは首をかしげてマイアを見つめた。
「子供らしいしゃべり方は、どんなしゃべり方なんですか?」
「そうね……もっと気軽で、敬語なんてそんなに使わない。私が今しゃべってるような感じでいいかな」
うーんと考えながらヒューは子供らしい口調を試してみる。
「私の名前はヒュー。よろしくね。……こんな感じですか?」
「自分の呼び方まで変えることはないけど……でも無理に変えることはないわ。ヒューが一番しゃべりやすい言葉なら、それでいいと思う。子供らしくないなんて余計なお世話だったね」
「変えなくても大丈夫ですか?」
「そのままでいいよ。それがヒューの個性だから」
そう言われてもあまりぴんとこないヒューだったが、このままでいいのならよかったと一安心するのだった。
のどかな道を歩き進み、木漏れ日の差す森へ入ったところで、マイアは先を示して言った。
「見える? あれが私の家よ」
無数の木々の向こうに小さな家がぽつんと立っていた。
「どうして森の中に家があるんですか?」
「私の夫はきこりをしててね。仕事場のこの森からは町は遠くて、毎日通うのも大変だからここに住んでるのよ」
なるほどと納得し、ヒューはマイアに付いて家へ向かう。
「……到着。さあ、入って」
夫がきこりなだけあり、すべて丸太で組まれた家のようだった。ヒューは短い階段を上がり、マイアが開けてくれた扉から中へ入った。部屋は外観の大きさ通りの広さだが、かすかに木の匂いが漂う。建てられてからまだ日が浅いのかもしれない。目の前には机と椅子、その向こうには台所、部屋の右奥にはベッドとクローゼットが見える。ざっと見た感じ置かれた物は少なく、どこも綺麗にされている。マイアがしっかり掃除をしているのだろうか。
「今料理を温め直すから、ヒューはそこに座って待ってて」
持っていたかごを机に置くと、マイアは台所に向かい、鍋の載ったかまどに火を付け始める。ヒューは言われた通り目の前の椅子に座り、マイアの様子を眺めた。
「悪いけどもう少し待ってね。温かくないと美味しくないから。……喉は渇いてる? 今は水しかないんだけど」
火を付け終えたマイアが振り返って聞いた。
「はい。飲みたいです」
歩いて来て少し喉が渇いていた。するとマイアは水がめの水をコップに注ぎ、ヒューの前に置く。
「裏の井戸水だから、冷たくて美味しいよ」
ヒューは早速飲んでみる。ごくり、と一口飲むと、喉から胃へ冷たい感覚が流れ込んでいく。最近口にした水分は雨水くらいで、それと比べれば味はなくとも断然美味しいものだった。
「ヒューは嫌いな食べ物とかはある?」
鍋の中をかき混ぜながらマイアが聞いた。
「すべての食べ物を食べてはいませんけど、今のところは思い付きません」
金を持たないヒューは、食べられそうなものなら何でも食べていた。だから多少味が悪くても、空腹なのに食べないという選択肢は浮かばなかった。食べられないということはあっても、嫌いというものはないのだ。これにマイアはくすりと笑った。
「私も、全部の食べ物は食べてないけど、唐辛子だけは苦手。子供は好き嫌いをよくするって聞くけど、まだそういう食べ物に出会ってないなんて、幸運ね」
「食べられるものなのに食べないなんて、もったいないです」
「その通りね。だから私は唐辛子を使った料理が出て来たら、夫に食べてもらうの。迷惑がられちゃうけど、残すよりはいいから」
「食べてくれる人がいれば、無駄になりませんね」
「その代わり、夫が太っちゃうけど。ふふっ」
そんな雑談をしているうちに、辺りにいい匂いが漂い始めた。鍋からぐつぐつと音が聞こえると、マイアは皿を取り、そこにシチューをよそった。
「お待たせ。熱いから気を付けてね」
美味しそうな匂いと湯気を立たせ、ヒューの前にシチューが置かれた。クリーム色の海にカブ、ニンジン、芽キャベツが浮いている。
「さあ、召し上がれ」
差し出されたスプーンを受け取り、ヒューはシチューをすくう。とろりと重みのある液体が滴る。誰かが作ったものを食べるのは、ヒューにとってこれが初めてのことだった。当然自分で作ったことはないし、作ってもらった記憶もない。おそらく初めての料理。空腹と小さな好奇心に動かされ、ヒューはすくったシチューを口に入れた。
「……!」
途端、舌に熱さが走る。はっと口を開けるが、マイアを前に吐き出すこともできず、小刻みに息だけを吐くしかなかった。そんな様子をマイアは笑って見ている。
「だから熱いって言ったのに。一気に食べると火傷しちゃよ」
だんだん熱さが消えてくると、ようやく味がわかってきた。牛乳とバターがほんのりと感じられ、道端で食べてきた何よりも美味しい。熱いとわかっていてもすぐに口に運びたくなるほど、ヒューはこのシチューの味を一口で気に入った。
