第10話

 わたしたちはたいてい二、三日に一度町や工場や畑に出かけたが、そこに七瀬が加わるかどうかは、まったく彼女の気まぐれに委ねられていた。出かける直前にミキが七瀬に一緒に来るかどうかを尋ね、それに彼女が頷くかどうかが全てだった。ミキは七瀬を宝物のように大事にしていて、一人で灯台に置き去りになんてしたくはなさそうだったが、それでも彼は最終的には彼女の意思を尊重していた。

 七瀬は出かける準備にまったく時間というものを必要としないタイプの人間で、服も着替えなければ荷物も持たず日焼け止めを塗る必要もなかったから、彼女の意思さえあればそれで十分だった。

 七瀬は町に着いたあとも、わたしと出会ったときのように一人で散歩に出かけたりすることが多くあったが、それもミキは彼女の好きにさせていた。わたしに言ったとおり、彼らはそのせいで起こる危険も全て受け入れていたのだ。

 そうやって彼らと何度も出かけていくうちに、わたしは町に妙な違和感を感じることが多くなった。始めはほとんど気付かないほどだったが、日が経つにつれてそれははっきりと姿を現すようになった。

 スーパーの倉庫から前に来たときはあったはずの食料がなくなっていたり、いつの間にか無傷だったはずの民家の扉が壊されていたりするのだ。

 それは明らかに、わたしたち以外の人間がこの町で暮らしている証拠だった。わたしはそのことを七瀬に話した。そしてなるだけ一人にはならないほうがいいんじゃないかと言うと、彼女は春先の草原のような微笑を浮かべた。

「心配してくれてありがとう。でも、心配ないわ」

 そのときわたしたちは、ちょうど町や工場を回って帰ってきたところで、最上階の部屋でくつろいでいるところだった。ミキは倉庫で手に入れた重油を備え付けたドラム缶に移し替える作業をしていたから、部屋にはわたしたちしかいなかった。わたしはミキの影響で興味を持ち始めたギリシア哲学の入門書を読んでいて、七瀬はただ眺めているんじゃないかというくらいゆっくりとしたスピードで、リンドグレーンの『長くつ下のピッピ』のページをめくっていた。

わたしは、ぱたんと本を閉じると七瀬に向き直った。

「ねえ、七瀬。いくら危険が怖くなくたって、ちょっとくらい用心してもいいんじゃない?」

「そうじゃないの」と彼女は小さく首を振った。「あの人たちは、危険なんかじゃないの」

「あの人、たち?」とわたしは、その言葉が引っかかって聞き返した。「なんでそんなことが分かるの?」

「だって何度も会ってるもの」と彼女は当たり前のように言った。

 詳しく聞いてみると、七瀬の知る限り、町にはすでに三十人くらいの人間が住み着いているようだった。わたしはその数に驚いた。そんなにも多くの人間が、あの町に残っていたんだろうか。

 でも、そうじゃないと七瀬は言った。彼らはもともとはこの町の住人ではなかったのだ。政府の避難所や疎開先を離れてこの町に流れ着いた人間で、一ヶ月ほど前からどこかで共同生活を送っているのだと七瀬は言った。そして自分は彼らの集まりにしばしばゲストのように招かれているのだと言った。

 確かに話を聞く限りでは、あまり危険はなさそうだった。けれど多くの集団生活者がそうであるように、ある種の危険の種を含んでいないとは限らなかった。

「もしかして、その人たちに会うために町に行っていたの?」とわたしは尋ねた。

「そうね」と彼女は答えた。

「なんでわざわざそんなことするの?」

「だって放っておけないもの」

「どうして?」

「すごく急いでいるときに」と七瀬は『長くつ下のピッピ』を閉じると、宙を見上げた。表紙には世界一つよい女の子というフレーズとともに、ハイソックスを穿いた小さな女の子が、猿とトランクを手に不敵な笑顔を浮かべて仁王立ちしていた。

「道端で泣いている迷子の子供を見つけてしまったとして、サキコは放っておける?」

 よくわからない例えだったが、わたしは放っておけると思った。けれど、口に出してしまうと自分の欠陥をさらけ出してしまうようで、かわりにわたしはピッピの姿を見ながら、「でも、子供じゃないんでしょ?」と言った。

