克樹を好きになりたかった

岩月すみか

かけがえのない他人

 音楽スタジオの一室。床の上で克樹かつきはあぐらをかいていた。アコースティックギターを抱え、ポロポロと指先で弦を弾く。日頃の粗野な言動には似合わない、優しいアルペジオが部屋に響いた。俯いた彼の頭、脱色した髪のなかから小さなつむじがのぞいている。髪を染めるのは校則に反しているのに、克樹は何も気にせずブリーチをし、自分の髪から黒を抜き去った。


 あたしたちは幼馴染で、同じ高校に通い、ギターの弾き語りをしている。歌うのはあたし。弾くのは克樹。二人とも音楽が好きで、中学の時に克樹がギターを始めてから今まで続いている。あたしが歌い始めたら克樹がギターを弾き始め、克樹がギターを弾き始めたらあたしが歌いだす。付き合いが長いから、いまどんな気分でどんな音がほしいか、即興でやってもお互いなんとなく分かる。


 今の時代、SNSが大事や、と克樹が言うのであたしたちは半年前からオリジナル楽曲の動画配信を始めた。作詞はあたし。作曲は克樹。顔出しはせず、イラストが得意な知人に動画用の絵を描いてもらって投稿している。少しずつファンもつき、もう少ししたら円盤化やストリーミング配信もできるかも、というところまできている。


 ユニット名は『かつたま』。克樹とたまき。互いの名前を合わせただけの、単純な名前。二人とも年齢はおろか、性別も非公開で活動してるから、ファンであってもあたしたちの素顔は知らない。


 地声が低く、中性的なボーカルのあたしはファンの間で男だと噂されている。新曲を上げるたび、『イケボ』『まじかっけえ』『抱かれたい』など勝手気ままな感想がつき、スマホの通知がぽこん、ぽこんと鳴り響く。


「お前さ、俺と付き合わへん?」

「は?」


 ぎょっとしたあたしをよそに、克樹はギターネックへ視線を落としていた。弦の振動が指先から伝わって、彼の長いまつげが震えている。


「自分がなに言うとるか、わかっとる?」


 克樹はおお、と気楽な返事をした。


「あたしが女の子しか好きになれんの、知っとるやろ?」

「おお」

「なのになんで付き合うとか言うん?」

「言ったらあかんのけ?」


 アルペジオが止まった。弦から指を離した克樹が、ゆっくりと顔を上げる。


 自分の恋愛対象が同性であると知ったのは、小学生の時。あたしが同性愛者であることを知っているのは、克樹だけ。中学の時に打ち明けた。その時の克樹の反応が自然すぎたので、彼はあたしをそういうものとして受け入れたのだと思っていた。


「お前は女が好き。でも俺はお前が好き。そんだけの話や。なんもおかしなことあらへん」


 そういうと克樹は膝の上からギターを下ろした。床へアコースティックギターをごろんと寝かす。


「あたしがあんたをフッたらどうなんの? 『かつたま』解散?」

「どうもならんし解散もせん。俺が傷つくだけや」


 傷つく、と胸のなかで反芻する。

 克樹はあたしのことが好き。だから、あたしにフラれたら傷つく。

 彼はあぐらの上に頬杖をついた。傷つくと宣言した男とは思えないほど、ふてぶてしい態度で唇の端をあげる。


「物は試しや。一回くらい、俺と付きおうてみい。お前が嫌がることはせんて誓うから」


 絶対にお断りだ、と言おうとして躊躇する。二日後に待っている予定が脳裏をよぎった。

 お母さんの誕生日。お母さんはしょっちゅう、早く彼氏を連れてこい、とうるさく言う。


「……ええよ」

「は?」


 まさかオーケーされるとは思わなかったのだろう。克樹は目を丸くした。ただし、とあたしは片手をあげる。


「条件がある」

「お、おお。なんや。言うてみい」


 身構える克樹に、あたしは指を三本、立てた。


「あたしが嫌がることはしないこと。どっちかが嫌になったらぐだぐだせんとすぐ別れること。それから」


 克樹がごくん、と唾を飲み込んだ拍子に出っ張った喉仏が上下する。切れ長の三白眼が注意深くあたしを見つめ、緊張に揺れた。彼の瞳のなかには、同じく緊張した様子のあたしが映っている。髪が長くて色の白い、どこにでもいる女の子。


