第8話
わたしはずっと緊張していたが、七瀬は少しもそんな様子は見えなかった。物思いにふけるように視線を遠くへやったり、海鳥の鳴き声に聞き耳を立てたり、時々わたしと視線を合わせて微笑んだりした。ずっと一人で暮らしていたのに、わたしは七瀬に比べて一人で時間を過ごすことがとても下手だった。わたしがしていたのは、こっそりと七瀬の様子を観察することだけだった。ミキと一緒にいない七瀬はどこか頼りなく、精緻に作りこまれすぎた金細工のような感じがした。
わたしはミキがいてくれたらと思った。まるで言葉の通じない異国で通訳とはぐれてしまったような心細さを感じた。ミキがいれば、きっと七瀬ともきちんと会話が出来るのに。
わたしにとって彼らは、二人が揃って完成する存在だった。どちらかが欠けても、どこかいびつな感じがした。
わたしはミキの端正な顔と筋肉質の体を思い出した。彼はやはり七瀬を護るために一緒にいるんだろう。そうあるべきだと思った。
「ミキは、どこにいるの?」と思い切ってわたしは尋ねた。
「もうすぐ来るはずよ」
その言葉に合わせるように、階下の扉が開く音がした。階段を登る足音が聞こえ、ミキが顔を覗かせた。
「そろそろ目を覚ますごろだと思って、スープを作ってたんだ」
彼はわたしと目が合うと、満足げな笑顔を浮かべて言った。同時に暖かな匂いが部屋中に広がった。彼はレストランの厨房で使うような大きな銀色の鍋をぶら下げていた。
わたしは彼の勘のよさに感心しながら、そのことを彼に言った。
「まさか、僕にそんなことはわからないよ。七瀬がそう言ったんだ」と彼は首を横に振った。「三十分くらい前かな。サキコがもうすぐ目を覚ますからご飯を作ってあげてってね」
わたしは驚いて七瀬を見た。彼女はいつの間にか立ち上がり、折りたたみ式のテーブルを開いていた。ミキが黙ってその上に鍋を置いた。
七瀬はわたしの視線に気づくと、むしろ驚いていることが不思議そうな表情をした。
考えてみれば、そんなに驚くほどのことはないのかもしれない。こまめに様子を観察していれば、そろそろ起きるかどうかくらいわかったのだろう。
その間にも、二人は無言で食事の準備を進めていた。七瀬が何枚かの食器を出し、ミキは階段を往復してパンを取ってきたり、やかんのお湯を使ってお茶を淹れたりした。何か手伝いたかったが、手伝えることなんて何もなかった。彼らはひどく自然に二人だけの空間を作り上げていた。二人の動きは別に急いでいるというよりは、どちらかといえばゆっくりしていたのに、何一つ無駄なものはなかった。会話もほとんどなかった。ただの食事の準備なのに、まるでよく息の合った即興のバレエ・ダンスを見ているようだった。
クロスの掛けられたテーブルには、あっという間に三人分のスープとトーストとサラダが等間隔で並んだ。
「そういえば聞いてなかったわ」と七瀬がふと何かを思いついたように言って、わたしを見た。「サキコも食べるわよね?」
出来るならそうしたいとわたしは答えた。
「絶対に食べたほうがいい」ミキが笑いながら言った。「君は丸一日寝ていたんだ」
「丸一日?」とわたしは驚いた。
でも言われてみれば確かにひどい空腹感があった。それを自覚した途端、待ち構えていたように再び胃痛が訪れた。
それからわたしたちは席につき、わたしは勧められるままに、スプーンを取ってスープを食べた。それはとてもおいしく、眠り続けて冷え切った体に染み渡るように温かかった。
「どう、気分は?」
わたしがスープを半分ほど食べた頃、ミキが穏やかに尋ねた。その言葉に、家族を亡くしてしまったことを改めて思い出した。でも、やっぱり思ったほど寂しくはなかった。
「落ち着いています」とわたしは言った。「もう、たぶん平気です」
そうかいとミキは短く言って、それ以上二人は何も訊こうとはしなかった。事情も尋ねられなかったし、わたしへの同情の言葉もなかった。
でも、わたしにとってはそれが有難かった。わたしは自分自身の状況をそれほど悲惨だと思わなかったし、ましてや同情や哀れみを必要としていたわけでもなかった。立ち直るための手助けなんて必要ないのだ。
その思いはわたしを少しリラックスさせ、おかげでわたしは彼らに対する興味を再び大きくした。
それにしてもこのスープは非常に手が込んでいた。ブイヨンベースに、人参とマッシュルームとブロッコリーとベーコンが主な具材で、他にわかるだけでもガーリックやパセリが味を添えていた。
「このスープはミキが一人で作ったの?」とわたしは尋ねた。そうだよと彼は答えた。
「すごいね。こんなおいしくて手間のかかったものを食べたのは、本当に久しぶりです」
「そう言ってくれると嬉しいよ。でもほんとは、そんなに手が込んでないんだよ。レトルトのスープに、ちょっと手を加えただけだからね。ベーコンもマッシュルームも缶詰だよ」
「ううん、そういった意味じゃないんです」とわたしは言った。「あたしもこの町で暮らしているから分かるけれど、そのちょっとした手間を加えるのが大変ですよね。もちろん暖かくておいしいものを食べたいとは思うけど、それよりも空腹を満たすことだけで精一杯になってしまって」
「あまり褒められた食生活ではなかったようだね」
ミキが綺麗に焦げ目のついたトーストをちぎりながら、そう言った。
「缶詰にパックのご飯。あとはカロリーメイトにウィダーインゼリー、これが今の主食です」とわたしは答えた。「でも戦争が終わる前はもっと最悪でした。ビスケットと錆臭いお茶だけだったわ」
「まあ……」と七瀬がスプーンを持つ手を止めた。
「でも、それで十分だと思ってたんです。だってただ生きていただけだもの。本当に何もしていなかったんです。ただ生きるためなら、それで十分でしょ?」
「僕はそうは思わない。生きていくために必要なものは、もっとたくさんあると思う」
「人間として生きるためには、ってこと?」とわたしは尋ねた。
「人間として、というよりも、七瀬にとって」と彼は穏やかな口調で言った。「これが七瀬にとっては必要だし充分な食事なんだ。もちろんこれ以下でも命をつないでいくことは出来るけれど、それは生きていることとは少し違うんだ。それに、七瀬の子供にも悪い影響があるかもしれない」
七瀬の子供、という彼の言葉が引っかかって、わたしは七瀬を見た。二人の子供ではないのだろうか?
