桜 in space

鐘古こよみ

三題噺「指輪」「最速」「桜色」


 床から天井まで継ぎ目のない、丸みを帯びたクリーム色の壁が、一瞬にして鮮やかなピンク色に彩られた。部屋の中央に置かれた小型プロジェクターが投影しているのは、ベトナムで撮影された桜並木の映像だ。

 手元の端末を操作すると、自身が前に進んでいるかのように、ゆっくりと映像が動き出す。角度調整スティックを後方に倒せば空が映り、前方に倒せば地面が見える。


 あらまあ、と感嘆の声を上げて、ブルーグレーのスーツを着こなした上品な老婦人が、胸の前で手を合わせた。こんなのも素敵ねえ、と感想を述べる声がどこか他人事の響きだと感じ、私は内心で落胆する。


「これもやっぱり、違いますか」

「そうねえ。素敵だけれど、私が思っている桜並木ではないわねえ」


 探し直しだ。ため息を呑み込み、私はあくまで穏やかな笑みを浮かべる。

「こちらへどうぞ。もう少し詳しくお話を聞かせてください」


 プロジェクターを切って投影室から応接室に戻り、ソファに腰かけると、私はさっそく電子カルテを起動した。病院ではないが、顧客の情報や希望を詳しく記録したファイルのことを、我がラストスター社ではカルテと呼んでいる。


「決まりですので、何度もすみませんが、お名前から確認させていただきます。

 春奈・インディラ・林・クマール様。性別指数は女性100%、宗教指定なし。

 共通紀元コモン・エラ2025年3月12日生まれの85歳。

 国籍は日本ジャパン=ベトナムで、現住所はモイ・ホーチミン。

 ご希望プランはEの、宇宙安楽死葬スペース・ユーサネイジア・フューネラルでよろしいですね」


 春奈さんが頷くのを見てカルテにチェックを入れ、私は次の項目へと進む。


「搭乗後は360度視野のヘッドセットを使用し、ご希望の仮想現実映像ヴァーチャル・リアリティをお楽しみいただく予定です。

 ご提供くださった記録媒体や当社撮影の現地映像などを組み合わせて、98%までは仕上がり確認済みですが、残りの2%が問題の桜で、調整中になります。

 オプションの音楽も選択済みで、香りは希望なし、追加のお手荷物なし。

 ペットの同伴なし、軌道追跡サービスのお申込みなし……」


 最後のセンテンスの語尾が消えたのは、春奈さんが当社を訪れた理由を思い出したからだ。軌道追跡サービスは、宇宙空間に放出された「棺」の現在地を、地上に残る遺族が知るためのもの。その遺族がいないなら、サービスに申し込む必要はない。

 宇宙旅行中の事故で子と孫の世代を一気に失い、既にパートナーに先立たれていた彼女は、一人になってしまった。「宇宙なんて怖い」と旅行に参加しなかったことを後悔し、もう長生きしても仕方ないからと、皆の眠る宇宙空間で安楽死することを望んだのだ。


 安楽死がどの国でもおおむね合法と認められ、国際法に安楽死に関する項目が加わってから、半世紀以上が経つ。その半世紀の間に、地球と宇宙をケーブルで繋いでしまおうという国際的な大プロジェクト、軌道エレベーターの建設が、予定を大幅に超過して落成の日を迎えた。

 人や物が安いコストで宇宙へ送られるようになり、宇宙旅行と共に、宇宙葬という言葉も一般的に知られるようになった。そこへ安楽死を組み合わせて、新たな人生の終末スタイルを確立させたのが、我がラストスター社だ。


 怖くて宇宙旅行はできないが、死ぬ直前に一度くらいなら宇宙へ行ってみたいと考える人は、存外に多いらしい。加えて、医療分野の発達により伸びに伸びた健康寿命は、死はコントロールできるものという感覚を人類に植え付けた。

 今や安楽死は全人類の65%が最も望ましいと考える死に方であり、そこにエンターテインメント性を付加して自分らしい最期を演出することは、ごく一般的な人生設計の一部として定着しつつあった。