「明後日、うちに挨拶に来ること」


 克樹は首を捻った。が数秒後、あたしをじっと見つめたまま、おう、と頷いた。



     ※※※



 翌々日のお母さんの誕生日。克樹は本当にうちにやってきた。


「環さんとお付き合いをしています、八代克樹やしろかつきです。いつもお世話になっとります」


と玄関先で頭を下げる。お母さんはあたしと克樹を何度も見比べた。


「環、あんた、ほんとにかーくんと付き合っとるの?」


 恐る恐る尋ねられ、あたしは頷く。


「うん」


 みるみるうちに、お母さんの目に涙が浮かんだ。感動をこらえるように口元をおさえ、克樹の手をとって引き寄せる。


「どうぞ、あがってあがって!」


 お母さんは無理やり克樹を土間へあげると、喜び勇んで普段は出さないふかふかのスリッパを差し出した。克樹はぺこり、と頭を下げて「お邪魔します」と言ってスリッパを履く。

 いつもと違う、履き慣れないふかふかな感触に彼は戸惑っているようだった。普段はうちに来てもしまむらで買った一組100円のスリッパを出されているから、無理もない。お母さんは満面の笑みで克樹をリビングへと招く。


 いつもは雑然としているリビングも、今日はぴかぴかに磨きあげられていた。洗濯物の山がのっていたソファにはよれた下着の代わりに、柔らかいクッションが置かれている。

 お母さんは克樹を座らせると、いそいそと台所へと引っ込んだ。滅多に淹れない、高級な紅茶を用意しているのだろう。駅ビルで買ったショートケーキを金の装飾が施された皿に盛り、銀のカトラリーとティーカップを添えたトレーを持って、お母さんはあたしたちのもとへ戻ってきた。


 席につくなり、お母さんは克樹を質問攻めにした。


 娘のどこを好きになったのか。いつから好きだったのか。幼馴染としての時間が長いけれど、娘をちゃんと恋人として見ているのか。


 克樹はどの質問にもそれなりの回答をした。お母さんは目を輝かせ、時に笑い、時に涙ぐみながら彼の返事をきいた。香り高い紅茶が冷め、結婚にまで話が飛躍した辺りであたしが割って入り、「そろそろ遊び行ってくるわ」と告げて席を立つ。


 お母さんは玄関であたしたちを見送りながら克樹に「また来て、絶対やで」と念押しする。


「ほんまに今日はええ日やわ。一生分の親孝行してもろうた」


と、幸せそうに微笑んだ。



     ※※※



 克樹とあたしはコートを羽織って家を出た。しゅるり、と冷たい風が頬をきる。午後から新曲の打ち合わせをすることになっているが、スタジオの予約時間までまだ余裕がある。


 あたしたちは駅前の市をぶらつくことにした。地元では有名な市で、月に二回開催される。できたての惣菜からスーパーではみられない骨董品。中には障がいを抱える人が営む喫茶スペースなんかもあって、前は吃音を持つ大学生がつっかえつっかえ、不器用な笑みをたたえながら接客をしてくれた。


「なんやったん、あれ」


 ポケットに手を突っ込んでがに股であたしの隣を歩く克樹が尋ねてきた。あたしも同じようにがに股で歩き、人ごみを掻き分ける。


「うち、母子家庭なの知っとるやろ?」

「おお。父ちゃん浮気して離婚したんやんな」

「うん。お父さんの浮気相手、男やってん」


 克樹は何も言わなかった。


「お母さんがお父さんと別れたの、あたしが二歳の時でな。なんで別れたのか、あたしはよう分からんかって。小学三年生の時、同じクラスのみいちゃんが好きやってお母さんに言うたら、えらいことんなってん。叩かれた挙句にぼろくそ言われた」

「なんて言われたん?」

「『あんた、お父さんとおんなじ病気なん? 気色悪い。さっさと治しや』」

「今どき同性愛を病気なんちゅう奴おらんやろ」

「お母さんからしたら病気やねん。お父さんはどうしようもない病人のクズで、不倫した加害者で、お母さんは被害者。あたしもいずれ、誰かを傷つける加害者になると思いこんどる」

