第9話


 初めての産婦人科は、ただ家から近いという理由だけで決めた病院だった。この地域の情報には疎いという自覚がある母は、仕事先でよくお勧めの病院やスーパー等を聞いていたのだが、さすがに自分に関係のない産婦人科までは情報収集をしていなかったようだ。

 通勤中に看板を見たことがあるというだけで受診したその病院は、最近出来たと思われる小綺麗な内装をしていた。淡い色合いの壁紙に柔らかい照明がよく合っている。オルゴール調の音楽が流れていて、どこか『おとぎの国』のような印象を受けた。

 受付の女性、そして看護師の女性と話したのは母だけだった。ナナはただ、渡された問診票に事実だけを記入していく。名前に年齢、職業に住所と連絡先。そして最終生理日と性交日。それら全ての『事実』を記入していく。

 職業の欄と性交日を記入する時、震える手を母が握ってくれた。声には出さない、母の『大丈夫』だという言葉が、手のひらから伝わってくるようだった。




 母に妊娠の事実を告げた時、ナナは絶望の海を航海する小舟のような気分だった。

 幼き頃より誠実という言葉を美徳としてナナを育てた母の考え的に、ナナの在学中の妊娠は正しく『悪』そのものとしか思えなかったからだ。

 ましてやイジメの末の性犯罪での妊娠だ。絶対に許されるものではない。だが、ナナは一般的には『加害者』とされるであろう『父親』となる相手のことは、どうしても守りたいと思っていた。だって、彼だってナナからしたら同じ被害者なのだから。

 だからこそ、絶対にその『事実』だけは隠し通さなければならなかった。実は付き合っていた相手がいて、しかし相手の迷惑となるからその名を言うことは出来ないと。愛のある行為の末の妊娠で、自分に後悔はないと伝えたのだ。

――うん。後悔は、ない。だって私は、母親だから。

 母に告げる数時間前までは、ナナの心は激しい絶望の中にいた。仮初の平和に胡坐をかきたいというのに、現実は常にナナに牙を剝いていた。

 ぎゅっと握り締めた手には、正しく悲しみと絶望しか収めていなかった。

 だが、そんなナナの目の前で、母は優しく微笑んだのだ。「どんなことがあっても、ママはナナの味方だからね」と、涙を流すナナの肩を抱いてくれた。不安な心をさらけ出して良いのだと、大きな愛で示してくれた。

 それこそが、母の愛であった。傷つき不安を抱いた娘を、どんなことがあっても護ると誓った。幼き頃こそ口に出して伝えていた『尊敬する母』の姿を、いつの間にかナナは日常の中に見失っていたのかもしれなかった。いつも隣にいてくれていたその存在が、とても大きく、そして頼もしい存在だと、いつの間にか忘れてしまっていたようだった。

 その理由はきっと、仕事に疲れた母の姿を見ていたから。心のどこかでナナは、母の重みにならないようにと、そのことばかり考えていた。

 だから、イジメの事実を告げられなくて。だから、学費の安い大学を目指した。だから、だから……

 母から貰ったこの『気持ち』を、これから生まれる命へ繋ぎたいと思えた。

「相手の子は? 同じ学校の男の子?」

「……そうだけど、言えない。彼にはちゃんと……大学に行って欲しいから。だから、別れて来た……」

 お腹に宿ったこの命を護る。それが母親となる自分にとって一番大事なことである。そして、それと同じくらい護らないといけない存在は、同じ『被害者』である中島のことだった。

 今でもあの悪夢のような一日のことは、忘れることなんて出来なくて夢にも何度も見ている。夜中に自分の呻きで目が覚めたことなんて、一度や二度の話ではない。いくら日中が仮初の平和だろうと、一人で眠る夜に訪れるのは『悪夢』以外の何物でもないのだ。

 組み敷かれるようにして縮こまる彼から零れる謝罪の言葉。それが今もナナの耳にこびりついて離れない。ずっとずっと、あの耳障りな笑い声と共に、悪魔と共にナナの記憶に居座っている。

「別れてって……あなた……本気?」

 言葉を失くしたように青くなる母親の顔が見ていられなくて、ナナは俯いて頷く。自分でもわかっている。この決断が現実的でも一般的でもないことぐらい。

「……ナナだけが……責任を取るって、決めたの?」

 暫く沈黙が続いてから、母はそう絞り出すようにして問い掛けて来た。

 責任を取るのは、ナナだけだ。あの悪魔には何のお咎めもない。

 きっと、あの悪魔に犯されていたとしたら、ナナもこんな決断は出来なかったと思う。あの悪魔の血を引いた子供等、いくら姿形が人間だろうがこの世に存在することを許すことは出来ない。あの悪魔が狡猾なところは、己の痕跡を残さないためにナナを直接犯さなかったことだが、そんなことをされていたら、ナナはきっと自ら腹を引き裂いていただろう。

 でも、今この腹に宿るのは、ナナと同じ境遇の血を分けた存在だった。

 それは愚かな同族意識かもしれないし、歪んだ同情だったのかもしれない。しかし、その感情は確かに、ナナに産みたいと思わせていたのだ。尊敬する母から貰った愛を、自分もどうか返したいと思ったのだ。学校内に味方は誰一人いないナナにとって、母が唯一の味方であったように、今この腹の中にいる赤ちゃんの唯一の味方は、紛れもなくナナだけなのだ。

「多分……私だけじゃ、取れない……でも、私は一人でも産みたい」

「……わかった。もう確定しているの? まだ検査もしていないなら、まずは産婦人科に行くわよ。それからのことは、確定してから考えましょう」

 ナナから視線を外すことなくそう言った母の声は、想像していたよりも柔らかかった。

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