第6話

 瓦礫だらけの道を走り出した車は、アスファルトの割れ目に嵌まり込んだり、石礫を踏んで大きくバウンドした。そのせいで喋ることが出来ず、わたしはずっと黙ったままでいた。出来たら彼らにいろんな質問をしたかった。成り行きで車に乗ってしまったけれど、彼らについて知りたいことがたくさんあった。さっき尋ねた名前の続きもそうだし、その他にもっと根本的な、例えばなぜ彼らがこの町にいるのかや、いつからいるのかといったことも知りたかった。

 わたしは車が何かで停止するのを待った。けれど対向車も歩行者も無く、信号も消えたままの町を、車は一度も止まることなく走り続けた。ときどきわたしはバックミラー越しに七瀬の様子を見た。彼女はもう泣きやんでいて、マルチーズの亡骸をしっかりと抱いたまま、瞳を閉じていた。彼女に抱かれていると埃や泥や血糊で汚れた亡骸でさえ、なにかの清らかな宝物のように見えた。

 やがて車は川沿いに出て、堤防の上に作られた道を走り出した。まわりには崩れたマンションやビルが消えて背の低い民家だけになり、もともとが砂利道だったせいで瓦礫もさっきに比べてずいぶんと少なく、車の振動はいくぶんかましになった。

「名前」とわたしは舌を噛まないように慎重に運転席に尋ねた。「ミキでいいんですよね?」

 彼はちらりとバックミラーを見て、「うん」と言った。「七瀬にはそう呼ばれている」

「本名は別なんですか?」

「まあね」と彼は頷いた。

「じゃあ、どう呼べばいいですか?」とわたしは再び尋ねた。

 彼はそれには答えず、唐突に「プラトンを知っているかい?」と言った。

「世界史の時間にやりました。ううん。倫理だったかな。ギリシアの哲学者でしょ?」

「そう。『クラテュロス』は読んだことがある?」

「ありません」と戸惑いながらわたしは言った。哲学の巨人と彼の名前に何の関係があるのかよく分からなかった。

「名前について考察された世界最古の著作だよ」と、彼はわたしの疑問に答えるように言った。「まあ、覚える必要はないけれど」

 彼はひときわ大きな瓦礫をよけるために、ハンドルを大きく切った。たぶんスコップか何かだろう。七瀬の後ろの荷台で、金属が触れ合って耳障りな音を立てた。

「プラトンは『クラテュロス』の中で、名前について対立する二つの考え方を述べている。ひとつは、あらゆるものには本質的に決まった名前があるとする考え方。たとえば君の名前……」

「咲子」とわたしは言った。

「つまりは君にはサキコじゃなくて、本質を表した別の名前があるんじゃないかってのがこの考え方。これはクラテュロス説と呼ばれている」

「もうひとつの考え方はどんなのですか?」

「今の考え方の逆だよ。本質的な名前なんてのはどこにも存在しなくて、便宜的にでも何でもいいからその時々や場所で呼ばれた名前こそが真の名前だとする考え方だね。これはもう一人の登場人物の名前を取って、ヘルモネゲス説と呼ばれている」

「クラテュロスにヘルモネゲス」

 わたしはゆっくりとその名前を繰り返した。「プラトンはどっちが正しいって言っているの?」

「残念ながら、結論は出ていないんだ」と彼は言った。「プラトンのイデア論からすれば、クラテュロス説が正しいようにも思えるけど、『クラテュロス』の中では、クラテュロスもヘルモネゲスのどちらも間違いを指摘されているからね。後世の人たちが結論を出そうとしたけど、いまだに明確にはなっていない。だからプラトン自身の立場についてはよくわからないんだ」

「謎かけですね。まるで」

「こんな話はつまらないかい?」

「そんなことはないです。面白い話だなって思います。こんなこと、考えたこともなかったし」とわたしは首を振った。「でもそんなことを考えながら生きていたなんて、プラトンは自分の名前が好きじゃなかったんでしょうね」

