最高の見返す方法は、幸せになることだ
けい
第1話
まるで、冷徹なる悪魔にでも殴られたような衝撃だった。
顔面に向かって一気にかけられたバケツの水が、想像以上の重みを伴ってナナの身体を濡らす。
掃除用具のバケツを横に振るようにしてかけられたので、水が固まったままぶち当たったからだろう。先程平手で叩かれた時よりも痛く感じる。それとも、叩かれていたから痛く感じたのだろうか。
「汚い顔、ちょっとは見れるようになったんちゃうー? ほんま感謝して欲しいわぁ」
ギャハハと笑いながらそう言ってこちらを見下してくるのは、クラスメートでいじめっ子ポジションでもある一人の女だ。下の名前なんて知りたくもなかった、それくらいの距離感なのに、彼女とその周りの人間達は、執拗に自分――星 ナナ(ホシ ナナ)のことをいじめてくるのだった。
今は掃除もホームルームも終わった放課後の時間帯。何の用事もない生徒達は早々に帰宅し、それを見届けた教師達も皆、職員室や部活へ引っ込んでいる。この場に留まっているのは、ナナに“用事”のある人間達だけ。
午後の日差しに照らされた教室内は不必要なまでに明るい。白のレースのカーテンが柔らかく風に揺れているその横で、ナナは複数のクラスメート達に囲まれていた。梅雨入りして間もなくの盆地の蒸し暑さは異常だったが、今のナナに流れている汗は冷や汗以外の何物でもない。
「……」
「ほんま、あんた何も言わんよなー。関東の人はみんなそんなにおもんないんー? ほら、おもろいことのひとつくらい言ってみいや!」
高校入学のタイミングで東京から父親の仕事の都合で引っ越して来たナナは、この地域の方言を話すことが出来ない。それが原因だったのか、それとも根暗な性格が災いしたせいかはわからない。とにかくナナは、高校三年生を迎えた現在、クラスメート達からのイジメの標的となっていた。
今のようにバケツの水をぶっかけられたのも初めてのことではない。今日のように水道で汲んで来た綺麗な水ならまだ良い。美術の授業の後で絵の具混じりの水を掛けられた時は大変だった。
それに、冬場にされては非常に困るこの行為も、今の時期ならまだギリギリ自然乾燥が間に合う。とにかく、学校で何が起ころうが、家に帰るまでにその痕跡が消えていれば問題ないのだ。
「レイナはほんまにこいつのこと嫌いよなー」
「うっさい。あんたはこんなやつでも女やからってちょっと甘いんちゃう? 穴があればエエって考え、リュウトくんだけで十分なんやけどー?」
「うっわこっわ。嫉妬すんなやー。俺が好きなんはレイナだけやでー」
「もー。あほー」
仁王立ちでナナを見下していた女――レイナという名前だと知っているのは、彼女が周囲に自分のことを下の名前で呼ぶことを強制しているためだ。なんでも、自分の苗字が可愛くない、というのが理由らしい――が、隣に立っている男に絡みつく。そのまま彼に甘えるレイナを見上げて、ナナはそれでも反応を返すことはしない。
だって、何をしても……何を言っても意味がないことを知っているから。
ナナへのイジメは何も今に始まったことではない。高校に入学した当初からなんとも運の悪いことに、ナナとレイナは三年間同じクラスだった。最初はレイナと、彼女の言いなりになっている気の弱い男女二人からだけの攻撃だったのだが、それにいつの間にか彼女と付き合い始めたこの男も加わるようになっていた。
イジメがエスカレートしたのは、この男が加わってからだ。それまでは小学生がするような、なんとも幼いやり口だった。具体的には無視や筆記具などを隠す、盗る。仲間外れにされるのは精神的に辛かったが、そもそもあまり親しい友人自体がいなかったので気にしないように振舞っていた。
クラスメート達も薄々この状態を勘づいてはいるのだろうが、表立った援護はない。それもそうだ。レイナだけの頃は女同士の小競り合いの延長みたいなもので済んでいたが、彼女の彼氏が加わってからというもの、誰も口を挟む者がいなくなったのだ。
レイナの彼氏は、不良仲間からも距離を取られるような“悪”だった。そもそもここは、世間からの体裁を気にする私立高校である。そのため、イジメという事実はない、というのが暗黙の了解だ。もちろんその暗黙には不良だって含まれている。
だから校内にも目に余るような不良はいないし、見た目が派手な連中も話せば案外普通だという人間ばかりだ。それなりに学力が高い高校なので、知性の低さが目立つような者は少ない――そう、少ないだけで存在はしていた。
人前にも関わらずベタベタと汚らわしいまでのディープキスに浸るレイナと彼氏。レイナはそれなりに成績も良かったはずなので、この行動は付き合った彼氏の影響だろう。ナナにしてみれば最悪な悪影響だが、当の本人達は本当に幸せそうにしている。
確かに二人の見た目はベストカップルに見えなくもない。派手な金髪――この学校は生徒の頭髪に関しては黙認している――を巻いているレイナは雑誌のモデルさんのように綺麗な顔で笑うし、彼氏の方も野球で鍛えた身体に赤色に染めた派手な髪が合っている。部活の方は怠け癖のせいで退部になったと聞いたが、身体能力自体は高いようだ。
ベチャベチャと汚らわしい水音を響かせる二人の後ろで、ナナのことを気の毒そうに見下す二人に目をやる。
この二人はこの高校入学前から仲の良い男女らしく、クラスメート達からもよくその仲のことを囃し立てられている。どうやらまだ付き合ってはいないらしいが、お互いに両想いなのはナナの目から見ても間違いなさそうだった。
ナナからすればこの二人だって、立派なレイナのイジメの犠牲者だ。大人しい性格でレイナの指示に依存気味なこの二人は、成績こそ真面目な点数を取っているが、あまりにも自分がないように思えた。レイナの後ろにいない限りは目立つようなこともないので、二人のことは下の名前すらナナは知らなかった。
どうやら入学早々、レイナに目をつけられて以来、ズルズルと共犯者にさせられているようだった。自分以外に仲の良い男女のことは癪に障るらしく、イジメの共犯以外にもいろいろとさせられているようだった。
「さー、今日は何して遊ぶー?」
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