第4話
目が覚めると、嘘のように静かだった。あまりに静か過ぎて、まだ夢の中にいるのかと思ったくらいだ。けれど頭はちゃんと醒めていたし、布団にはカーテン越しの朝日がぼかし絵のような光を落としていた。
わたしはいぶかりながら身を起こし、窓の外を見た。
そこでは昨夜までの戦闘は嘘のように終わっていた。町には戦闘の名残のような火事が少し残っていたけれど、兵士たちの影も見えず、一発の銃声も聞こえなかった。どこか遠くのほうから、ときどき何かが崩れる音だけが、沈黙の中にいやに大きく響いてきた。
町はまるで、本物そっくりに作られた映画のセットのように静まり返っていた。
わたしはキッチンに立ち、いつもと同じように朝食を作りながら、ラジオを充電してスイッチを入れた。でも、ラジオからは耳障りなノイズしか聞こえてこなかった。ためしにひと通り周波数を変えてみたけれど、やっぱりそれは無駄に終わった。
それでもわたしは、戦争が終わったという確信を抱く事は出来なかった。これまでは大抵激しい戦闘の後には小競り合いのような状態がしばらく続いたから、わたしはその日もなるだけ音も立てないように、ひっそりと過ごした。
でも、一日中小競り合いどころか銃声ひとつしなかった。夜になると更に町は静まり返った。そっと町の様子を窺うと、火事もほんの数箇所を残してほとんどが消えていた。
翌日も同じような一日だった。わたしは相変わらず決めた量の食事をとり、日が暮れると寝る準備をした。
眠る前にわたしはまたカーテンの隙間を覗いた。昨日あれほど静かだと思ったのに、町は一層静けさを増しているように思えた。まるでどこからか静けさの粒子みたいなものが舞い落ちて、雪のように町中に降り積もっているかのようだった。
いつのまにかわたしは無意識のうちに、一昨日の夜に見た二人を探していた。彼らはどこにでもいるような気がした。向かいのマンションの崩れた壁の奥にも、大通りの黒焦げになった自動車のシートにも、倒れて折り重なった電柱の陰にも彼らがいるような気がして、わたしは視界のすべてをくまなく探して回った。
探しながら、いったいあたしはどうしてしまったのよとわたしは思った。たった一度見ただけなのに、こんなに彼らに執着するなんて、まるで恋をしているみたいじゃないか。ねえ咲子、いったい彼らの何にそんなに魅かれているの?
次の日の朝、朝食を食べ終わったわたしは、カーテンを大きく開き、父の部屋から持ち出した双眼鏡で町を見渡した。やっぱりどれだけ細かく見ても、戦争の影はまったく見当たらなかった。動くものといえば、双眼鏡の丸い視界を横切る、何羽かの黒点のようなカラスだけだった。
カラス?
戦争が始まってから、そういえばずっとカラスの姿なんて見ていなかった。彼らはきっと、わたしと同じようにどこかに姿を消していたのだ。そのカラスたちが戻って来ていた。
わたしは何度も双眼鏡を覗き、カラスの姿を確かめた。
間違いない、とわたしは思った。革命軍も自衛隊ももういない。 彼らは潮が引くようにどこかへ消えたんだ。
それからわたしは、ほぼ二ヶ月ぶりに外へ出た。久しぶりに直接仰ぎ見る太陽はただ眩しく、空は本当に広かった。頬に触れる空気には、かすかな煙の残香に混じって冬の匂いがした。一人で暮らし始めた日、わたしはまだ夏の制服を着ていた。わたしが引きこもっている間、季節は遥かに進んでいたのだ。
家を出るとき、玄関の鍵を掛けていこうか少し迷ったけれど、結局は開けていくことにした。
わたしはまずマンションの屋上に上った。階段で最上階まで行って、あとは非常用の梯子を上る。十二階建てのこのマンションは、高台にあることも手伝って、このあたりでは一番高い建物だった。屋上からは、水平線や地平線も見渡せる。
