第9話

 それから、わたしは彼らと一緒に灯台で暮らすことになった。彼らはわたしに帰れとか、もっと遠まわしに送っていくとか、その手のことは一切言わなかったし、わたしも自分から帰ろうとはしなかったからだ。

 でもわたしは別に、ここの暮らしが気に入って居続けたわけじゃない。確かにここは清潔で食事は美味しく、およそ生活のためのものは何でも、それは例えば何本ものドラム缶に蓄えられた重油や、そのおかげで浴びることのできる暖かいシャワーのようなものまであったけれど、そんな刹那的な快適さよりもっと重要なことは、ここのすべてがただ七瀬のために用意されたもので、わたしがそれを使うときには、どうしてもそのことを強く意識してしまうということだった。

 その暮らしのために、ミキは週に一度、砲撃で崩れた工場の残骸まで重油を汲みに行っていたし、もっと多くの頻度で町まで出かけては食料や水や生活用品を調達していた。彼は七瀬に新鮮な野菜を与えるために、どこにちょうど収穫時期を迎えた畑が放置されているかを知っていて、七瀬が読むであろう本を探すために、何軒もの書店のシャッターを壊していた。七瀬が世界の一切の不浄と無縁な顔をして過ごしていられるのは、ミキがそうやって働き蜂のように甲斐甲斐しく汚れ仕事を引き受けているからだったのだ。

「本当に七瀬にベタ惚れなんだね」とあるとき、そんなミキをからかって言った事がある。

「そうじゃないよ」

 でも彼は淡々とした様子でそう答えた。

 わたしはにやにやしながら「隠さなくてもバレバレだよ」と言ったが、彼は真剣な顔で首を横に振った。そのそぶりにはクラスメイトたちが必死で恋愛関係を否定するときに見せる、照れだとか気恥ずかしさとはまるで違ったものが含まれていた。

「七瀬のこと、好きじゃないの?」とわたしは驚いて訊いた。

「好きだよ」とミキは言った。「でも、愛とはちょっと違う」

「七瀬にも愛されていないの?」

「愛されている」今度ははっきりと彼は言った。「七瀬ほど人を愛せる人を僕は知らない。アガペーと呼べる愛があるのなら、それは七瀬のことだと思う」

「アガペー?」とわたしは訊いた。

 ミキはそれには答えずに、「けれど僕はそういうのとは違うんだ」と言った。

「もちろん、僕は七瀬をとても大事に思っている。けれどそれは最終的には僕のためなんだ。結局それは利己的な感情でしかないんだ」

 あとで本棚の辞書で調べたら、『アガペー 真の愛。神の人間に対する無条件で無償の愛。自己犠牲的な愛』とあったが、それはちっとも彼らを理解する助けにはなってくれなかった。愛、ね。口に出してみると、どこか遠い国の言葉みたいに聞こえた。もちろんわたしも、彼が七瀬に抱いている感情がただのエロスじゃないことはわかっていたが、その先を理解することが出来なかったのだ。

 けれど彼がそう言っても、二人の間には隠すことの出来ない親愛に満ちた感情で結ばれた関係があった。七瀬も彼に全てをゆだね切るような信頼を寄せているのは確かだった。表向き彼らの暮らしは実に静かで、ミキが七瀬の体を求めることはおろか、二人の間には会話すらほとんどなかった。多くの事柄が視線と軽い頷きで伝えられ、たまに意見や意思にちょっとした違いがあれば、そのことについてたいていはミキが身を引いた。

 ミキのそれもまた、わたしにはまるで無償の愛に見えた。当然ながら、わたしが彼らのそんな関係に入っていける余地はなかった。

 わたしは最初の食事が終わるころにはそれに気付いていたし、そのせいで彼らと暮らすことが決してわたしにとって快適なものばかりでないことも分かっていた。しかし、それでも二人から離れることが出来なかった。それほど彼らに惹かれていたのだ。それは最初に彼らを見たときから、ずっと変わらない感情だった。そして彼らを特別な人間かもしれないと思った。彼らの特別な力がわたしを惹きつけるんだ、と。彼らのありのままに生きていこうとする姿も、その不思議な力に裏打ちされたものだと思った。戦場で死なずに済む特別な強運や、祝福のようなものを与えられた人間じゃないかとなんとなく思っていた。けれども、そうじゃない。七瀬もミキも普通の少女と青年だった。食事と睡眠と排泄を必要とし、怪我もしたし風邪にもかかる人間だった。決して特別な人間ではないのだ。

 でもそれに気づいてしまうと、今度はもっと根源的な理由でわたしは彼らから離れられなくなった。なぜ彼らに自分がここまで惹かれるのかを、わたしは知りたくなったのだ。

 だからわたしは、なるだけ彼らと同じ暮らしをしようとした。彼らと同じように起き、ミキの作ってくれた食事を食べ、七瀬のベッドで彼女と一緒に眠り、そして、彼女の肩を涙で濡らしながら目を覚ました。ミキが食料や燃料を手に入れに出かけるときは彼の運転する車の助手席に乗ったし、彼と一緒に重油を汲んで野菜の収穫を手伝った。

 そうやって暮らし始めて二週間が経つ頃には、わたしはここでの暮らし方を幾分か理解できるようになっていた。つまりは相変わらず自分は一人だと思うのだ。ただ彼らとは一緒にいるだけで、その中でわたしは一人で暮らしている。そう思えば、別に彼ら二人がいくら親密で、そこにわたしが入る隙がなくても、どうって事はなかった。

 それでもときどき、ふとした瞬間にどうしようもないほどの疎外感を感じるときがあった。それは、たとえば二人がわたしの気付かないくらいの些細なしぐさでコミュニケーションを取ったときや、三人で階段を上るとき、ミキが七瀬だけに手を貸して先へ進んだときに、わたしをどうしようもなく憂鬱にさせた。そんなときわたしは、まるで二人がわたしに分からないように秘密の暗号を使っているように感じたし、わざと除け者にしたくて手を貸さないのだと感じた。

 もちろん、そんなことがないことは分かっている。けれど、水中に黒いインクを流し込んだように心の中に憂鬱が広がるのを、わたしには止めることが出来なかった。

 わたしにもミキのような存在がいればと狂おしく思った。そうだったら、こんな惨めな思いはしなくても済むのに。けれどそんなことは無理だった。ミキはわたしが知っているほかのどんな男性とも違ったし、彼自身はほとんど七瀬の一部だったのだ。だからその憂鬱をわたしはそのたびに、自力でなんとか克服していった。その憂鬱をとても些細でつまらないものだと思おうとした。それを支えたのはささやかなプライドだった。わたしは一人であの戦場を乗り切ったのだ。一人や孤独にはもう慣れている。たとえ彼らがわたしを無視し続けたって、そんなものに負けるはずはないんだ。

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