 彼は小さく笑った。「君は自分の名前が好き?」

「まあ、そうですね」とわたしは言った。「普通の人よりは愛着があると思います。あだ名で呼ばれるよりは本名で呼ばれるほうが好きだし」

「なるほど」と彼はゆっくりと言った。「確か、プラトンというのもあだ名なんだよ。肩幅のある男とか、そういった意味だったと思う」

「全く哲学者らしくないあだ名ですね」

「確かに。その意味では、あまり気に入っていなかったのかもしれないね」

 彼自身はどうなのだろうかと思ったが、尋ね方がわからなくて訊くことが出来なかった。だいたいわたしは彼に呼びかけることだって出来なかった。名前を呼べないだけで、出来る話はずいぶんと少なくなるものだなと思った。

「ミキって呼んでいいですか?」わたしは思い切って言った。

「いいよ」と、彼は大切な贈り物の包み紙を開くように、穏やかな口調でそう言った。

「ありがとう、あたしも咲子でいいです」

「わかった」と彼は言って、それからもう一度バックミラーを見た。わたしもそれにつられて後部座席を振り返った。

 眠っているようにまぶたを閉じていた七瀬が、いつの間にか目を開けていた。

 七瀬の唇が動き、「よろしく、サキコ」と言った。

 わたしもよろしくと言おうとした。けれど、ミキが上げた声にその言葉を飲み込んだ。

「へえ、これは凄いね」と彼は驚いたように言った。「七瀬もサキコって呼ぶみたいだ」

 わたしはその意味が理解できず、ミキを見ながら「どういうことですか?」と言った。

「七瀬がきちんと名前を呼ぶなんて、初めてだよ」

「普段は違うんですか?」

「七瀬は人の名前を、そのまま呼ぶことが出来ないんだ。たとえば木村という人と会ったって、そうは呼べない。彼女の中に木村という名前は存在しない。彼女がつける名前だけがあるんだ」

「人名だけなんですか? 他の地名や、モノの名前もそんなふうに呼べないの?」

「人の名前だけだよ。ただの名詞なら全く大丈夫だし、人名と同じ名前のモノは大丈夫でも、人名だけ覚えられないんだ。突撃銃をカラシニコフとは言えても、設計者に会ったら、きっとそうは呼べないだろうね」

 それはきっと不便でしょうねとわたしが言うと、ミキは少し沈黙した。

「そうだろうか」と、彼はややあって口を開いた。「七瀬が呼ぶ名前のほうが、僕にとっては本当の名前のような気がするんだ」

 わたしはその意味をはかりかねてミキを見つめた。多分プラトンの話の中に、彼の真意があるのだろう。それをわたしは彼の表情から読み取ろうとしたが、彼は相変わらず、まっすぐ前を見つめたまま時々ハンドルを小刻みに動かしたり、アクセルを踏んだり緩めたりしていた。

「ミキって名前は、そんなに悪くないと思いますよ」

「ありがとう」と彼は言った。

「ところで、どこに向かっているんですか?」とわたしはミキに聞いた。

「あそこだよ。ほら見えるだろ」

 彼は、川べり張り付いた、大きな背の低い工場のような建物を示した。

「あれ、浄水場ですよね?」

「そう、今は墓地になっている」と彼は答えた。

 車は浄水場に近づくと、堤防の上の道を離れて四車線の県道に出た。県道は戦車が何台も何回も通ったらしく、何条もの砕けたアスファルトがどこまでも続いていた。ジープに似た軽自動車はその瓦礫の帯をよけて走ったが、それでもときどき瓦礫を踏んでがたがたと揺れた。

 わたしたちの乗った車は、正門から浄水場に入った。浄水場の中は緑地公園になっていて、芝生の敷き詰められた広場や、築山や、植樹帯や花壇が広がっていた。でも車窓からそれらを見たとき、わたしはかすかな違和感を感じた。なにかが尋常じゃないのだ。

 その理由はすぐにわかった。芝生のあちこちに不自然に掘り返された跡があって、よく見るとその跡は植樹帯の中にも、花壇にも、道路わきのちょっとした土の地面にもあった。ほとんど無数といってもいい。いくつかには杭のようなものが打たれ、酒や枯れた花が供えられているものもあった。確かにここは墓地だった。それも今までに見た事がないくらい、たくさんの人を埋めている墓地なのだ。