「あー……」


 何と言おうかと考えたものの何も言葉が出てこなかったようで、克樹は口を閉じた。


 あの時から、お母さんはあたしが男っぽい恰好や振る舞いをするたび、過剰に反応するようになった。髪は肩より下まで伸ばすこと。ズボンを履かないこと。爪は綺麗に整えること。女の子に向かって可愛い、なんて口にすればそれだけで烈火のごとく怒られた。


「あんたから付き合おう言われた時、思ってん。あんたを彼氏や言うて連れてったら、お母さん、喜ぶやろなて」

「ほーか」


 露店が近づくにつれ、賑わいも膨らむ。雑多な喧騒のなか、あたしは探していた。黄色い暖簾をつけた小さな屋台。暖簾には手書きでコロッケ、と書かれていて、店の前には小さい黒板が立てかけられている。


『視覚障がい者のコロッケ屋さん。時々形が崩れてしまうけれど、ごめんなさい』


 見つけた。あたしは駆け出した。


 屋台には二人の女性がいる。一人はお会計を担当しているおばさん、もう一人はコロッケをあげているあたしと同い年くらいの女の子。パチパチと油の爆ぜる心地よい音に交じって、香ばしい匂いが漂ってくる。おばさんはあたしが立てる足音に耳をそばだて、音の主を探すように視線をゆっくり動かした。


「こんにちは」


 声をかけると、おばさんは明後日の方向をみながら目じりに皺を寄せる。


「こんにちは。環さん」


 環、という名前に反応してか、コロッケをあげていた少女がこちらを見る。網じゃくしを油切り用のトレーに置いて、脇に立てかけていた杖をとる。とんとんと地面を杖で叩きながらこちらにやってきた。大きく黒い瞳にラインの整った鼻、桜色の唇に細い顎。艶やかで癖のない黒髪は一つに括られている。油跳ね用にベージュのエプロンを着た、あたしよりずっと小柄で、可愛らしい女の子。


「環さん。来てくれたの?」


 鈴が転がるような柔らかい高音。彼女の瞳は、あたしを探して宙を彷徨った。ここにおるよ、と叫びたい気持ちを抑えながらあたしは声を張り上げる。


佳菜子かなこちゃん、久しぶり」


 花が綻ぶように佳菜子ちゃんは笑った。


「いつもありがとう。今日はどれにする?」

「じゃあ、じゃがバタコロッケ」

「ふふ。環さんはいっつもそれやなあ」

「だってそれがいっちゃん美味しいもん」


 佳菜子ちゃんがくすくすと笑った。きゅううっと胸の奥がしびれ、多幸感に酔いながらあたしもそっと微笑み返す。


「前来た時、佳菜子ちゃんおらへんかったからどないしたんやろ思っててんけど、今日は会えてよかったわ」

「前も来てくれてたんや。ごめんな。病院行っとったから」

「病院?」


 うん、と佳菜子ちゃんは頷く。


「東京の病院。目の手術受けることになってん」

「目の手術って……」

「成功したら、見えるようになるんやて。やっと環さんの顔、見れるかもしれん。めっちゃ楽しみ」


 佳菜子ちゃんは蕩けるように頬を緩める。


「見えるようになったら、一番に環さんに会いに行くから」


 あたしはうん、と曖昧な返事をした。佳菜子ちゃんの代わりにコロッケをあげ終えたおばさんが、紙に包んだじゃがバタコロッケを持ってきてくれる。


 おばさんも佳菜子ちゃんも、全盲に近いほど視力が弱い。けれど料理もできるし商品の受け渡しもできる。杖で距離感を図り、手の感覚で物の位置を把握する。耳でたくさんの音を聞き分けて、何がどの方向にあるかを確かめる。コロッケのあがり具合も、油跳ねの音で分かるそうだ。


「120円ね」


 おばさんの声に「うん」と返し、財布から120円を取り出して自動精算機に入れた。ピピっと音がして、精算機が高速で何か言う。あたしが聞いても、何を言っているのかは分からないけれど、佳菜子ちゃんやおばさんは「120円ちょうどです」という機械の声を正確に聞き取ったようだった。おばさんは「毎度」と言った後、