 昔は葬式というお別れパーティーを開いたり、お墓という家族単位の記念碑を建てたりしていたらしいから、それが個人的なものに変化したのだろう。


 質問に頷く春奈さんの生体反応バイタルは安定している。死を扱うビジネスであるため、決して間違いのないよう、顧客対応には細かな決まりがいくつもある。

 自分の判断と進捗状況を何度も確認してもらい、会話の途中で少しでも不安や躊躇を見せたら、プロセスを前の段階へ戻し、場合によってはキャンセルや延期をお勧めするのだ。

 AIではなく人間の専任担当者が必ず付くのも、合理的判断だけで事を進めないための安全装置だった。


「では、記憶に残る桜のエピソードを、もっと詳しく教えていただけませんか? どんなに些細なことでもいいんです。一緒に行った人とか、その時に聞いた言葉とか」


 問題の桜の映像は、春奈さんが「棺」の中で最期に見ることを希望した人生ダイジェスト――日本風ジャパナイズに言うと走馬灯――の冒頭に流す予定のものだ。

 元となる映像記録がないため、聞き取ったイメージを元に技術スタッフが試行錯誤しているのだけれど、なかなかこれといった反応が得られない。

 日本の桜ならソメイヨシノだろうと、撮影スタッフが当たり前のように用意したものは、すぐに首を横に振られてしまった。もっと花弁が多く、かといって八重桜ではなく、白っぽい花弁も色の濃い花弁もあったらしい。

 自然交配の雑種だとしたら、うろ覚えの記憶を頼りに探し当てるのは至難の業だ。


「あれは私の人生の最初の記憶で、たぶん、2歳か3歳頃だというお話はしましたね。母と手を繋いで、桜並木を歩いている。場所は日本のどこかだと思います。その頃はまだ、あちらに住んでいたはずだから」


 語り始めた春奈さんがしんみりとした口調になったのは、その日本が今や、現代的な暮らしを望めない水没国家となってしまったからだろう。


 軌道エレベーターの完成が大幅に遅れた原因でもある、海底火山の大噴火。

 その余波で地殻変動の影響をもろに食らった日本は、数年をかけて国土の40%を海面下に沈めることとなってしまった。

 残されたのはほとんどが山岳地帯で、インフラの整備や発電所の再建どころか、食料を確保することすらままならない状況に、皇室と政府は海外に救難信号を発した。

 国際協力を得て全国民の脱出計画が実行され、日本にルーツを持つ人間は世界のどこでも、日本と滞在国の二重国籍が認められることとなった。

 私の祖父も、そうして大陸に移住したのだと聞いている。

 そんなルーツの縁あって、私は春奈さんの担当を任されることになったのだ。


 思い出の桜並木は今や、ほぼ確実に水没している。

 だから現地へ撮影しに行くわけにもいかず、インターネット上で商用利用を許可された画像やAIの描画、手持ちの記録映像等を繋ぎ合わせて、再現するしかない。

 難しい仕事だけれど、顧客が人生の最期に見ることを望んでいるのだ。時間の許す限りこだわりたいという意見で、チームの方向性は一致していた。


「住んでいたのは日本のどこだったか、地名など思い出したことはありませんか?」

「そうねえ……たぶん、西の方だと思うのだけれど。引っ越しが多かったものだから、はっきりしなくて……そうそう、その時に母は、キモノを着ていたのよ」


 新しい情報だった。私はすかさず記録を取る。


「桜色の美しいキモノだったわ。母はインド人として生まれたけれど、日本の文化が好きだったの。お茶目な人で、繋いでいない方の手を楽しげに空に掲げて……ああ、インドか日本の踊りをしていたのかも。その手にきらきら光るものがあって、なんだろうと思って指さしたら、見せてくれたのを覚えている。

 指輪だったわ。日の光を反射して、輝いて見えたのね。

 母が亡くなったとき、その指輪とキモノは、私が形見に譲り受けたのよ。棺へ入るときには、両方とも身に着けるつもり」


 春奈さんのお母様はその後いくらも経たないうちに、病気で亡くなってしまったのだそうだ。数少ない思い出の中の貴重なワンシーンなのだと思うと、やはりなるべく再現してあげたい。

 桜の色や形、枝ぶり、咲き具合など、前にも聞いたことをもう一度確認し、念のためにキモノの写真を送ってもらう約束をする。キモノが桜色なら、そのイメージが現実の風景に影響を及ぼしているかもしれない。