七瀬は食事の手を休めて指を組み、そこに視線を落としていた。
「じゃあなぜこの町にいるの?」ずっと気になっていたことをわたしは尋ねた。「ちゃんとしたものを求めるなら、もっと北へ行くか、西へ行って革命の終わった場所を探して暮らせばいいのに」
「七瀬がここを望んだからだよ。必要で充分な食事と同じくらいね。そして今もここにいることを望んでいる。そうだよね」
ミキの言葉に、七瀬が顔を上げた。わたしと目が合うと、彼女は「そうよ」と言った。
「戦争の中にいることが、七瀬には食事と同じくらい大事なの?」
「そういうわけじゃないよ」ミキが彼女の代わりに言った。
「でもそう見える。あたし、あなたたちに会ったのは昨日が最初じゃないの。あたし見たんだ。あなたたちが夜の戦場にいたのを。とても楽しそうに見えたんだ」
彼らはわたしの言葉に顔を見合せた。七瀬が黙って首を振り、ミキが困ったような表情で、「どう言えばいいかな」と言った。
「つまり、あの夜はそういう夜だったんだ」と彼は続けた。「でも誤解のないように言っておくけど、僕たちは戦場を楽しんでいたわけでも、戦場が好きなわけでもないんだ。七瀬が散歩に出たいと言って、そこでたまたま戦争をやっていただけなんだ」
「たまたま? でも、そこが戦場だって知っていたんでしょ?」
「もちろん戦争はそこにあった。けれどそれは七瀬が散歩をしたくなったこととは無関係な場所で起こっていたことなんだ。言ってる意味が分かるかい?」
「分からない」とわたしは首を振った。「戦場なのが分かっていて散歩をしたくなるなんて、とてもじゃないけど分からないよ。やっぱり戦争が好きなように思っちゃう。戦場が怖くないの?」
「怖いの?」と七瀬が、不思議そうな顔でわたしに尋ねた。その表情を見た瞬間、わたしの中にあの夜抱いた感情と似たものが再び湧き上がって胸を締め付けた、わたしはぎゅっと唇を噛み、スプーンを皿のふちに置いた。
「怖い」とわたしはなるだけ感情が表に出ないように抑揚を抑えた声で言った。「だって兵士たちに見つかったらどうなるか知ってる? あいつらの好きなように犯されて、好きなように殺されるんだ。そんなのは絶対嫌だよ」
「僕だって死ぬのは怖い」とミキは言った。「けれど隠れていたって、見つかって殺されるときは殺されるし、戦場にいたって、見つからないときは見つからない。だから、ただそれをあるがままに受け入れればいい。僕はそう七瀬に教わったんだ」
「教わった?」とわたしは二人を交互に見ながら言った。七瀬の表情からは何も読み取れず、ミキはただ一言そうだよと答えた。
「そうやってあなたたちはこの町に来たの?」わたしは質問を変えた。「そうやって、自分の望むほうに進んで、たまたま戦場だったこの町にやってきたの?」
「そうよ」と七瀬がようやく口を開いた。「わたしはそうやって、この町にきたの」
わたしはしばらく黙っていた。自分の感情をどう表現していいか分からなくて、一生懸命言葉を捜した。けれどそれはどれだけ探しても見つからず、考えれば考えるほど、どんどんと言いたいことと違う言葉が浮かんできた。仕方なくわたしはため息をついた。
「馬鹿馬鹿しいと思っているかい?」とミキが言った。
「そう思うべきなんだろうけれど、不思議とそうは思えないの」わたしは正直に言った。「ごめんなさい。ちょっと混乱していてうまく言えないけれど」
「いいのよ」と七瀬が微笑んだ。
「ところで」とわたしは尋ねた。「二人はいつからこの町にいるの?」
「僕たちがここに来たのは、だいたい一ヶ月前だよ。その前はもっと西にいたんだ」
「ずっと二人でいたの?」
「出会ってからはね」と彼は言った。あまり答えになっていなかったけれど、わたしはそれ以上訊かなかった。わたしは正直なところ、これ以上いろいろ尋ねてもうまく呑み込むことが出来なさそうだったのだ。
「さあ、食事に戻ろう。スープが冷めてしまう」とミキがわたしたちに言った。「ソクラテスですら、生きるために食べよといっているくらいなのだから」
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