「ゆっくり食べて。足りなければおかわりもあるからね」
本当はがつがつと食べたいが、熱いうちはそうもいかず、ヒューは言われた通りゆっくりと食べる。それをマイアは向かいの椅子に座って微笑んで見守っている。
「……マイアさんは食べないんですか?」
「さんはいらない。マイアでいいわ。私はまだお腹空いてないから」
そうなのかとヒューはシチューを食べ続けながらマイアを見る。そしてふと思い付く。こんなに優しい人なら、自分の主になってくれないだろうか――食べ物を貰った上にこんなお願いをするのは図々しいという気持ちもあったが、ヒューはスプーンを置くと思い切って言ってみた。
「あの、お願いがあるんですけど」
「ん? 何?」
「僕の主になってくれませんか?」
これにマイアはきょとんとした顔になった。
「……主?」
「そうです。僕の主です」
真っすぐ言うヒューに、マイアは笑って言う。
「ねえヒュー、主って言葉を間違って使ってない?」
「いえ、主は主です」
「そうじゃなくて、家族とか母親の間違いじゃないの?」
「違います。僕は主になってほしいんです。……駄目でしょうか?」
マイアは首をかしげ、苦笑を浮かべた。
「おかしなお願いね……でも、私は無理かな」
「なぜですか?」
「ヒューの面倒を見られそうにないから。家計に余裕もないし、それと、私のお腹に今、赤ちゃんがいてね」
にこりと笑ったマイアは自分の腹を一撫でする。
「産まれるのはまだ先だけど、この子のためにいろいろ買い揃えてあげたいと思ってるの。だから、ヒューのお願いは聞けないわ。ごめんなさいね」
「母親になる準備で忙しいんですね……わかりました」
少し残念そうにうつむいたヒューに、マイアはすかさず言った。
「でも安心して。放っておいたりしないから。町には孤児院があるの」
「孤児院、ですか?」
「身寄りのない子の生活を見てくれるから、もう道端の草とか花を食べなくても大丈夫よ。そこでならお腹いっぱい食べられるわ。だから私が連れて行ってあげる」
「僕にそういうものは要りません。要るのは主なんです」
ヒューにとって空腹や草を食べることは些細な問題で、今すぐどうにかしたいことではない。それよりも優先したいのは主を得ることで、生活の安定は二の次でいいという考えだった。
「ヒューには頼れる人がいるの?」
「そういう人はいません」
「それならやっぱり孤児院へ行ったほうがいいわ。今はまだ暖かい季節だからいいけど、秋、冬になれば植物は枯れて寒さと飢えで苦しむことになるわ」
「そうならないようにします」
「口で言っても、実際はそう簡単に――」
その時、玄関の扉がいきなり開き、大柄な若い男性がのそりと入ってきた。
「あっ、カルバ、お帰りなさい」
マイアは椅子から立ち上がると夫のカルバに歩み寄る。
「まだお昼前なのに、早いのね」
そう話しかけられたカルバは、いかにも苛立った表情で妻を見た。
「やっぱ予備のやつじゃまともな仕事にならねえ。何度か振っただけですぐ刃こぼれしやがった。安物は駄目だ。……手入れに出してたやつは貰ってきてくれたか?」
するとマイアは気まずそうに目を伏せる。
「それは、実は、まだで……」
「はあ? 昨日頼んだこと忘れたのか?」
夫の吊り上がった目がマイアを睨み付ける。
「忘れては、ないんだけど……」
「ふざけんな。忘れたから行ってねえんだろ。今週中に引き渡す材木が切り出せねえなら、次の仕事がなくなるんだぞ」
「ご、ごめん。でも――」
「でもじゃねえ。悪いと思うなら今すぐ町に行って貰ってこいよ! ほら!」
カルバは妻の背中を何度も強く押し、急かす。
「や、やめて。わかったから……」
怯えて声が小さくなるマイアを、夫は尚も後ろから押す。その様子をヒューは腹立たしく見ていた。頼んだ通りにならなかったからと言って、その苛立ちをぶつけるのは間違っている。しかも相手は身重の妻なのだ。危険なことをしている自覚はないのだろうか。
「行くならさっさと行けよ!」
怒鳴り声にマイアの表情が歪む。それを見てヒューはたまらず声を上げた。
「大声を出さなくても、マイアは行こうとしてます」
「……誰だ、このガキ」
やっとヒューに気付いたカルバが動きを止めて目を向けた。
「町へ行こうとした途中で、この子を見かけて……ひもじそうで可哀想だったから、うちでシチューを食べさせてあげたの」
「俺の頼みを放って、このガキの世話をしてたのかよ」
「だって、道に生えてる草を食べてたのよ? そんな姿、見て見ぬふりはできないでしょ?」
「そんなやつ、町に行けばいくらでもいる。放っておきゃ誰かが助けるさ」
するとカルバはヒューの元へ近付いていく。
「な、何するの……?」