 やがて車は比較的掘り返された跡の少ない広場の前で停まった。ミキは黙って車を降りると、七瀬が降りるのに手を貸してやり、それからリアゲートを開いてスコップを取り出した。

「あそこにしよう」

 ミキが広場の真ん中にある小さな築山を指差して言った。

「ええ」と七瀬が頷いた。

「いつから墓地になっているの?」

 わたしは歩き出したミキに尋ねた。

「さあ? いつからだろう。多分革命軍が来たときからじゃないかな」

「ここにはどんな人が埋められているの?」

「みんなこの町で死んだ人だよ。革命軍や自衛隊の兵士、運転手や技士や看護士、それに逃げ遅れて戦闘に巻き込まれた住民。この町で死んだら老人も子供も女も男もみんなここに来るんだ。そこ、踏まないほうがいいよ」

 ミキはそう言って、わたしの足元を指差した。気付かなかったが、かすかに足元の芝の色が違った。

「気をつけたほうがいいよ、最初の頃の墓はちょっと分かりにくいけど、無用心に乗ったら落ちてしまう。たいていは火葬なんてされていなくてそのままだから、中はだいぶ腐って空洞になっているはずだよ」

 わたしは慌てて足をどけた。

 そのあとわたしは気をつけて歩いたせいで、二人からかなり遅れてしまった。彼らはすっかり慣れた様子で、巧みにお墓を避けて歩いていた。ミキは大股でお墓を跨ぎ、七瀬は大きなお腹にマルチーズを抱いているとは思えないほど、軽やかな足取りでお墓を避けて歩いていた。

 やがて二人は築山の前で立ち止まった。広場がすっかりお墓だらけだったのに、築山はまだあまり使われていないらしく、芝生と雑草が茂っていた。七瀬がその中腹まで歩いていって、二度ほど足元の感触を確かめるようにとんとんと跳ねて場所を決め、パーカーを脱いだミキがそこにスコップで穴を掘った。まず表面の芝生を一メートル四方ほど丁寧に掘り出して脇へ置き、あとはひたすらに力強く掘り続けた。そのために、あっという間に穴はどんどんと深くなっていった。Tシャツ一枚になったミキの体には意外に筋肉がついていて、ひょっとしたら彼もまた兵士だったんじゃないかとわたしは思った。

 やがて穴がミキの腰くらいまで深くなると、七瀬がもういいわと声をかけた。ミキが底をスコップで整えて穴から上がり、七瀬がマルチーズの遺骸を置いた。それから彼女は穴のふちに膝を着いて、無言で手を合わせて目を閉じた。

 それは不思議な光景だった。七瀬がそうやって祈ると、彼女の頭上を中心にして、悲しみの天蓋のようなものが築山を包みこんでいるように見えた。ミキもまた、その悲しみの空間の中でサングラスを取って黙祷していた。

 彼はミケランジェロの彫刻のように力強い肉体を、身じろぎ一つせずに静かに祈りに捧げていた。その姿は悲しみに耽っているというよりは、まるで何かから彼女を護ろうとする従者のようだった。きっと彼の些細なしぐさや、筋肉質の体がそう思わせるんだろう。

 美術の教科書で見た十字架から下ろされるキリストの有名な絵にこんな構図があったような気がして、わたしはそれを思い出そうと記憶を探りながら彼らを眺めていた。

 やがて七瀬が祈りを終えると、ミキがマルチーズに土を被せ、最後に芝生で覆った。それでマルチーズのお葬式は終わった。

 それからわたしたちは車で浄水場の管理棟の傍まで移動し、七瀬とミキは正面玄関の前にある池で汚れた手とスコップを洗った。

 何もしていないわたしは別にどこも汚れていなかったので、管理棟の脇をぶらぶらとしたり、ガラス張りの正面玄関の中を窺ったりしていた。管理棟の一階は浄水場の見学者のためのちょっとしたホールになっていた。それを覗きこんでいるうちに、壁に何かが張り付けられているのに気付いた。最初、わたしはそれをポスターかビラか何かだと思ったが、それにしては壁一面に隙間無くびっしりとそれは貼られていた。わたしはじっと目を凝らしたけれど、ホールは薄暗く、なにか小さな張り紙のようなものだとしかわからなかった。