町の様子は以前とはすっかり変わってしまっていた。まるで癇癪を起こした巨人の子供が手当たり次第に巨大なハンマーで叩いて回ったように、ありとあらゆるものが破壊されていた。ランドマークだったビルは半ばで折れるようにして崩れ、河口を跨ぐ橋は橋脚だけを残して水に沈んでいた。家並みもある場所ではブルドーザーのようなもので一直線に押しつぶされ、ある場所では町内ごと燃え尽きて黒い大地のしみのようになっていた。わたしのマンションにも、駐車場にはクレーターのような爆弾が落ちたあとがあったし、建物にもあちこちにヒビが走り穴が空いていた。それでも周りのマンションやビルからすれば比較的ましなほうだった。被害の酷いマンションでは壁がそっくり倒れ、部屋の中がドールハウスのようにむき出しになっているものまであった。
中央公園の広場には、営舎らしき巨大な苔色の天幕がいくつも張られたままになっていた。そこでは支柱から外れかけた何枚もの布が風に煽られて、足を括られた鳥の群れが必死に空に羽ばたこうとしているように見えた。でもそれを見ても、戦争が終わったという感慨も、喜びもわたしには沸いてこなかった。感じていたのはただ寂しさだった。兵士たちはわたしからこの町を奪い取った。そして、わたしに返すわけでもなく、飽きた子供がおもちゃを捨てるように、この町をぼろぼろにして去ってしまった。
それじゃあわたしはどうするべきなんだろうか。兵士たちと同じように、この町を去るべきだろうか。兵士たちがどこかへ行ってしまった以上、この町を出ることは可能だろう。それとも、この町に残り続けるのが正しいのだろうか。両親や友人たちもいずれこの町に戻ってくるかもしれない。でも戻ってくるのは兵士たちかもしれないのだ。
多分、この町を出たほうがいいのだろう。そして、まだ戦争に巻き込まれていない場所に逃げるのが一番賢いはずだ。けれどわたしにはまだそれを決めることが出来なかった。
気が付くと、わたしは三日前の夜に見た男女のことを考えていた。彼らは今もこの町のどこかにいるのだろうか。彼らも戦争を生き延びて、わたしと同じような思いでこの景色を眺めているのだろうか。
ふと発作的に、飛んでしまいたいと思った。ここから飛び降りてしまうことが、一番正しい選択に思えた。それに、今なら飛べる気がした。憂鬱からではなく、それは欲求としてわたしの中に湧き上がった。わたしは乾いた人が水を求めるように、ただ死にたいと思った。
でも結局、わたしは梯子と階段を使って屋上を降りた。沸きあがった欲求は、すぐに霧のようにどこかへ消えてしまった。多分、ひとときの衝動的な厭世感がそんな欲求を覚えさせたのだろう。そんな事がわたしにはときどきあるんだ。たぶん、ときどきでよければ誰にだってあるはずだ。
わたしは家には戻らず、そのまま外を散歩することにした。
道は酷い有様で、砕けたアスファルトや、捲れ上がった歩道のブロックの尖った角が、スニーカーの薄い靴底を通してわたしの足に刺さった。そのせいで酷く歩きづらく、近所のコンビニにたどり着くだけでわたしはずいぶんと疲れてしまった。
この町を去るにしても残るにしても、わたしにはさし当たって必要なものがいくつもあった。たとえば食料。何しろ家には一食分の食料も残ってはいないのだ。もともと常に食事はかなり少なかった上に、こうやって歩いているだけでも、どんどんと空腹は酷くなっていった。まずは、生きていくために必要なものを確保するのが、飛ばなかったわたしのしなければいけないことだった。
コンビニの店内は思ったとおり荒れていた。ドアは強引にこじ開けられ、棚の食品や、清涼飲料水のほとんどは持ち去られていた。床にはスナック菓子の食べ残しやごみが散乱し、融けた冷凍食品や腐った弁当が耐え難い臭いを放っていた。壁には銃弾の痕まであった。
でも、思っていたよりずっとましだった。死体も転がっていなければ、事務室に兵士が潜んでいる事もなかった。それに丁寧に探せば、ジュースや缶詰や新品の電池が何パックか残っていたし、破壊されたロッカーの中から懐中電灯を手に入れることも出来た。一軒目にしてはまずまずの成果だった。
わたしはコンビニの駐車場に座り込み、手に入れたばかりのオレンジジュースを飲み、フルーツの缶詰を食べた。久しぶりに口にする単純な砂糖以外の甘みだった。これが人間らしい食事なんだと、大げさでなくわたしは思った。部屋に隠れていたときは忘れていた生きている喜びのようなものが、体中に戻ってくるのを感じた。
