第5話

 誰も居なくなった町で、それからもわたしは一人の生活を続けた。日の出とともに目を覚まし、朝食を食べて近所の散歩をした。

 町には相変わらず誰一人いなかったけれど、日が経つにつれ、多くの動物が戻ってきていた。切れた電線が柳の枝のように垂れ下がった電柱にはカラスたちが止まって甲高い鳴き声を上げ、猫たちは大通りの真ん中で集会を開いていた。野良犬が歩道で昼寝をし、わたしが近づいても彼らは恐れずに眠り続けた。

 あるときコンビニの前で缶詰を食べていると、薄汚れて片足を引いたマルチーズが尻尾を振って懐いてきた。いかにも空腹そうな顔をしていたので、コンビニに残っていたドッグフードの缶詰を開いてやったが、そのマルチーズは律儀にちょこんと座りなおしただけでなかなか口をつけようとしなかった。多分、飼い主に捨てられる前にはとてもよく躾けられていたんだろう。よしと声をかけてあげたあとで咳き込むように勢いよくドッグフードを食べはじめたマルチーズに、わたしはいくつかの缶詰の蓋を開けてやり、明日もここにおいでと言い残して家に帰った。

 でも次の日その場所に行くと、マルチーズは血だらけになって死んでいた。

 あたりには昨日わたしが開けてあげたドッグフードの空き缶が散らばっていた。遠目からも、濡れた雑巾のようなマルチーズの姿に命が残っているようにはとても見えなかった。

 その脇に、一人の女がしゃがみこんでいた。朝の真っ青な空の下で、真っ白なワンピースと長い黒髪が揺れていた。

 一目でわかった。あの夜に見た女だった。こんなところで会えるとは思っていなかったから、体のどこかを掴まれたようにどきりとした。

 声をかけようとして、それでもなんと言って声をかければいいか迷いながら、わたしはそっと彼女に近づいた。その影を踏みそうなくらいまで近づいたとき、女がマルチーズの頭を撫でながら振り返った。

「ねえ。この子もうだめなの」と彼女は唐突に言った。わたしが戸惑っていると、彼女はわたしを見上げたまま、悲しげに首を振った。「ちょっと遅すぎたの。もう駄目なの。もうちょっと早ければ助けてあげられたのに」

 彼女はそう言って、そっとマルチーズの体に触れた。ところどころ血に染まったその体は、あちこちの毛がむしられたように抜け落ちて、そこかしこにピンク色の地肌が覗いていた。カラスの仕業だろうか、右目は嘴で何度も突付かれたらしく染め抜いたような真紅に彩られ、左目は眼球が抜かれたただの空洞になっていた。彼女がマルチーズの頭を抱き上げると、牙の間から飲み込んでもいないドッグフードが零れ落ちた。

「きっと、この餌が狙われたのね。カラスたちに」と彼女は言った。

「その餌はあたしがあげたんだよ」

 わたしは彼女に近づいて言った。「またあげるって言ったのに。そんな餌なんか捨てて、さっさと逃げちゃえばよかったんだ」

 わたしは彼女の脇にしゃがみこみ、同じようにマルチーズの頭を撫でた。その頭は小さく硬く冷たかった。

 ふと彼女が顔を上げ、わたしの目を覗き込んだ。大きな澄んだ瞳に見つめられたわたしは、思わずなにかを責められるような気がして微かに身構えた。

 でも彼女は小さくかぶりを振った。

「とってもお腹が減っていたのよ。だから、せっかくあなたに貰った餌を諦め切れなかったのね」

 そう言うと、再び彼女は俯いて、マルチーズの遺骸を撫でた。

 近くで見ると、彼女は思ったよりとても幼く見えた。女というよりまだ女の子だった。わたしと同じくらいか、もしかしたら少し年下かも知れない。そして、とても綺麗な女の子だった。わたしはこんな綺麗な人を、現実にもテレビやネットの中でも見た事がなかった。その磁器のように真っ白な頬には、いくつもの涙のあとがあった。

 わたしはといえば、まったく泣いていなかった。涙が出る気配もなかった。もちろん切なくはあったけれど、それほど悲しくはなかったのだ。いつも毎朝意味もなくあれほど泣いてしまうのに、泣いていいときには泣けないものだなと思った。