 ミキならここの事に詳しそうだし何か知っているかもしれないと思ったが、彼らはわたしに背を向けて洗い物に集中していた。二人がまったく振り返る気配もなくスコップやブーツを洗っていたので、それを邪魔するのはなんだか悪い気がして、仕方なく自分でその正体を確かめようと思って建物の入り口を探した。

 ガラス製の自動ドアは動かなかったが、試しにその脇に通用口のような小さなドアがあったので押してみると、鍵は掛かっておらず、すんなりとドアは開いた。建物の中に入ると、空気はひんやりとしていて黴か埃の臭いがした。わたしは天井の採光窓から差し込むかすかな光を頼りに、壁に近づいた。

 そこに張られていたものが分かったとき、わたしは思わず息を呑んだ。それはモノクロで撮られた人の顔写真だった。それも、みんな死者のものだった。あるものは眠っているように目を閉じ、あるものは額から血を流し、あるものはすさまじい形相で目玉や歯を剥き出しにしていた。どれもマジックの走り書きで日付が記され、その下に名前や住所や年齢や場所や死因が書かれているものもあった。間違いなくここも墓地の一部だった。そしてここはそれぞれの墓碑かわりに作られた、言わば死者のアーカイブなのだ。埋められた人々のデスマスクをこうやって記録しているのだ。わたしは魅入られたように、それらの写真を一つ一つ見て回った。

 どのくらいそうしていただろう。ほんの何分かもしれないし、何時間かもしれない。ついにわたしは見つけてしまった。

 縦に三つ並んだ写真の前で、わたしの足は釘付けにされた。

 それは二ヶ月半ぶりに見る祖母と母と父の姿だった。三人とも服はぼろぼろで、今にも泣き出しそうなほど悲しげに顔を歪め、髪は火であぶられたようにひどく乱れていた。父のメガネはフレームが曲がった上に片方のレンズが欠けていて、そんなものをかけさせられている父を見ていると、無理やり組み合わされたジクソーパズルのようにひどく憐れに思えた。

 わたしは胸を押さえて天井を仰ぎ、それから二、三度咳き込み、俯いてため息をついた。それからわたしはホールを出た。ドアを開こうとしてうまくノブを握れなくて、よく見ると手が震えていた。

 外は相変わらずの青空だった。明るすぎる日差しに照らされて灰に翳ったアスファルトには軽自動車が停まったままで、ちょうどミキと七瀬が洗い終えたスコップを積み込もうとしていた。

「ねえ!」とわたしは声を張り上げて彼らを呼んだ。

 彼らは不思議そうに顔を上げてわたしを見た。

「ねえ!」とわたしがもう一度呼ぶと、彼らが顔を見合わせるのが見えた。ミキが七瀬にちょっと待っててというふうに合図をして、わたしに向かって歩きはじめた。

 次の瞬間、わたしは立っていられなくてその場所に膝を付いた。立ち上がろうとすると足が痙攣していた。意思とは逆に力なく曲がっていく足を見ていると、突然に胃がひっくり返るような吐き気に襲われ、わたしは胃の中のものをその場に全部吐いた。朝に食べた缶詰のみかんとカロリーメイトを吐き、胃液を吐き、緑色の汁まで吐いた。吐くものが無くなると、空気までも吐こうとして咳き込み続けた。腹筋が無理に収縮し、そのせいで胃がひどく痛んだ。

 やがて広がった吐瀉物に二つの影が重なった。そのうちの一つがしゃがみこみ、わたしをそっと抱きしめた。長い黒髪が視界いっぱいに広がり、暖かな感触がわたしを包み込んだ。そのとき、はじめてわたしの両目から涙が溢れた。涙はとめどなく溢れ、わたしの頬や唇や首筋を流れ、七瀬の肩を濡らした。それでもわたしは何かを吐こうとして咳き込み続けた。わたしは七瀬に体を預けながら、咳き込み、そして泣き続けた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る