第7話

 目が覚めても、意識は真っ暗な海に浮かんでいるように朦朧としていた。胃の痛みがまだ続いていて、それだけがサーチライトの一筋の光のように混沌とした意識を切り裂いていた。

 体は動かなかった。もしかしたら動かすことが出来たのかもしれないが、試してみる気にはなれなかった。わたしは横たわったまま、しばらくただぼんやりと天井を見つめていた。

 高い天井だった。むき出しの灰色をしたコンクリートからは、電気の消えたいくつかの長細い蛍光管が吊るされていた。どこかの窓から差し込んだ弱々しい太陽の光が、それにオレンジの影を落としていた。太陽がこれから昇るのか沈むのか、それとも知らない間に地球が自転をやめてしまっていて永遠にこのままなのかさえ、わたしにはよくわからなかった。

 遠くで鳥の鳴き声が聞こえた。そのたびに蛍光管の表面に微かに積もった埃が、小さく共鳴して震えているような気がした。

 どうやらわたしは、どこかの部屋の誰かのベッドに寝ているようだった。天井を見つめているだけのわたしにわかるのはそれだけだった。それともうひとつ、だいぶ憶測混じりだけれども、あまり飾り気のある部屋ではなさそうだった。かといって病室のように不快な空間というわけではなかった。

 わたしは、何でこんなところにいるんだろうかと考えていた。それでも不思議とここにいることに違和感はなかった。いつも目覚めた後に目にするヒビだらけの天井は何かの間違いで、祖父の古い家に帰ってきたような懐かしさを感じた。

 全身を体温と同じ温度の柔らかな毛布が包んでいて、それが意識をはっきりさせることを拒んでいた。どこまでが自分でどこまでが毛布かもわからなくて、自分が毛布の中に溶け出して混じり合っているようだった。

 もしかしたら死んだらこんな感じなんだろうか。わたしはぼんやりと思った。こんな風に魂が体から抜け出していくのなら、それも悪くない。そして徐々に冷えていく体温とともに、抜け出した魂はやがて世界中に薄く広がって消えてしまうのだ。

 けれど結局そんなことはなく、やがてわたしは意識がはっきりとしていくのを自覚するようになった。わたしはそれを少し惜しく思ったけれど、浮力を持ってしまったかのように覚醒へと向かう意識は止めようがなかった。

 わたしは諦めると、ため息をついて寝返りを打った。そこに、もうひとつベッドがあった。空っぽのベッドをしばらく見つめたあと、ようやくわたしはここがあの二人の部屋なんだと思い当たった。

 どうやらわたしはまるで幼児のように、いつの間にか泣き疲れて眠ってしまったらしかった。

 人前で泣くなんてとても久しぶりのことだった。昔からわたしは他の女の子たちがあたりまえにする、人前で泣いたりあからさまに怒ったり笑ったりといった感情を表に出すことがとても苦手で、そのせいで自分が何か損をしているような、あるいは何か欠陥を持って生まれてきたような気がしていた。でも自分にもあんな奔流のような感情を吐き出すことがあることを知って、なんとなく少し嬉しくなった。

 しかし、すぐにわたしはそうじゃないと思い直した。わたしは何かの感情を表したくて泣いたわけではないんだ。

 そもそも、わたしはあのとき悲しくはなかったんだ。家族のデスマスクを見てしまっても、わたしはショックは受けはしたけれど、別に悲しくはなかった。

 かといって子供がよくするように、注目を集めたかったわけでも同情を買いたかったわけでもなかった。じゃあなぜ泣いてしまったのか、一番近い言葉を探したが、ぴったりとした言葉は見つからなかった。強いて言えばそれはただの喪失感だった。それが引き波が砂をさらっていくように、わたしから何もかも奪っていこうとして、最後には涙を溢れさせたのだ。

 わたしは上半身を起こすと、部屋を見渡した。

 奇妙な部屋だった。わたしのマンションのリビングほどの円形の空間で、シンプルな家具がいくつか置かれているだけだった。

 わたしが寝かされていたベッドも、まったく飾り気のないベッドだった。大学生が一人暮らしを始めて最初に買うような、小さく粗末な木製のベッドだ。けれどマットレスは十分に柔らかく、毛布からはまだ微かに石鹸の匂いがした。

 眠る前まで着ていたスプリングコートやジーンズやニットや下着の類はどこにも見当たらず、たった一枚の真っ青な綿製のゆったりとしたワンピースのナイトウェアにわたしは着替えていた。

 彼らが汚れたわたしをここまで運んで、体を拭いて着替えさせてくれたのだ。服を脱がせたのはミキと七瀬のどっちだろうかと少し気になったが、まあどっちだっていいやと思い直した。変な悪戯をされたような気配はなかったし、洗い立ての匂いのするナイトウェアのボタンはしっかりと止まっていた。

 わたしは起き上がり、部屋の隅まで歩いていった。

 もともとは学校の理科室のように機能的にデザインされた部屋なんだろう。でもずいぶんと昔に造られたらしく、幾分か古びている。壁の大部分はただのコンクリートで、天井にもいくつもの配管や配線がむき出しになっていた。床板のコーティングもところどころ剥げてしまって、まるで年老いた雑種の犬の毛並みのように見えた。

 フェリーの船室にあるような小さい窓からは、真っ赤な夕日が差し込んで、それが部屋を朱に染めていた。部屋の真ん中には古い丸型の石油ストーブがあって、その上ではやかんが細長く小さな蒸気を上げていた。壁際にはスチール製の書棚が並べられていたけれど、そこにはまばらに本が納められているだけで、いくつかには彼らが役割を終えたことを示すように真っ白なシーツがかけられていた。