 やがて、彼女はまたぽろぽろと涙を流し始めた。まるで彼女の体がマルチーズの痛みや苦しみを代弁しているように、涙はいくらでも流れ続けた。わたしは、きちんと泣ける彼女が羨ましいと思った。

 ふと、わたしもちょっと頑張って泣いてみようかという気になった。今朝わたしを泣かせた悲しみの残滓のようなものを体のどこからか探してくれば、どうにか泣けそうだったからだ。

 けれど彼女を見ていると、そんな自分がとても汚らわしく、不純な存在のように思えた。静かにいくつもの大粒の涙をただひたすら流す彼女は、まるで、この世の汚らわしいものや痛ましいものと無関係な、おとぎの国の妖精のように清らかだったのだ。

「埋めてあげよう」と、わたしは気まずい思いを隠すように彼女に言った。「あたしのうちはこの近くなんだ。お父さんのスコップがあるから持って来るよ」

 けれど彼女は「ううん」と首を振った。「大丈夫よ。ミキが車とスコップを持ってきてくれるから」

「ミキ?」とわたしは言ってから、きっとそれがあの夜に見たもう一人の男だろうと思い当たった。

「埋める場所はあるの?」とわたしは尋ねた。

「ミキが知っているわ」と彼女は静かに答えた。

 わたしたちはそれきり、黙りこくったまま男を待った。わたしは待っている必要なんてなかったのだけれど、そこを離れなかった。

 わたしはもう一度二人が揃うのを見届けたかった。

 その間、彼女はただ静かに泣いていて、わたしは立ち上がってスプリングコートのポケットに手を突っ込んだまま、そんな彼女をじっと見ていた。

 やがて十分もすると、甲高いエンジン音が聞こえた。振り返ると、一台の背の高いジープのような軽自動車がジグザグに瓦礫を避けながらやってくるのが見えた。軽自動車はわたしたちに近づくと速度を落とし、やがて小さなブレーキ音とともに停止した。

 開いたドアから出てきたのは、やはりあの夜に見た男だった。今日も自衛隊のズボンを穿いて、グレーのフルジップのスウェットパーカーを羽織っていた。たぶん二十代の後半くらいで、遠くで見たときは分からなかったが、薄茶色のサングラスがよく似合っていた。クラスに一人はいる、勉強もスポーツもそこそこ出来る人気者、といった雰囲気の男だった。

 彼はわたしを見て少し驚いた様子だったが、特に何も言わなかった。

 わたしが小声で「ミキ?」と尋ねると、彼はサングラス越しにもわかるような、明らかな戸惑いの表情を浮かべた。わたしがそれ以上訊こうとすると、彼はすまないがちょっと待ってくれないかいうふうに軽く片手を挙げてそれを遮った。それから女の子に歩み寄り、肩に優しく手を置いて「行くよ、七瀬」と言った。そうか彼女は七瀬というのかとわたしは思った。

 七瀬は小さく頷くと、マルチーズを抱いて立ち上がった。死体から流れ出したどろりとした血が、おろしたてのように白いワンピースと彼女の腕を赤黒く染めた。思わず小声で彼女を制止しそうになったが、彼女自身は汚れる事なんて少しも気にしていないようだった。

 その血が彼女のお腹のあたりを伝い落ちたとき、そこが微かに膨らんでいる事にわたしは気がついた。ゆったりとしたワンピースと、さっきまでのしゃがんでいた姿勢のせいで気付かなかったけれど、彼女は妊娠していたのだ。わたしは男と七瀬を交互に見比べた。少し年が離れている気はするけれど、きっと彼らの子供なんだろう。純粋無垢なように見えて、しっかりやる事はやってるんだ。わたしは少しだけ、七瀬に幻滅のような感情を抱いた。

 男が後部座席のドアを開け、七瀬が車に乗り込んだ。それから彼女は窓ガラス越しに、『あなたも来る?』といった感じにわたしを見た。わたしは無言で頷いた。

「じゃあ乗って」と運転席から男が言った。

 わたしは助手席に乗り込んだ。

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