「いつ聞いても、環さんの声は男前やねえ」


とうっとりする。佳菜子ちゃんも、頬を赤らめながらうんうんと、おばさんの言葉に同意した。あたしはなんと返していいか分からずうなじを掻く。


 すると突然、後ろからどん、とどつかれた。振り返ると不貞腐れたような顔をした克樹が、あたしをじっとりした目で睨んでいた。



     ※※※



 克樹の存在をすっかり忘れていたお詫びに、じゃがバタコロッケをもう一つ購入して分けてやる。駅前から少し離れた公園のベンチに座って、市の賑わいを遠巻きに眺めながら、あたしたちはコロッケを頬張る。


「佳菜子ちゃんはあたしのことを男やと思ってんねん。おばさんも」

「おばさんって佳菜子ちゃんの親戚かなんか?」

「ううん、視覚障がい者の自助グループの人」


 もうもうと立つ湯気ごとはむっと齧りつくと、バターの風味が口いっぱいに広がった。さくっとキツネ色に揚がった衣のなかに詰まったほくほくのポテト。相変わらずおいしい。


 克樹はうまいともまずいとも言わず、コロッケをもぐもぐと咀嚼する。


「お前、あん子のこと好きやろ」


 口から湯気を出しながら克樹が言った。


「好きやよ」


 あたしの口からも、ほくほくの湯気が出る。


「佳菜子ちゃんはお前のこと、どう思っとんねや」

「イケボの男前や思ってんちゃう?」

「あー……」

「佳菜子ちゃん、目見えるようになる思う?」

「知るかボケ」


 ばっさり切り捨て、克樹は食べ終わったコロッケの袋を握りつぶした。ベンチの背に深くもたれかかり、抜けるように青い空を見上げる。


「見えるようになったら、なんやっちゅうんや」


 克樹からの問いかけに、あたしは答えなかった。コロッケを頬張りながら俯いて、物思いに耽るふりをする。


「佳菜子ちゃんはお前に惚れとるんか?」

「分からへんけど、たぶん。手、繋いだことあるし」

「ああ⁉」


 背もたれから飛び起き、般若のような顔をする克樹がうるさくて、眉を寄せた。


「道案内するのにエスコートしただけやん。それに、あんたと付き合う前やったし、別にええやろ」

「それはそやけど。んだら俺とも繋ごうや」

「嫌や。気色悪い」

「なんでや。人生のエスコートしてくれ」

「一人で迷っとれ」


 ちっと舌打ちをする克樹。彼はまたベンチの背にもたれかかるとぼうっと空を眺めた。コロッケを食べ終えたあたしも、同じように背を預け、澄んだ空を見上げる。少しの間、二人で流れていく雲を見つめていた。


「佳菜子ちゃん、あたしが女でも付き合ってくれるやろか」

「知るかボケ」

「付き合ってくれんでもさ。恋愛対象として見てくれへんかな」

「知るかボケ」

「恋愛対象じゃなくてええからせめて、病気やと思わんといてほしい」

「……あー」


 克樹はぼりぼり、頭を掻いた。言葉を探して結局無言になる彼を横目に、あたしは小さく言った。


「正直、怖いわ。佳菜子ちゃんがあたしを見て、どう思うんか。想像するとぞっとする。一生佳菜子ちゃんの目、見えんきゃええのに」

「……ほーか」

「ちょっとええなと思っとった人がさ。実は女でレズビアンやったって知ったら、どうなるんやろか」

「んー……」

「あんたさ。あたしのこと好きって言うたやんか。あたしがもし本当は男でゲイやって分かったらさ、あんたはどうする?」

「あー……」


 克樹はあー、とかうー、とか、意味のない音を繰り返しては空を見上げ、頭を掻く。


「分からんけど、俺は今のお前が好きやから、お前が男でゲイやったら、好きになっとったかどうかは分からん。今のお前が好きやっていうことしか、俺にはよう分からん。やから、まあ、あー……」


 結論の出ない問いを前にして、克樹は成すすべなく口を閉じる。唸り続ける彼の隣であたしも想像した。


 克樹が女の子でレズビアンだったら、あたしは克樹を好きになっていたかもしれない。でも、女の子でレズビアンな克樹はこの世に存在しない。だから、実際のところどうなっていたかは分からない。女の子でレズビアンなあたしの横に座っているのは、男の子でヘテロな克樹だけで、レズビアンだと分かっていながらあたしに告白してくるような、ちょっとどうかしている幼馴染だ。そして今のあたしは、彼の好意を自分の都合のいいように利用している。


 お母さんから言われた言葉が蘇る。


――あんた、お父さんと同じ病気なん?


