第3話

 どんな嵐にもいつか凪が訪れるように、どんなに酷く暑い夏にも秋は訪れるように、戦争にも強弱があった。

 戦局の変化とでも言うのだろうか。いつの間にか、戦車やヘリコプターが通ることはなくなり、少人数の部隊での小競り合いばかりが多くなった。彼らはもっぱら小銃と手榴弾を武器に殺し合い、お互い何人かが倒れると、仲間の死体や怪我人を担いで引き上げていった。

 わたしは相変わらず家から一歩も出ることなく、食べて眠るだけの一日を過ごし、毎朝涙を流しながら目を覚ました。水道は血を混ぜたような赤色に濁り、買い置きの食料はもうずいぶん少なくなっていた。

 かといって、これ以上食事を少なくすることも出来なかった。無理に減らすと、吐き気を催すほどの空腹に襲われる。けれど吐くものなんてないのだ。すでに体力もずいぶんと落ちていた。足に力が入らず、急に立つと眩暈がした。指には骨が浮き始め、あばら骨の感触は日に日にはっきりと感じられるようになった。

 こんなことで、とわたしは思った。こんなことで咄嗟に首なんて吊れるのだろうかと、わたしは憂鬱な気持ちで埃を被ったベルトを見上げた。

 わたしは残りの食料を床に並べ、一食ごとに必要な量に小分けして数を数えた。五日と一食。それがこの生活の限界だった。

 しょうがない。最後の一食を食べてしまったら、潔く首を吊ろうとわたしは決めた。たとえ潔く首を吊れなくても、絶望的な空腹に耐えるくらいなら、きっとわたしは死を選ぶだろう。

 その日の夜から、ちょうどわたしの決意に合わせるようにして、外の戦闘も再び激しさを増した。戦車を見ることこそ滅多になかったが、ミサイルや爆弾の爆発音がひっきりなしに響き、航空機のジェットエンジンが上げる金切り声が窓を振るわせた。

 真夜中に外を眺めると、いくつもの曳光弾が流星を巻き戻したように空に昇っていった。無数に上がる火の手に照らされて、町はまるで夕焼けに染まっているように見えた。

 この分じゃ、食事がなくなる前に首を吊ったほうがいいかなと考えながら、わたしはマンションの駐車場に視線を落とした。

 そこに、人影があった。

 戦場に人がいるのは、別に珍しいことじゃない。兵士たちは敵からは身を隠すけれど、それ以外では驚くほど無用心だからだ。でも、その人影は兵士じゃなかった。

 よく見ると、それは一組の男女だった。彼らはマンションに背を向けるように駐車場に立って、あちこちで起こる爆発の照り返しを受けながら、戦場の夜空を眺めていた。

 男は一応、自衛隊の兵士たちが穿いているような緑の迷彩柄のズボンを身につけていた。けれど、上半身はただの黒いゆったりとしたパーカーを羽織っていて、足元も軍靴のブーツではなくただのスニーカーだった。女は柄まではわからなかったけれど茶色かベージュのロングのワンピースを着ていて、腰くらいまである長い髪を風にそよがせていた。

 まだ兵士以外の人間がこの町で生き延びているのは驚きだった。でも、彼らが何のためにわざわざ外に出ているのかが、わたしにはさっぱりわからなかった。外はのんびり戦争を見物できる状態じゃない。生き延びたかったら、わたしのように部屋に篭っていたほうがいいに決まっている。とても正気とは思えない。

 わたしは彼らに叫んでやりたかった。危ないからすぐに逃げろと言ってやりたかった。

 わたしは彼らの様子をもっと詳しく見ようとして、カーテンの隙間に顔を突っ込んだ。もし見つかったら、どうなるか知っているの? わたしは無性にもどかしく思い、そのせいで腹立ちまで覚えていた。

 でも現実には、わたしには何も出来なかった。彼らに声を掛けて、もし自分が見つかってしまったことのことを考えると、わたしは彼らをただ見ていることしか出来なかった。

 一方彼らは、そんなわたしの危惧などとはまるで無縁の世界で生きているみたいに、とてもリラックスしているように見えた。爆弾や砲弾は二人の近くにも容赦なく落ちて、女の長い髪は何度も爆風に煽られたけれど、彼女はさほど気にした様子もなく、そのたびにまるで春風にでも吹かれているようなしぐさで、そっと乱れを直すだけだった。

 ちょうどそのとき、わたしの中に何かの感情が湧き上がった。それはとても熱く、それでいて切なくて、胸が締め付けられるようだった。さっきまでのもどかしさや腹立ちとは違った。それは今までわたしが抱いた事のない感情だった。

 でもわたしは、なぜ自分がそんな感情を抱いているのか分からなかった。その感情に名前をつける事も出来なかった。それが二人に対して抱いた感情なのか、それとも、わたしの心の奥底で自然に生まれた感情なのかさえも分からなかった。わたしは戸惑い、そのせいでひどく混乱した。

 そのとき、女が振り返った。顔を上げ、まっすぐな糸を張ったような視線をわたしに向けた。彼女は間違いなく、このマンションの四階のこの部屋のこの窓越しに、わたしを見ていた。

 わたしは慌ててカーテンの裏側に隠れた。心臓が高鳴っているのがわかった。でも見つかったから慌てたんじゃない。もっと違う何かがわたしを焦らせたのだ。

 わたしはそのままベッドに潜り込み、頭から布団を被って目を閉じた。彼らのことをこれ以上見ていることが出来なかった。布団の中で、わたしは自分の心臓が鼓動を刻む音を聞いていた。いつもなら激しい戦闘の夜は、どれだけ布団を被っても体中を揺さぶられているような振動と音がわたしを苛むのに、そんなものはちっとも気にならなかった。それ以上に、自分の息遣いや、頬の火照りや、心臓の高鳴りばかり気になった。

 夜中になっても眠れずに、少し落ち着きを取り戻したわたしは、何度もそっと外の様子を窺った。何度見ても、彼らはずっとそこにいた。まるでそこが彼らのための場所のように、瓦礫に腰掛け、砲弾の爆発を見つめながら、彼らはそこに居続けた。わたしは彼らの様子をずっと見ていたかった。けれど彼らを見ていると、わたしの中に生まれた不可思議な感情は、どんどんと大きくなっていった。

 それに、彼らに見ている事を再び知られるのが怖かった。別に、彼らが兵士たちのように、わたしを陵辱する事を恐れたんじゃない。彼らにもう一度見つかったとき、この感情が耐え難いほど大きくなってしまうことが怖かったのだ。それが分かっていたから、わたしは彼らの様子を、ほんの少し盗み見る事しかできなかった。

 深夜に傷ついた戦車の一隊が、大型の機械工場のような無数の金属音を立てて、マンションの前を通っていった。わたしは布団の中にじっと身を潜めて、それらが通り過ぎるのを待った。やがてそれらが遠くに消えてしまったあと、そこにはもう二人の姿はなくなっていた。わたしはどこかほっとしながら、それでいて、とても残念に思った。

 わたしは彼らが兵士たちに見つかり、連れ去られてしまったとは思わなかった。彼らは日の出や日没のように、あたりまえにそのときが来たから去ってしまったに違いなかった。わたしはため息をつきながら布団に戻り、そしてすぐに眠りについた。高校の体育祭の夜みたいに、わたしの全身に疲労と緊張が蓄積していた。そのまま夢も見ず、わたしは朝まで眠り続けた。

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