心配そうに聞いたマイアを無視して、カルバはヒューを鋭く見下ろした。
「おいガキ、食べたならもう出てけ。ここは俺達夫婦の家だ」
そう言うと、ヒューの首根っこをつかんだカルバは、そのまま椅子から引きずり下ろし、玄関へ引っ張って行こうとする。
「よして! 小さい子供なのよ」
見兼ねたマイアはヒューに駆け寄り、夫から引き離そうとした。
「うるせえな。お前は早く町に行けよ!」
苛立った目を向けながら、カルバは妻の肩をつかみ、力任せに押し退けた。
「うっ……」
転ぶように床に倒れたマイアは尻と背中を打って痛そうに目を瞑る。それをカルバは自業自得とでも言いたそうな顔で見ていた。夫でありながら、この男はまるで思い遣りがない。これ以上マイアが暴力を振るわれたら、お腹の子にも影響が出かねない。
「追い出すことはないでしょ。この子は、ヒューは、町の孤児院へ連れて行くから」
よろよろと立ち上がったマイアが夫の腕にしがみ付き、再びヒューを引き離そうとする。
「そんな必要ねえよ。放っておきゃいいんだよ。それよりやることがあるだろ」
カルバとマイアは揉み合いになっている。その横でヒューはただマイアのことだけが心配だった。また転ばされたり、夫が激昂して殴られでもしたら……見ている様子ではまったくあり得ない状況とも言えない。自分の力では夫に敵わないのは明白。マイアが怪我をする前に先手を打ったほうがいい――そう判断したヒューは、そっと腕を机の上に伸ばした。
「放してカルバ。この子は連れて行くの」
「必要ねえって言ってんだろ! 知らねえガキの世話なんかしなくてい――」
怒鳴っていた声が突然途切れ、マイアは怪訝な表情を浮かべた。
「……カルバ? どうしたの?」
苛立ちをあらわにしていたカルバの顔が、徐々に引きつっていく。
「い、てえ……」
「え?」
痛みを感じて細まったカルバの目が、ゆっくりと自分の身体を見下ろす。それにつられてマイアも同じように視線を落とした。
「……きゃああああ!」
一瞬の間の後、マイアは悲鳴を上げた。
「このっ、ガキ……!」
カルバは歯を食い縛りながら、自分の腹に何かを突き刺すヒューの頭を強く押し退けた。身体ごとぐらっと揺れたヒューは、そのまま後ろへよろめいてカルバから離された。
「くそっ……」
床に座り込んだ夫にマイアはすかさず寄り添う。
「カルバ! しっかり……しっかりして!」
「何を……刺しやがった」
押さえる腹には、先ほどまでヒューが使っていた木製のスプーンが、薄い生地のシャツを貫いて柄から刺さっていた。その側には折られた柄の半分が落ちている。
「な、なるべく動かないで! 血が出ちゃうから……」
シャツに滲み始めた血を見て、マイアは混乱する頭ですべきことを考えていた。
「どうしたら……血を止めたほうがいいんだよね……それからお医者様に……」
目を泳がせながらぶつぶつ呟くマイアに、ヒューは近付いた。
「これでだいじょ――」
「近寄らないで!」
鋭い口調と視線を向けられ、ヒューは驚いて足を止めた。
「せっかく親切にしてあげたのに、こんなことする子だったなんて……」
怒りと怯えで震える声が言う。
「私のことも、刺すつもりだったの?」
「そんなことはしません。僕はマイアを助けたくて――」
「大事な夫を傷付けるのが私を助けることだと思ったの?」
「だって、その人はマイアを押して――」
「ちょっといらいらしてただけじゃない。それなのに、いきなり刺すだなんて……どうかしてる」
強い不審の目がヒューを攻撃し、遠ざける。そこには先ほどまでの優しさは微塵もない。それでも弁明しようとヒューが口を開こうとすると、マイアはそれを邪魔するように言った。
「出てってよ! 早く! 私達に近寄らないで!」
ヒューは心に拳を食らったような衝撃を感じた。マイアのためによかれと思ってしたことだったが、逆に怒りを買ってしまった。自分のせいで不快になったのなら、言う通りに出て行くしかなかった。ヒューは二人の横をすり抜け、玄関へと向かう。扉を開け、ちらとマイアを見たヒューは、最後に小さな声で言った。
「……ごめんなさい」
聞こえなかったのか、それとも無視したのか、マイアは何の反応も見せなかった。寂しさを覚えながらヒューは静かに家を出て行った。
森の道をとぼとぼ歩き、自分の失敗を反省しつつ、いつになったら主を得られるのかと不安になりそうなヒューではあったが、まだ探し始めたばかりで、この先必ず良い主に巡り会えると信じ、気持ちを切り替えるしかなかった。暖かな木漏れ日は、そんなヒューの心を少しだけ前向きにし、癒してくれるようだった。
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