我が主はいずこに

柏木椎菜

一話

 少年はゆっくりと目を開けた。その目の前には大量の本や実験などで使うような器具が散乱しており、その中に埋もれるように老婆が一人仰向けで倒れていた。口も瞳孔も開き、顔は苦しげに歪んでいる。一見して死んでいるとわかった。しかし少年はこの状況がまったくわからなかった。ここはどこなのか、この人はなぜ死んでいるのか。


 そんな戸惑いを感じながら、少年は肌寒さで無意識に自分の腕に触れて気付いた。身体を見下ろすと、服も下着も身に着けておらず、裸の状態だった。どうりで寒いわけだと、少年はとりあえず着る物を探して部屋の中を見回してみた。


 狭く、薄暗い部屋……窓はあるがすべてカーテンが引かれ、外からの光をさえぎっている。その代わりに壁や机にあるランプの灯りが部屋内を控え目に照らしていた。それにしても物が多い部屋だ。いくつも置かれた本棚にはぎゅうぎゅうに本が詰まっているが、そこに入り切らなかったと思われる本が床を隠すようにうずたかく積まれている。その隙間を埋めるように金属の器具や、束ねられた枯れ草、中身の見えない瓶など、何に使うのか見当もつかない物が散らばっている。さらにその上には埃が積もり、長いこと使われていない物もある。こうなるとただのゴミにしか見えない。


 そんなゴミをまたぎながら少年は隣の部屋へ移動した。扉はなく、一続きになった部屋で、ここも物が散乱していたが、ベッドが置かれた寝室のせいか、埃はなく、やや綺麗に保たれている。その壁際には小さなタンスがあり、少年は上の引き出しを開けてみた。中には地味な色の服が数枚しまわれていた。その一枚一枚を手に取り、少年は広げて見てみる。だがどれも明らかに少年の身体には合わない大きさだった。彼の容姿を説明すれば、黒く短い髪につぶらな灰色の瞳、手足や腰は細く、脂肪も筋肉も十分に付いていない。幼い顔と体形から推測するに、年齢は十歳ほどに見える。身長も一般的な十歳児と同じくらいだろう。そんな少年が着るには、見つけた服は大き過ぎる。下の引き出しも開けてみるが、こちらには女性物の下着やスカーフなどがあるだけで服は入っていなかった。いつまでも肌寒いままでいるよりは、ぶかぶかでも着たほうがいいかと引き出しを閉めた時だった。


 タンスと床の隙間に何かが置かれているのを見つけ、少年はそれを引っ張り出した。木製の四角い箱で、重さはあまりない。鍵がかけられていることもなく、少年はすぐに開けた。そこには丁寧に畳まれた服と靴があった。手に取り広げると、大きさは先ほどの服より小さい。これなら少年でも着られそうだった。シャツの他にもズボンと下着、サスペンダーまであり、それらすべてを少年は身に付ける。そして最後に靴を履く。つま先を床にとんとんと当て、ぴったり履けたことを確かめる。見つけたこれらの服は、まるで少年の身体に合わせて作られたかのようにぴったりだった。偶然なのか、それとも本当に少年のために用意されていたものなのか。しかし服を着られたことに満足した少年は、そんな疑問を深く考えることもなく再び隣の部屋へ戻った。


 足の踏み場もない場所を進み、死んでいる老婆を改めて見下ろした。無数のしわが刻む顔は青白く、瞳孔も開いているが、それがなければただ気を失っているだけにも見えなくはない。もしかすると、この老婆はまだ死んだばかりなのかもしれない。綺麗な見た目からそう思えた。だがこの人はなぜ死んでしまったのか。傷や血を流している様子はどこにもない。となると病死だろうか。病のことなど詳しくない少年には想像するしかないことだが、老婆の右手が自分の胸の部分の服を力強く握ったまま息絶えている様子が印象的に感じた。


「……ご主人様……」


 頭に浮かんだ言葉を少年は呟いていた。よくわからないが、老婆を見ていると、少年は自分の主がこの老婆のような気がしていた。自分の主とは何かと聞かれても、少年にははっきりとした答えなどない。とにかく自分には主が必要なのだという漠然とした気持ちがあるだけだった。それは老婆が死んだことに悲しむわけでもなく、ただ主に仕えよと強く背を押して少年の心を動かしてくる。


 おそらくこの老婆は自分の主だった。しかし何かの理由で死んでしまった。主になってくれるはずだったのに、それはもう不可能となった。僕には主が必要なのに――少年は玄関の扉に目を向けた。ご主人様がいなくなったのなら、新たに探すしかない。ここにいたって老婆は生き返らないし、次の主も見つからない。それなら自ら探しに行くしかないのだ。広い外へ。


