アローン

酒魅シュカ

第1話

 遠雷のような砲声に目を覚ますと、いつものように頬が濡れていた。寝転がったまま頬を拭うと、濡れた肌とざらついた感触が手のひらを擦った。

 寝返りをうって見上げた天井には壁紙の裂け目があり、その奥に覗く無数のひびの入ったマンションの躯体から、砕けたコンクリートが塵となって舞い落ちるのが見えた。眠っている間に何か大きな衝撃があったのだ。きっとまた、近くに砲弾でも落ちたんだろう。

 真っ白な塵はわたしの頬だけでなく、勉強机や吊るしっぱなしの制服や部屋一面に降り積もっていて、あたりはまるで何十年も捨て置かれたままの体育館の備品庫みたいだった。

 その光景がふと、曇りガラスを通したように翳んで滲む。いつの間にかまた涙が溢れていた。何故だかわからないけれど、朝はいつも泣いてしまう。

 でも、なぜ悲しいのかがわからない。悲しい事なんてひとつもないはずなのに。わたしはじっと天井の裂け目を眺めながら、悲しみの残滓が消えるのを待った。

 やがて、それが霜のように朝日の中に融けてしまうと、わたしは小さなため息をついてベッドから起き上がった。

 床に散らばった雑誌を踏みつけた足の下で、積もった塵の乾いたざらつきを感じた。片付けようかとちらりと思ったけれど、すぐに無駄だと思い直した。どうせ砲弾や爆弾はまたすぐ近くに落ちてそのたびに散らかるのだし、納まるべき本棚は倒れてしまって、一人では起こすこともできないのだ。

 台所で蛇口を捻ってやかんに水を溜め、カセットコンロでお湯を沸かす。

 沸騰するのを待っている間、わたしはラジオの充電をした。革命が始まった頃に母が買ってきたライトやサイレンの付いた防災用のラジオで、ダイナモに直結した小さなハンドルを回して充電する事が出来るのだ。

 やかんが沸騰すると、火を弱めてティーバッグを入れてそのまま何分か煮立てる。たぶん、屋上のタンクに水を汲み上げるポンプが故障しているせいだと思うのだけど、水道の水がすっかり錆び臭くなっていて、こうでもしないと飲めたものじゃないのだ。

 ラジオの充電を終えてスイッチを入れると、出力の低いスピーカーからは音の割れたインストゥメンタルが流れてくる。革命軍が兵士や分子たちの慰安のために、ロックやポップやクラシックのインストを放送しているのだ。今朝のメロディはジョン・レノンのイマジンだった。

 当たり前だけれど、別にわたしは革命のシンパというわけじゃないし、こんな退屈な番組じゃなく、きちんとDJがいてリスナーとささやかなコミュニケーションを取りながら進んでいくような放送を聴きたいと思っている。けれど、革命が始まる前まであったいくつかの放送局は、戦局が悪くなると一局ずつ枯れるように放送をやめてしまって、これしかチューニングが合わないのだ。

 やがてお茶が十分煮立つと、わたしはたっぷりの砂糖を入れ、朝食代わりのビスケットを齧った。かすかに湿気を含んだビスケットだけれど、ゆっくりと噛み砕いて味わって食べた。最近はいつも食事にはなるだけ時間をかけるようにしている。どうせ朝食を食べてしまえば、午前中の予定はそれで全部終わりだからだ。あとは昼になってお腹が空いたら、残ったお茶を飲みながらまたビスケットを食べるだけ。夜もほとんど同じ。一日中誰にも会わないし、ましてや誰とも話さない。外に出ることだってない。

 部屋の中はカーテンをずっと閉め切っているから昼間でも薄暗く、よどんだ空気にはわたしの体臭が染み付いていた。日が暮れればすぐにベッドに潜り込み、朝はなるだけ遅くまで眠っている。

 別に、眠るのが好きなわけじゃない。眠っていれば空腹や不安を感じなくて済むから、仕方なく眠っているだけなんだ。ただ食べて眠り、あとの空いた時間はラジオを聴きながら、小説や漫画を読んでいるだけの一日だ。その本だって楽しいから読んでいるわけじゃない。どれも何度も読み返してすっかり飽きてしまったけど、ネットもなければテレビもないので他にすることがないのだ。

 ずっとこんな生活が続いている。もうひと月以上誰とも話をしていない。戦争が始まってからずっと、わたしはこうやって一人きりで過ごしているんだ。

 けれど、こんな生活にも変化のようなものはある。まったくの穏やかな日々というわけじゃない。何しろ外は戦場なのだ。ほんのすぐ近所で激しい戦闘が起こる日だってあるし、夕立のように鳴り響く銃声や、雷鳴のようなジェット機のエンジン音で、心が潰されそうになることだってある。