 努力を重ねる一方で、出立予定日が迫っていることも忘れてはいけなかった。

 イメージに近い映像が得られなかった場合、これまでに見てきた中から選んでいただくという妥協の確認を、しておかざるを得なかった。


     *


 春奈さんにとって地上で過ごす最後の日が、やってきてしまった。

 桜の映像は結局、妥協となった。

 日本風に頭を下げて謝る私を、春奈さんは穏やかな笑みで許してくれる。


「いいんですよ。最後までいろいろと試してくれて、本当にありがとう。あなた方のお陰で、心安らかに宇宙へ行けると思うわ」


 これから春奈さんは車に乗って港へ向かい、船に乗る。

 軌道エレベーターは、赤道上の海面に設置された人工浮島メガフロート内にあるから、まずはそこまで移動しなくてはならないのだ。

 到着したら内科医と精神科医の診察を受け、地上での最後の食事を楽しむ。春奈さんの希望は確か、天ぷら蕎麦とクリームあんみつだった。

 翌朝7時、専用搭乗機に乗り込み、軌道エレベーターで上昇を開始。約1週間かけて静止軌道ステーションへ向かう。

 到着し、漆黒の闇に浮かぶ地球の姿をじっくりと眺めたら、再び医師と精神科医のの診察を受け、人によっては最後の晩餐を食べる。

 いよいよ「棺」へ入る時間だ。

 もちろん、直前で考えを変えることもできる。

 変えなかった場合、用意してきた好きな格好に着替えて、希望者のみ聖職者の訪問を受け、医師に処方された睡眠導入剤を飲む。そして「棺」と呼ばれる専用ポッドに身を収める。

 ここで、例の映像の投影が始まる。

 自分の人生を振り返り、懐かしい思い出を楽しんでいるうちに、身体の機能を停止させる噴霧薬が少しずつ、ポッド内の空気に織り交ぜられていく。


 よく誤解されるのだが、宇宙空間へ「棺」が放出されるのは、完全に呼吸が止まって脳波の反応もないことを、専門の医師が確認してからだ。

 意識があるうちに放出されてしまい、死にきれず戻りたいのに戻れない、などというホラー映画のような展開には決してならないから、安心してほしい。


 軌道エレベーターの中で一週間も過ごすことになるので、春奈さんは当然のことながら、お母様の形見のキモノをまだ身に纏っていなかった。でも、左手の中指には光るものがあった。私の視線に気づいて微笑み、手を差し出して近くで見せてくれる。


「この間お話しした母の形見の指輪が、これなんですよ。きっと想像と違うでしょう。リングの部分が太くて、ごつい印象じゃない? 嵌まっているのはたぶん、宝石じゃないわ。まるでカメラのレンズみたいね。母は変わったデザインが好きだったみたいで、私の趣味じゃないから、普段使いはできなかったけれど……」


 春奈さんの言葉を聞きながら、私は、雷に打たれたような衝撃を覚えていた。

 確かに、ごつい。ユニセックスデザインが当たり前の現代とはいえ、女性が好んで身に着けるようには見えない。この指輪の目的が、お洒落のためだったなら。


 これとよく似たものを、私は祖父の部屋で見たことがあった。


 机の引き出しを勝手に開けて遊んでいた時、隅の方に転がっている指輪を見つけたのだ。不思議そうに手に取った私からその指輪を取り上げた祖父は、悪戯っぽく笑って指に嵌めると、まるで魔法のような光景を見せてくれた。

 当時住んでいた家の白い壁に、その指輪の宝石のような部分を向けることで、極彩色の鳥が羽ばたく映像を出現させたのだ。

 高価なおもちゃだよ、あまり流行らなかったけど……と、祖父は笑った。

 動画や写真を保存した他のデバイスとデータをやり取りし、壁や天井など、好きな場所に映像を映し出すことができる装置だったのだ。

 要は、超小型プロジェクターだ。

 埋め込み型インプランタブルネイティブと呼ばれる世代に生まれた私にとって、映像は脳波でやり取りするものだったから、そのレトロさはやたら新鮮に映った。祖父母世代の人間はまだ、有機ナノボットを血管内に取り入れたり、極小デバイスを皮膚の下に埋め込んだりすることに抵抗を覚える人が多かったから、すぐに見せたい映像をどうやってやり取りしたらいいのかが、常に悩みの種だったのだ。