 少年は扉の取っ手に手をかけ、引く。ギイと音を立てながら開くと、まばゆい光が少年の顔に当たった。目を細めて出た家の外は明るく、太陽は頭上で輝いている。その下に並ぶ民家の周りでは、女性が桶で皿を洗っていたり、杖をついた老人同士で立ち話をしていたり、ボール遊びではしゃいでいる子供達なんかが見える。それは至って日常的で、平和な村の光景だった。自分は今どこかの村にいる――それだけをわかって少年は踏み固められた土の道を歩き始める。


 この村の道は細く、民家同士の距離も近い。だからすれ違う住人とも必然的に近くなる。最初こそ気にも留めず歩いていたが、少年はふと気付いた。時々不思議そうに見てくる者がいたのだ。声をかけてくることはないが、見られると何となく気になってしまうものだ。次に見てくる者がいた時、少年は思い切って話しかけてみた。


「あの、何で僕を見るんでしょうか」


 軒先の椅子に腰かけて見ていた老人に聞くと、少し驚いた様子を見せてから笑顔になって答えが返ってきた。


「いやな、知ってる子供にそっくりだったもんでな……すまんかったな」


 理由を聞いて少年はまた歩き始める。別の子供にそっくりだから見てくるのか。どれだけそっくりなんだろう――などとさほど興味もなく考えていた時だった。


「ちょ、ちょっと待って!」


「……何でしょうか」


 すれ違い様に呼び止められて少年は振り向く。そこには瞠目して固まるふくよかな老婆がいた。


「あなた……ヒュー……?」


 少年は首をかしげる。だがヒューという響きに、あっと何かを思い出した。


「ヒューって、僕の名前ですね」


 呼ばれて初めて自分の名前を思い出した。ヒュー・エメット。それがこの少年の名前だった。


「そうよ。そうだけど……でも、あり得ないことだわ」


 少年はまた首をかしげる。ヒューは間違いなく自分の名前なのに、何があり得ないというのか。


 老婆は眉間にしわを寄せた顔で言った。


「ヒューは、四十年も前に亡くなってるんだから、ここにいるわけないわよね……」


 自分に言い聞かせるように老婆は言った。少年はそんな昔に亡くなった子供に似ているらしい。今いる子供ではなく、すでに死んだ子供に。


「あなた、本当にヒューっていう名前なの?」


「そうです。僕はヒュー・エメットです」


 これに老婆はさらに驚きを見せた。


「まあ! 姓まで同じだなんて、すごい偶然もあるのね……だけど、見れば見るほど、本当にあの子にそっくりだわ」


 老婆は少年に近付き、丸く冷たい頬を優しく撫でた。


「どれくらい似てるんですか?」


「何もかもよ。髪も目も、声も背丈も、全部あの子に瓜二つだわ」


「その子は、なぜ死んでしまったんですか?」


 聞くと、老婆は悲しい微笑みを浮かべた。


「近くの川で遊んでる時にね……溺れてしまったのよ。一人で遊んでたから、すぐに見つけてもらえなくてね……あの時のドロテアは気の毒で見ていられなかった」


「ドロテア?」


「ヒューのお母さんよ。若い頃友達だったの」


「だったっていうことは、今は友達じゃないんですか?」


 老婆は力なく息を吐いた。


「そうね……私は今も友達だと思ってるけど、ドロテアにはその気がないみたい。彼女は子供を失って、大きく変わってしまったのよ」


「友達だと思ってるなら、会いに行けばいいんじゃないんですか?」


 これに老婆は首を横に振る。


「会いに行っても会ってくれないのよ。扉も窓も閉め切って様子を見ることもできなくて、たまに歩いてるドロテアを見つけても、私のことなんかまるで映ってないみたいで……」


「子供を失った悲しみのせいなんですか?」


「そうね……後は孤独のせいもあるでしょうね。ヒューが亡くなった後、旦那さんと上手くいかなくなって離婚したのよ。誰か寄り添ってくれる人がいればもう少し――あらやだ、こんなこと子供に聞かせることじゃないわね」


 苦笑いを見せ、老婆は聞いた。


「ところで、あなたはどこの子なの?」


「……どこ?」


「お家があるでしょ? それともこの村の子じゃないのかしら?」


 自分の家かは定かではなかったが、ヒューはとりあえず出てきた家のある方向を指差した。


「あっちにある家から来ました」


「あっち? じゃあこの村に住んでるのね。でも初めてあなたを見るわ。最近越してきたの?」


 この老婆はわからないことばかりを聞いてくる。ヒューが知っているのは自分の名前と、主になるはずだった人が死んでしまったことだけだった。それ以外のことは答えようがない。