食事を食べ終わったあとも、わたしはしばらく駐車場に座ったままでいた。静止しているようにゆっくりと流れる雲を見上げながら、わたしはもう一度、これからどうするべきかを考えてみた。
でも考えてみれば、わたしにはするべき事なんて大げさなものは何もなかった。したいことをすればいいやと思った。正しい選択なんてものを無理に選ぶ必要なんてわたしにはないんだ。わたしは一人だったし、持ち合わせているのは命くらいしかない。その命だって、別に大して惜しくもない。
残っていよう。わたしは思った。この町はすっかり変わってしまったけれど、わたしはまだ変わっていない。せっかく今まで残っていられたんだ。食料が続く限り、生きていける限り、ずっとこの町に残っていようとわたしは決めた。
それからわたしは、町中から必要なものを集めて回った。移動にはコンビニの前に停めてあった自転車を使った。鍵は掛かっていたけど、コンビニにあった道具箱のペンチやバールを使えば、そんなものはたやすく壊すことが出来た。
もちろん自転車の鍵を壊すなんて初めての経験だった。自転車を盗む事だって初めてなんだ。わたしは生まれてからこれまでの十六年間、本当に真面目ないい子で生きてきたのだ。けれどそれは多分、嘘や幻想の類だったのだろう。盗んだ自転車に乗って、スーパーの倉庫から両手に余るくらいの食料を持ち出しながら、わたしは心が浮かれ騒ぐのを感じていたんだ。
荒れ果てた道でも、自転車はしっかりと活躍してくれた。自転車の前かごと荷台はすぐにいっぱいになって、わたしは何回もマンションとスーパーを往復した。スーパーの倉庫に飽きると、ホームセンターに行って新しい毛布とカセットコンロのボンベを手に入れた。服屋にも行ったし、ドラッグストアから化粧品まで持って帰った。そうやって数ヶ月は快適に生きていけるだけの食料や生活用品を手に入れると、わたしはマンションに帰って溜まった不用品をかき集め、駐車場で手に入れたばかりのライターのオイルをかけて焼いた。家はビスケットの空き箱やら、ミネラルウォーターのペットボトルやら、汚れた下着やシーツやら、生理用品やら、その他自分でもなんに使ったのかよくわからない品物の残骸で溢れかえっていたのだ。
炎は勢いよく燃え上がり、わたしが放り込むゴミを次々と灰にしていった。ほとんどのゴミを燃やし尽くすと、わたしはかつて必要としていた多くのものも一緒に焼いた。例えば、捨てられなくて取っておいた雑誌やプリクラ帳や中学までの卒業アルバム。雑誌はファンだったロックバンドが表紙を飾っていたし、プリクラには昔付き合っていた彼氏が写っていた。けれど、今のわたしはそんなものはもう必要なかった。どれもこれもくだらないガラクタに思えた。
炎の中でそれらはゴミと同じように燃え、ときどき大きな音を立ててはぜながら、雲ひとつない空に刷毛で墨を引いたようにまっすぐな煙を立ち上らせていた。
すべてのものが燃え尽きて黒々とした小さなひとかたまりの燃え滓になってしまう頃には、もうすっかり日は傾いていた。
ずっと炎を見ていたわたしの服や髪には酷い臭いが染み付いていて、頬は炙られたような熱を帯びていた。わたしは家に帰ると、ミネラルウォーターを三台のカセットコンロで沸かし、体を洗って新しい下着と服を身に着けた。それからわたしは缶詰のみかんとレトルトのカレーライスを夕食にし、きちんと歯を磨いて眠りについた。わたしには何の不安もなかった。家にはどの部屋にもうず高く積み上げた食料や水があったし、戦争ももう終わったのだ。一体、何を不安に思う必要があるんだろう?
でもなぜか、わたしは翌朝も泣いていた。わたしには相変わらずその理由は分からなかった。わたしはそれを習慣みたいなものだと思おうとした。きっと毎朝涙を流していたせいで、体が朝になると勝手に涙を流してしまうんだ、と。
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