 昔の人はこういう道具を使っていたのかと、幼いながらも感心した。


 その時に見たのとほとんど同じ指輪が今、春奈さんの指の上で輝いている。


「春奈さん、これ……貸していただけませんか!?」

 手に飛びつくようにして私は、叫んでいた。

「これは、ただの指輪じゃなくて、指輪型プロジェクターです。お母様と一緒にご覧になられた桜並木は、もしかしたら、この中に入っているかもしれません!」


 祖父の指輪は、容量は少ないながらも、受信した映像を保存する機能を兼ね備えていたから、可能性は高い。

 春奈さんが目を丸くし、戸惑いながらも指輪を外してくれた。

 あの時、祖父はどう扱っていただろう。必死で思い出そうとしながら、私はリングの鏡面部を指の腹でこすってみた。反応しない。

 リングを指に嵌め、空中で降ってみた。何も起こらない。

 考えてみれば、ずっとしまい込まれていたのだ。電池切れを起こしているに決まっている。それに、こういうデバイスにつきもののロックもかかっているだろう。


 水素エンジン特有の音を立てながら、迎えの車がエントランスに停まった。

 時間が迫っている。私は脳波で生体デバイスにアクセスし、AIを起動して、予定外行動を起こした場合のスケジュールを演算させた。

 表情が硬くなるので、顧客を前にして生体デバイスにアクセスすることは、普段なら絶対にしないのだが。


 1秒待たずに結果が出た。予定がいろいろと詰まっているので、春奈さんを足止めするわけにはいかないが、私が指輪を預かり、技術班に解析を依頼し、ロック解除して夜の船便で人工浮島メガフロートに向かい、軌道エレベーターに乗り込む前の春奈さんに会って指輪を渡すことは、どうやら可能だ。


「春奈さん!」


 まん丸に見開かれた春奈さんの灰色の目に、私の上気した顔が映っていた。


    *


「お願い、最速で!」


 指輪を握りしめて技術スタッフの揃うフロアへ飛び込み、顔見知りの技師を捕まえて、私は急かしに急かした。

 思った通り、指輪は電池切れを起こし、しかもロックがかかっていた。幸いなことに破損はなさそうで、いろいろと機器が揃っているので充電は無事に済んだが、ロック解除に思ったより時間がかかってしまった。


 紆余曲折を経て無事に映像を取り出した時の、技術スタッフ達の晴れやかな表情。

 そして天井に映し出された満開の桜の映像を、私は一生忘れないに違いない。


 現実の桜と違って、それは白から濃いピンクまで、微妙に色合いの違う様々なグラデーションを備えていた。

 ドレスの裾のように膨らむ花弁は華やかだけれど、うるさすぎず、日本古来の品種だというソメイヨシノの潔さを、どこかに残していた。


 春奈さんのお母様の名を検索してみると、同姓同名の3Dデザイナーの記事がいくつか見つかった。年代も合っているから、同一人物に違いない。日本の伝統的な意匠や工芸品をモチーフとした作品が多く、ホログラムを活用したキモノのシリーズもあったが、桜並木の投影デザインは情報として出てこなかった。

 もしかしたらこの桜並木は、お母様が小さな春奈さんを楽しませるために生み出した、唯一無二の風景だったのかもしれない。


     *


 技術スタッフの声援を背に受け、指輪を握りしめて、私は社用車に乗り込んだ。

 軌道エレベーターの安全を守るため、人工浮島メガフロートの周囲は広範囲に渡って航空機の飛行が制限されている。小型ドローンだろうがラジコンだろうが、空を飛ぶものは全てが接近禁止だ。輸送用ドローンを頼ることはできないから、私が自ら乗り込んで届けるしかない。


 乗船チケットをインターネット経由で購入し、港に着いてチェックインを済ませると、私はようやく一息つくことができた。

 軽食を摂り、飲み物を買って、待合ロビーで束の間の休憩を楽しむ。

 すぐに乗船開始のアナウンスが始まるはず、と思っていたのだが。


 ……お客様にご連絡いたします。先ほど、沖合で不審船の航行が確認され、現在、追跡調査中です。海上の安全が確保されるまで、出航を保留いたします……


 聞こえてきたアナウンスの内容に、手に持った飲み物を思わず落としかけた。

「なんで!?」

 上げた叫びは、周囲の人々のどよめきにかき消されて、目立たない。

 私はAIにアクセスし、他の可能性を探らせた。

 結果なし。結果なし。結果なし。

 海上封鎖されているなら、今から他の港に駆け込んだところで、同じことだ。


     *


 結局、出航は朝になった。

 自分の生体デバイスや社用通信網を駆使して、私は、できるだけのことをしたつもりだ。技術スタッフに頼んで映像データだけ先に送ってもらい、春奈さんに事情を話すか上司と検討し、現地スタッフから全てを説明してもらうことにした。