「僕には、わかりません」


「そうなの? もっと小さい頃にここへ来たのかしらね。それにしては見かけたことがなかったけど……お父さんとお母さんは?」


「わかりません」


 老婆は怪訝な目で見る。


「わからない? でもお家にいるんでしょ?」


「あの家にはいません。いるのは死んだ僕の元主だけです」


「……何を言ってるの? 死んだって……誰のこと……?」


 老婆の表情に見る見る不審が募っていく。それを見てさすがにヒューも自分がまずいことを言ったのではと気付いた。


「……やっぱり、何でもありません」


「ご両親は家にいないの? まさか独りで暮らしてるの?」


 また答えられない質問をされてヒューは黙るしかなかった。その様子を違う意味で受け取った老婆は、今度は憐れむ目を向けた。


「可哀想に……亡くなったご両親も心残りなことだったでしょうに。……お家はどこ? よかったら案内してくれない?」


「どうしてですか?」


「まだ幼いのに独りで生活させることなんかできないでしょ。荷物をまとめるのを手伝うから、私と一緒に村長さんに相談しに行きましょ」


 そう言うと老婆はヒューの手を引いて歩き始める。


「でも、僕は――」


「大丈夫よ。きっと良くしてくれるから」


 強引なお節介にヒューは逆らえず、ずんずん進む老婆に連れられて行く。早いところ主を探したかったが、悪いことをされるわけでもなさそうだからと、今は大人しく付いて行くことにした。


「お家はこっち?」


 分かれ道で方向を示しながらヒューは出てきたばかりの家に戻ってきた。


「……着きました。この家です」


 カーテンが閉め切られた小さく静まり返った家――その前に立つと、老婆は言葉を失ったかのように家を見つめ、そして隣のヒューに顔を向けた。


「……本当に、この家なの?」


 自分がいたのはこの家しかなく、住んでいるのかは別として、ヒューは頷いて見せた。


「でも、ここはドロテアの家よ……あなた――」


 老婆は困惑を隠さずにヒューを見つめる。


「亡くなった、あのヒューなの……?」


「わかりません。でも名前はヒュー・エメットです」


 そんな答え方しかできなかった。聞いても仕方がないとでも思ったのか、老婆は戸惑いながら家の扉をコンコンと叩いた。


「ドロテア……いるの?」


 当然ながら返ってくる声はない。


「あなたの子に……ヒューにそっくりな子がいるのよ。入るわよ……?」


 返事を待つが、期待できないとわかって老婆は扉をゆっくり押し開いた。


「……ドロテア?」


 ヒューを置いて老婆は家の中へ入って行く。その後ろ姿を見送った直後だった。


「ああっ!」


 驚いた声が上がり、中から焦った表情の老婆が出てきた。


「だっ、誰か、助けを呼んでちょうだい! ドロテアが……」


 大声で叫ぶと、近所の住人達が何事かと集まってきた。


「うん? どうしたんだ婆さん」


「何かあったの?」


「ドロテアが、中で倒れて……医者をお願い!」


 それを聞いて数人の男性が家の中へ入って行く。老婆はよほどの衝撃だったのか、地面に座り込み早い呼吸を繰り返していた。それを女性達が心配そうに介抱している。その間にも騒ぎを聞き付けた住人が次々に集まっていた。


「……駄目だ。もう死んでるよ」


 家の中を見た男性が出てきて言うと、周囲に緊張と不安の空気が流れる。


「誰か死んでたって」


「殺されたとかじゃないでしょうね?」


「ここの人って、確か高齢だったよね」


 気付けば家の前には人垣ができて、村の老若男女が大勢集まっていた。


「ほらほら、子供は近付くなって」


 家のすぐ前にいたヒューは、他の野次馬のように見に来た者と思われ、人垣の外へしっしっと追い出された。案内しろと言われたから来たのに、来たら追い出されるとは。少し不満はあるが、老婆はすぐには動けなさそうだった。申し訳ないと心で謝りつつ、ヒューは騒がしくなった場所からそっと離れた。そもそも今は助けてもらいたいことはなく、早く主を見つけたいわけで、何だか大きくなってしまった騒ぎに足留めされたくなかった。ヒューの思いはただ一つ、自分の主を見つけることだけなのだ。


 後ろをちらと振り返る。住人に囲まれた家がどんどん遠ざかっていく。あの老婆は元主を見て、ドロテアと呼んでいた。そのドロテアにはかつてヒューという子供がいた。そしてその子供は、自分にそっくりなのだという。名前が同じ自分と――もしかすると、元主は母親でもあるのかもしれないとヒューは思った。根拠などない。倒れた姿を見て主だと感じたのと同じように、考えながらそう感じただけのことだ。しかし母親だったとしても、ヒューの心境には何の変化もない。一緒に過ごした時間も、思い出も、何一つないのだ。悲しむべきだとしても、ヒューには悲しむ理由が見当たらなかった。だがそれでいいのだろう。上辺だけの涙を流すほうがよほど薄情に思える。心に嘘はつけない。だからヒューは思うままに、感じるままに自分の主を探そうと、名も知らぬ村を出て行った。

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