 ねえ、お母さん。あたしって、病気なん? 克樹はめっちゃ優しいし、いい奴やけど心がぴくりとも動かんねん。そんなことより今のあたしは、佳菜子ちゃんの目が見えてまうかもしれんことにこの上なく怯えとる。


「あんた、あたしのことどんくらい好きなん?」

「どんくらい……」


 克樹は少し考えてから、


「むちゃくちゃ好きや」


と真顔で答えた。せやったらさ、と言いかけて、やめようとして、結局言った。


「せやったらさ。あたしのお願い、きいてくれへん?」

「お願いって何?」

「佳菜子ちゃんの目、潰してきてや」


 克樹は一瞬、黙った。あー、とか、うー、とか意味のない声を発した後、


「そしたら俺のこと、好きになってくれるか?」


と尋ねてきた。


 あたしは何も考えずにうん、と答えた。答えてから、目が潰れた佳菜子ちゃんと、佳菜子ちゃんの目を潰した克樹のことを想像する。痛みに絶叫しながらぼろぼろ涙を流す佳菜子ちゃん。ナイフを持った克樹が刃先を血に染めながら、泣き崩れる彼女を見下ろしている。地獄みたいだ、と思う。


 克樹は言った。


「ええよ。潰したっても。そんでお前が俺を好きになるなら」


 驚いて肩が跳ねた。

 克樹を見る。彼はいつもと変わらない表情で空を見上げていた。出っ張った男らしい喉仏が、マフラーの下から覗いている。高い鼻にすっとした目元。同じクラスの女の子が、克樹のことをかっこいいと言っていた。クラスで一番タイプだ、と。克樹は本来、そういう男だ。あたしではない女を傍に置くことができる。なのに、そうしない。


「冗談や」


 そう言うと、克樹はまたあー、と意味のない音を発した。



     ※※※



 一か月が経ち、佳菜子ちゃんから連絡がきた。手術は成功したようだ。全盲の頃から音声サポートを駆使してスマホを使いこなしていた彼女だが、当時は使えなかった絵文字やスタンプがたくさんあしらわれたメッセージが喜びとともに送られてくる。ああ、本当に見えるようになったんや、とどこかぼうっとしながら返事を打った。


 あたしと克樹は『かつたま』の活動をしつつ、交際を続けていた。交際、といっても、手も繋がなければキスもしない。今までと何も変わらない関係に、恋人という実態の伴わない名前がついただけ。克樹は最初にした「あたしが嫌がることはしない」という条件を律儀に守りながら、あたしに愛想を尽かすこともなくただ傍にいて、ギターを弾いている。


 佳菜子ちゃんは『かつたま』の存在に気がついたようで、ボーカルの声があたしにそっくりだと興奮気味に伝えてきた。そっくりどころか、本当にあたしが歌っていると伝えると、


『環さん、すごく歌うまいんやね! めっちゃきゅんとした♡』


と無邪気なメッセージが届く。


 ありがとう、と返して遊ぶ約束を取りつけた。佳菜子ちゃんと会うことになった、と言うと克樹は「ほーか」と言ったきり、押し黙る。ギターを弾きながら時折、何か言いたげな視線をくれたが、彼は結局、何も言わない。



     ※※※



 約束の日。

 駅前で市が開かれる。

 佳菜子ちゃんのシフトの合間を縫って、あたしたちは会うことにした。佳菜子ちゃんは市から少し離れた噴水を待ち合わせの場所に指定した。カップルがよく使う待ち合わせスポット。佳菜子ちゃんも密かに憧れていたのだろう。噴水の前であたしを待つ彼女は、もう杖を持っていなかった。油跳ね対策のエプロンも着ておらず、フリルのついたワンピースにコートを羽織って、寒そうに手をすり合わせている。いつも一つに括られていた髪も、ハーフアップにし毛先をコテで巻いていた。時折、湧き出る噴水を見つめて眩しそうに、そっと目を細める彼女は満たされた表情をしている。


 あたしは噴水の十メートル手前で立ち止まって、彼女を見ていた。あたしの後ろには克樹がいる。さきほど『かつたま』の新曲動画を上げたのだが、克樹はぎりぎりまで編集作業に追われたせいで昼ごはんを食べ損ねていた。あたしを見送るついでにと、市で昼ご飯を買うからと言うので、ついてきたのだ。