 でも夕日に照らされたそれらは決してみすぼらしくは見えず、使い込まれて磨り減った鉛筆を手にしたときのような親密さをわたしは感じた。

 きっと、この部屋で暮らす住人もその事を分かっているんだろう。部屋にはいくつもの生活用品や家具が持ち込まれていたけれど、一つとして派手で仰々しいものはなく、そのどれもこの部屋に敬意を払い、自己主張を控えているようだった。

 でも肝心の二人の姿は、部屋のどこにも見当たらなかった。

 彼らの姿を探してきょろきょろとしているうちに、この部屋にドアのようなものがないことにわたしは気がついた。

 代わりに部屋の隅に手すりで囲まれた小さな空間があって、階段が下へ降りていた。覗き込むと、昭和の市営住宅に使われているような古い金属製の扉が見えた。きっとそこが出入り口だろうとわたしは見当をつけたが、するとここは屋根裏部屋のような場所なんだろうか。そういえば窓も不自然に小さいし、部屋の形も円形なんてちょっと変わっている。

 そもそも、ここは一体どこなんだろうか。

 わたしは窓まで歩いていき、外の景色を見ようとした。まず見えたのは、背の低い錆び付いた鉄製の手すりの付いた小さなバルコニーだった。それが輪になって部屋を取り囲んでいた。景色は展望台から見下ろすように高く、その下に水平線まで続く海が広がっていた。

 反対側の窓からは、赤や黄色の紅葉に色づいた森と、夕日に赤く染まった白波が打ち寄せる砂浜を見下ろすことが出来た。森は海に拳を突き出したような岬となっていて、その先端にこの奇妙な建物は建っていた。違う窓からは見覚えのある山や、遠くにわたしの町の特徴ある工場の煙突も見えた。

 円筒を立てたような形の外壁は真っ白に塗られていて、わたしはようやく、この建物が灯台なんだと気が付いた。

 それと同時に、そういえば隣町にこんな灯台があったのをわたしは思い出した。確か昭和のはじめに建てられた灯台で、でもずいぶんと昔に灯台としての役割を終えて、その後は町がちょっとした博物館にしたり展望台にしていたのだけれど、例によってそれもうまくいかなくて今は廃墟となっているはずだった。

 そのせいでわたしは灯台に近づいてみようとさえ考え付かなくて、まさか中で人が暮らしているとは思いもよらなかった。

 ふとそのとき、背後で何か小さな音がしたような気がした。振り返ると、部屋の隅に七瀬が立っていた。彼女は丁寧に折りたたまれたわたしの服を抱え、どこか山奥でひっそりと咲く花のように佇んでいた。わたしは何らかの言葉をかけるべきだと思ったが、何も言葉にはならなかった。七瀬の視線はわたしを見ているようで、でも実際には彼女の瞳には何も映っていないような気がした。それよりもわたしは七瀬に見とれていた。彼女はなんて美しいんだろうとわたしは思った。胃の痛みがあったが、わたしはしばらくそれも忘れていた。

 その痛みをわたしが思い出すと同時に、七瀬はゆっくりと小さく微笑んだ。親愛な感情の込められた挨拶のかわりとしてはそれで十分だった。

 わたしも彼女と同じように微笑もうとしたが、もともと笑うことが得意じゃない上に、眠っている間に乾いた唇はうまく笑顔の形にはなってくれず不恰好につりあがっただけで、おまけにささくれを起こしてしまい口の中に血の味が広がった。その錆臭い生暖かさが、なぜだかひどく惨めに思えた。

 わたしは「いつからそこにいたの?」と尋ねた。

 ずっとここにいたと彼女は答えた。

 それは明らかに奇妙な答えだった。わたしはさっき部屋を見渡したが、そのときは誰一人としてこの部屋にはいなかった。でももしかしたら、起きたばかりのわたしは彼女のことを見落としたのかもしれない。自分では頭がはっきりとしていたつもりだったけれど、そんなこともあるのかもしれないとわたしは思った。

 それからわたしは介抱してくれたことと、ここに連れてきてくれたことの礼を言った。

「どういたしまして」と、相変らず穏やかな微笑を浮かべながら七瀬は言った。

 彼女はわたしに服を返し「着替えるでしょう?」と言った。「ええ」とわたしは答えた。服はスプリングコートにいたるまできちんと洗われ、アイロンをかけたように皺もなかった。

 わたしは、彼女がわたしが着替える間の配慮を、たとえば部屋を出て行ってくれたり、せめて後ろを向いていたりしてくれることを望んだ。けれど彼女はわたしに服を渡したあとは、そのまま部屋の隅に移動して、立てかけてあった木製の椅子のひとつを開くとそのうちの一つに座った。

 仕方なくわたしはベッドに服を置いて、ナイトウェアを脱いだ。 栄養不足で痩せた体と荒れた肌を晒しておくのが嫌で、わたしはなるだけ手早く服を着替えた。

 それでも着慣れて肌になじむ服は緊張を和らげてくれたし、体も少し身軽になった気がした。脱いだナイトウェアはなるだけ丁寧にたたんでベッドの上に置いたが、それでも皺だらけになってしまった。何をやってもうまくいかない。ふとそんなことを思った。

 着替え終わって七瀬を見ると、彼女はわたしが着替え始めたときと同じ姿勢で椅子に座っていた。わたしはそっちに行っていいかと尋ね、七瀬が「どうぞ」と言うと椅子を開いて七瀬の向かいに座った。

 けれど腰を下ろしてはみたものの、わたしは相変わらず何も話す話題を持ち合わせてはいなかった。七瀬も無理に何かを話そうとはせず、仕方なくわたしはしばらく彼女と無言で向き合った。

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