「同じようなものよ」と七瀬は言った。

 わたしはため息をついた。

「ねえ七瀬、どうしてそんな大事なことを教えてくれなかったの?」

 しかしわたしの言葉に、彼女は不思議そうに小首を傾げた。

「だって訊かれなかったもの。それに、そんな大事なことかしら」

 当たり前じゃないか、とわたしは思った。

 しかし、いざそれを言葉にしようとして、わたしは躊躇った。なんのためにわたしはそれを大事だと思うのだろう。死を受け入れているはずのわたしにとって、たとえ誰が町に住み着いてもさほど重要ではないはずだった。そしてミキや七瀬にとっても、それはわたしが心配する必要のないことのはずなんだ。

 でも本当に、彼らはそう思っているのだろうか。わたしが何度も受け入れているはずの死に二の足を踏んだように、彼らもまた、特にミキは心の中では、七瀬の危険をただあるがままに受け入れるなんてことは出来ていないんじゃないだろうか。

「そのことをミキは知っているの?」と、わたしは念のため尋ねてみた。

「知らないわ。だって彼も訊かなかったから」

 彼女はまたそれも、当たり前のように言った。

 階下からは、ミキがドラム缶を動かしているのだろう。金属がコンクリートにぶつかって、銅鑼のような音が響いていた。

 七瀬の顔を見ながらその音を聞いていたわたしは、ふと、ミキがとても憐れな存在に思えた。七瀬がわたしに話してくれないのは別にいい。それほどわたしと七瀬は親密じゃないということなんだから。でも、ミキはそうじゃない。彼は七瀬のためにどんな努力も労力も惜しまず全てを捧げ尽くしているのに、肝心の彼女は羽のようにふわふわと飛び回って、彼の知らないところで秘密を作っているんだ。

 わたしは七瀬を部屋に残して、階段を使って灯台を降りた。

 倉庫を覗いてみると、ミキはわたしに背を向けて、空になった赤い重油の缶を再び軽自動車の荷台に積み込んでいるところだった。わたしはわざと足音を立ててミキに歩み寄ったが、彼はわたしのことなど振り返りもせずに黙々と作業を続けていた。

 その大きな背中が、今日はひどく憎らしく思えた。

 わたしは彼のすぐ傍まで近づいて、「ねえ」と声をかけた。

「なに?」と、ミキはようやくわたしを振り返って言った。

「ねえ、知ってた?」

 わたしは彼の顔を覗き込むようにしてそう言った。

「だから何を?」

 彼は軍手を外しながら、きょとんとした顔で尋ねた。わたしはさっき七瀬が話したことを、ミキに伝えた。

 ミキは感情の読み取れないほどの、ほとんど無表情でそれを聞いていて、わたしが話し終えたあともそのままの顔でいた。わたしは彼が多少なりとも憤慨したり悲しんだり、あるいは失望したりするんじゃないかと思っていたのに、少なくとも表情からそんな気配は窺えなかった。

 わたしはミキのそんな様子に微かに戸惑いながら、「ねえ、どう思う?」と彼に言った。

「一体、何が?」と彼は言った。

「七瀬のことよ」とわたしは言った。「七瀬はなんでわたしたちに話してくれなかったと思う? わたしたちのことなんてどうでもいいって思ってるのかな?」

「そうじゃないよ」と彼は言って、手元の軍手に視線を落とした。それからもう一度「いや、そうじゃないよ」と繰り返した。

「どうしてそう思うの?」

「七瀬がしたことだからだよ。七瀬がそうしたんなら、きっとそれは正しいことなんだ」

 わたしはしばらく沈黙して、さっきまで読んでいたプラトンのことを思い出していた。

 プラトンは云う。この世のものはすべて不完全であり、イデアと呼ばれる永遠に変わらない真実の影のようなものであると。わたしたちはまるで洞窟に縛り付けられた囚人のようなもので、イデアを見ることも出来ないし、かつて自由の身でイデアを見ていたことすら忘れている。だからわたしたちは、何が正しいかも分からず、間違いを犯すのだ。しかし、優れた魂はその束縛から抜け出し、イデアを思い出すことによって正しさとは何かがわかるのだ、と。