「じゃ、俺はここで。あとはどうぞご自由に」


 克樹が片手をあげ、手を振った。うん、と頷いたあたしは、佳菜子ちゃんのもとへと行こうとした。


 でも、できなかった。


 どうしてか、ぴくりとも足が動かない。靴の裏を地面に縫いとめられたみたいに、その場から動けなくなる。


 早くいかなきゃ。佳菜子ちゃんが待っている。店に通う優しい男の子との運命的な出会いを期待して、彼女が待っている。早くいかなきゃ。行ってきっぱり言うのだ。あたしは本当は女で、今まで言い出すことができなかったけれど悪気があったわけではなくて、あたしはあなたのことが好きで、すごく好きで、会うたびに癒されて、付き合ってほしいとまでは望まないけれど気持ち悪いとは思ってほしくなくて、それで、それで……。


 焦れば焦るほど、体は強張った。


 いつまで経っても微動だにしないあたしを不審に思って、克樹が顔を覗きこんでくる。


「大丈夫か?」


 風が吹いて、舞い上がったあたしの髪が克樹の頬にかかった。毛先が目に入ったのか、彼は鬱陶しそうに目を細めたけれど、振り払おうとはしない。


「克樹、助けて」


 あたしを待っている佳菜子ちゃんの姿が滲む。膨れた涙はぼろりと頬を流れ、切ることすら許されない髪の上に雫が垂れた。


「克樹、お願い」


 彼があたしを見る。


「あたしのこと好きならあの子の目、潰してきて」


 克樹は黙っていた。

 少し経って、彼はそうっとあたしを抱きしめる。嗚咽も漏らさず、小刻みに震えながら泣くあたしの背中を、克樹はあやすようにぽんぽん叩く。


「うん」


 克樹の腕は温かく、撫でる手つきは優しく、あたしを抱きしめる腕はこれ以上ないほど柔らかい。

 なのに、あたしは悲しくてたまらなかった。佳菜子ちゃんの前に姿を現すことも、克樹の思いに応えることもできない自分が、情けなくて、最悪で、消えてしまいたくなるくらい嫌だった。


「潰してきてくれたらあんたのこと、大事にするから」

「うん」

「もう絶対、女の子が好きなんて言わへんし、好きにもならんし、お母さんに嫌な思いもさせへん」

「うん」

「あんたがあの子の目潰してくれたら、あたしは、あたしは」


 克樹を好きになれるだろうか。


 きっとなれない。


 だって、どんなに頑張っても、克樹と手を繋ぎたいとは思えない。キスをしたいと思えない。


 お母さん。これが病気なんやったらあたし、薬がほしい。普通の人とおんなじになれる薬が、克樹のことを好きになれる薬が。


 克樹があたしを抱きしめる。フローラルな香りがふわりと漂う。他人の家の柔軟剤の匂い。克樹の匂い。


「あの子の目潰したら、お前は俺のこと好きになってくれるか?」


 あたしは克樹を抱き返さなかった。頷くことも、返事をすることもできず、ただ涙だけがぼろぼろ零れる。


 あたしは克樹を好きになれない。たとえ、彼が佳菜子ちゃんの目を潰してくれても。


 ぽこん、ぽこん、とスマホの通知音が鳴っている。さっき上げた新曲の感想が届いているのだろう。その中にはいつも通り、あたしの声をかっこいいと褒めたたえ、あたしに理想の男を着せる、何も知らない女の子たちの声がはびこっている。


 克樹。


 あたしはあんたを好きになりたかった。


 でもなれなかった。


 あんたは男であたしは女で、あたしは女しか好きになれないから。あんたを好きになれれば、あたしは泣かずに済んだだろうか。


 誰にも傷つけられず、誰も傷つけることなく、互いを愛せる未来が、あたしたちにもあっただろうか。


 でも克樹。

 あんたはあたしにとってたった一人の、かけがえのない他人だ。替えのきかない、近くて遠い、唯一無二の男の子。


 それだけは誰に傷つけられたって、変わらない真実だと思いたい。

          

          (了)

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克樹を好きになりたかった 岩月すみか @iwatsuki_kisaragi

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