 そんな日のわたしは、捕食者に怯える小動物のように息を潜めていた。明かりをつけることも、火を使うことも、ラジオをつける事も、かといって眠ることも出来ず、見たくもないのについ目が行ってしまう傷口のように、何度もカーテンの隙間から外の様子を窺ってしまう。

 そのたびにわたしは、町がもう自分のものじゃなくなったことを思い知らされた。大通りにはあれほど溢れていた自動車は一台もなく、かわりに戦車やトラックがアスファルトを砕きながら走っているのが見えた。あちこちで不吉を焚いたように真っ黒な煙が上がり、ときどき聞こえる悲鳴はまるでわたしに向けられた呪いみたいに聞こえた。

 兵士たちは空き家になったマンションやビルに我が物顔で入り込み、そこが彼らのために作られたトーチカのように振舞っていた。彼らは屋上やベランダの物陰から狙撃や観測や通信をし、あるいはそれを邪魔するために砲撃を加え、最後には爆弾を仕掛けて建物を粉々に砕いた。

 もちろん、このマンションも例外じゃなかった。彼らは空き家になった部屋に押し入っては幾日も居続け、戦闘が始まると怒鳴り散らしながらばたばたと廊下を走り回った。冷たい鉄筋コンクリートの躯体を通して、彼らのブーツの靴音や銃弾が外壁を穿つ硬い音は、わたしを鋭く打ち続けた。

 わたしはその間じゅうベッドに潜りこみ、体を震わせて涙を流し続けていた。そうやってずっとじっとしていると、思考までもがどこかに押し込められたように、同じ輪の中をぐるぐると回り続けた。考えることといえば、兵士たちに見つかったときのことばかりだった。革命軍はラジオを通して、彼らの兵士たちがいかに紳士的で、自衛隊の暴力から市民を護ってきたかを繰り返し宣伝していたけれど、わたしはそんなものを信用する気にはなれなかった。

 わたしは、兵士たちが一般人を躊躇いなく殺す姿や、気まぐれにレイプする姿や、あるいは家の中から引きずり出してトラックに詰め込んでどこかに連れ去っていく姿を、カーテンの奥から今までに何度も目にしてきたのだ。それは自衛隊であろうが革命軍であろうが違いはなく、相手が誰であろうと関係はなかった。

 きっとわたしだって、もし見付かれば同じ目に会うんだ。兵士たちはこの家の扉なんて一瞬で蹴破って、わたしをたやすく捕らえてしまうだろう。わたしがどんな抵抗を、たとえ命がけの抵抗をしたってかないっこない。彼らはちょっとかさばる荷物をたたんで小さくするくらいの手軽さで、わたしを殺すことができるのだ。銃声や手榴弾の爆音は町中に溢れかえっていたし、わたしを殺すには、そのうちのたった一つあれば十分なのだ。そしてわたしが殺されたって、あとには空っぽの家がひとつ増えるだけで、戦場は何一つ変わらずに戦争は続いていくんだ。

 そうなる前に、とわたしは思う。そうなる前に自分で死んでしまおうとわたしは決めていた。名前も知らない兵士たちに犯されて、名前もない銃弾に殺されるくらいなら、自殺したほうがよっぽどましだ。自殺にはわたしの決断がある。わたしの意志は尊重される。だから部屋のエアコンの吊り具からは、ベルトが輪になって下がっている。兵士たちがこの部屋に踏み込んできたら、迷わずわたしはここで首を吊るのだ。

 嘘だ。本当は、ちょっと迷うかもしれない。これまでだって、兵士たちが隣の部屋から狙撃を始めたときや、マンションに砲弾が落ちたとき、何度も死のうと思った。でも、わたしは死ねなかった。死ぬことが怖いわけじゃない。死ぬまでに訪れる痛みや恐怖が嫌なだけだ。だから、あとちょっと、ほんの少しでもひどい状況になったら死ぬんだと自分に言い聞かせながら、結局これまで生きてきたんだ。

 だからといって、わたしの決断がまったく無駄なわけじゃない。死はわたしにとって、欠かすことのできないお守りのようなものになっている。暴風が吹き荒ぶような激しい戦闘の夜に、わたしが発狂せずに生きていられるのは、いつでも死ぬことが出来るからだ。いつでもこの状況から逃げ出すことが出来る。そう思っているから、わたしは正気を保っていられる。そうでなければ、突然真空の真ん中に放り出されたような日々を、わたしはこれまで生きてこれはしなかっただろう。

 そしていつも、戦闘はわたしの決断など気にせずあるとき突然に終わり、わたしはまたただ生きるだけの日々に戻るのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る