 ミキはまるで、七瀬をそのような存在だと言っているのだ。

 わたしは、慎重に言葉を選びながら口を開いた。

「でも、ミキは七瀬が知らない人と会っていて、心配じゃないの?」

「まったく心配じゃないといえば、嘘になるかもしれない」と彼もまた、慎重に言葉を選びながら答えた。

「じゃあ会いに行こうよ、その人たちに。七瀬がどんな人と会ってるか、ミキも少しは興味あるでしょ?」

 彼はすぐ返事をしなかった。彼は目を伏せながら沈黙し、そのかわり脱いだ軍手を裏返したり元に戻したりということを何度も繰り返していた。

 わたしはそんな彼に、「大丈夫だよ。七瀬だって危険はないって言ってるし、きっと行っても大丈夫だよ」と続けた。

 ミキは軍手を玩ぶのを止め、ゆっくりと顔を動かしてわたしを見た。まるで何十年も油を差していなかった機械人形が、久々に歯車を回しているみたいにぎこちない動きだった。

「いいや」とミキは首を振った。「やっぱりそういうことは僕は出来ないよ。僕にそんな権利はない。僕に出来るのは、彼女をただ見守っていることだけなんだ」

 結局ミキはわたしがどれだけ誘っても、七瀬と一緒に行こうとはしなかった。

 その二日後にわたしたちは再び町に出かけることになって、ミキは七瀬に一緒に来るかどうかを尋ねた。

「行くわ」と七瀬はすぐに答えた。

 立ち上がる七瀬に手を貸してやるミキの姿を見ながら、「ちょっと待って」とわたしは二人に声をかけた。

 ミキの動きが止まり、七瀬が不思議そうにわたしを見た。

「どうしたの、サキコ?」

「七瀬、今日も誰かに会うつもりね」とわたしは尋ねた。

「そうよ」と七瀬は言った。

「じゃあ、あたしも連れて行ってよ」と、わたしはわざと大声で言った。ミキが微かに顔をしかめるのが分かったが、わたしは続けた。「あたしも七瀬の友達に会ってみたいんだ」友達、という言葉もわたしはわざとそう言った。

「いいわよ」七瀬は天使のように無垢な笑顔で頷いた。「サキコも一緒にいらっしゃい」

 その日の軽自動車の中には、ひどくぎこちない雰囲気が満ちていた。ミキはサングラスをかけたまま不機嫌そうに黙りこくり、わたしはそんな彼の様子に気付かないふりをして、ぎゅっと奥歯を噛み締めながら、窓の外ばかりを見ていた。そのせいで車が瓦礫を踏んで揺れるたびに頭が痛んだ。そんな痛みまでミキのせいに思って、なんだよ畜生と、わたしは彼のことを忌々しく思った。そんなに気になるなら、一緒に来ればいいのに。なんて女々しい奴なんだ。

 窓ガラスに映るミキの横顔はふてくされた少年みたいで、ふとわたしは、七瀬のお腹の子供はやっぱりミキの子供じゃないのかもしれないと思った。こんな幼い表情をしたミキに、七瀬を口説くことなんて出来そうにないと思ったのだ。

 ときどきわたしは、ミラー越しに七瀬の姿を盗み見た。彼女はわたしたちの間の気まずい思いなんて気付いていないように、いつものようにシートに深く腰掛け、膨らんだお腹に手をあてて目を閉じていた。わたしは心の中で七瀬のことも罵った。鈍感でデリカシーのない、ひどい奴だと思った。

 やがて車は町に着き、わたしたちはいつも訪れるショッピングセンターの駐車場で車を降りた。ミキはいつものように七瀬に手を貸してやり、そのときわたしと目が合ったけれど、言葉を発することもなく、ただ視線を逸らしただけだった。

「じゃあ僕はひと通り回ってくるから、四時間後にまたここで」とミキが言った。

 七瀬は無言で頷いて、わたしたちは歩き出した。

 何歩か歩いたところで振り返ると、ミキはわたしたちに背を向けて、ショッピングセンターの入り口に向かっていた。

 わたしは立ち止まって、昼下がりの太陽に照らされたミキの後姿を見つめながら、彼がもしかしたら、「ちょっと待ってよ。僕も一緒に行くことにしたよ」と言って引き返して来るんじゃないかと思って待っていたのだけれど、結局、彼はそのまま壊されたシャッターの隙間をくぐって、暗い店内へと消えていった。

 わたしはそれ見届けると、ずっと先に進んでしまった七瀬のあとを追った。

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