 安全上の観点から、船上では個人の通信は制限されることになっている。

 大海原に金色の道を作る朝日を睨みながら、私は頬に潮風を受け続けた。

 入港予定は6時半。春奈さんの出発は7時。


 船が港に着いた瞬間、飛び降りるようにして、保安検査場を目指して走った。

 身分証明、手荷物検査、危険物所持検査、薬物使用検査、入港理由調査……すべてをクリアして入島許可を得るまで、どれくらいかかっただろう。

 移動用自走車の待機場に滑り込んだ時、AIが7時を知らせ、スケジュールガイドの終了を告げた。

 私は思わず、浮島の中央部に天空からぶら下がっている、長大なカーボンナノチューブの集合体を仰いだ。


 蒼天の遥かな高みを超え、大気圏をぶち破ってなお漆黒の宇宙に真っ直ぐ伸び続ける、人類の技術の結晶体。

 神様のストローみたいな軌道エレベーターの道筋を、銀色に輝く滑らかな物体が、あっという間に上昇していくのが見える。


 間に合わなかった。


 立ち尽くす私を邪魔そうに避けて、後から来た人たちが次々と自走車に乗り込む。

 指輪は簡単な布袋に包んだ状態で、上着の内ポケットに突っ込まれていた。

 それを取り出して掌にのせ、私はその場で深々と頭を垂れた。

 天の神様がいるのなら、春奈さんに指輪を届けてほしい。


 ――突然、肩を叩かれた。


 振り返ると、まん丸に見開かれた灰色の目がある。

 既視感が過ぎった次の瞬間、私も負けないくらいに目を見開いていた。


「春奈さん……?」

「まあ。あなた、泣いているの?」


 目の淵で頑張っていた涙が、ぽろりと零れる。

 それを見て春奈さんが、若草色の上着のポケットからハンカチを取り出した。


「ええと、神崎シンディさん、でしたっけ。良かったら使ってちょうだいね」


 渡されたハンカチを頬に当て、ずびびと鼻を啜ってから、私はぼんやりと目の前の人影を見つめる。いないはずの人が、ここにいる。


「春奈さん、軌道エレベーターに乗っているはずじゃ……」

「ええ、その予定だったのだけれど、あなたからの連絡を受けて、やめたの。母の指輪に、桜並木の映像が入っていたのを、見つけてくださったんでしょう?」


 ふふ、と優しく笑い、春奈さんは、眩しいものでも見るように目を細めた。


「若い人が頑張っているところを、もっと見ていたくなっちゃったのよ」


     *


 春奈さんは帰ることになった。

 一緒に宿泊施設へ戻り、私も支度を手伝う。

 部屋は壁も天井も白かったから、桜並木を投影するのにぴったりだ。

 指輪を嵌めた春奈さんは、あちらこちらに桜の花を咲かせて、まるで子供みたいな顔ではしゃいでいた。目尻がたまに、きらきらと輝くのが見えた。


「あなたの名前、悪いけれど、覚える気がなかったのよ。だってもう死ぬのに」

 帰りの船の上でぽつりと、春奈さんは、そう明かしてくれた。

「でも、もうすぐ死ぬ私のために、あなたは一生懸命になってくれた。 

 私は宇宙で独りぼっちになったと思い込んでいたけれど、そうじゃなかったのね」


 安楽死をキャンセルした春奈さんは、代わりにシンプルな宇宙葬を予約し、担当者に私を指名してくれた。その時には形見の指輪を譲るわね、と笑顔を添えて。


 私がしたことは、大したことじゃない。

 春奈さんの胸にぽっかりと空いた、宇宙の深淵のような穴。

 それを塞いだのは、指輪に隠された鮮やかな桜の花々だし、用意したのは、誰よりも娘を愛していたであろう母親だ。

 私はそれを見つけるための、ほんの少しの手伝いをしたに過ぎない。

 

「私が宇宙葬をする時には、その指輪、次の誰かに譲っていいですか?」

 尋ねると春奈さんは破顔して、もちろん、と大きく頷いた。

 

 人の命は宇宙から見れば桜のように儚い。でも、こうして繋がっていくのだ。



<了>

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桜 in space 鐘古こよみ @kanekoyomi

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