第7話


 そこからはあまり、覚えていない。

 リン――“これから”のためにも、自分のことはそう“親し気”に呼んでくれと、本人から言われた――に手を引かれるようにして自宅になんとか帰り着いたナナは、彼女をリビングに待たせたまま風呂場へ直行した。

 レイプのために最初に脱がされていたことが幸いし、洗うことが面倒な制服には“汚れ”はついていない。下着も無事だ。忌まわしい残り香はナナの身体にしかついておらず、その根源もリンが学校で濡らしたハンカチであらかた拭き取ってくれている。対処の手慣れ方が尋常ではないと聞いたら、彼女はやや苦い顔をしながら「正直……違うグループと揉めたりしたら、たまにあるから……」と零していた。

 きゅっきゅとシャワーを全開にして、勢いに任せて全てを洗い流す。激しい水量によってどうか、この心にまで染み付いた憎しみが流れてしまえば良いのにと、本気でそう思った。自分でも信じられない程に、傍観者の立場であるリンに頼り切っている自覚がある。

 リビングで今も待つ、彼女は決して救世主ではない。彼女の立場は傍観者でしかない。だからこそ、中途半端に手を差し伸べ、ナナに事件のもみ消しを強要してくる。被害者であると声を上げろと、彼女の口から出ることはないのだ。

――アフターピル……今なら間に合う。

 つい先程までは処女だったが、ナナにだって性的な情報が回ってこないということはない。保健体育の授業で基本的なことは教わっているし、クラス内で漏れ聞く情報の断片やテレビや雑誌等の情報もある。だから、行為から確か……七十二時間以内だっただろうか。とにかく迅速に緊急避妊薬を処方して貰えれば、望まない妊娠の可能性はぐんと減るという知識はあった。だが……

――病院……婦人科なんて行ったら、絶対親と学校に連絡がいく……このことが公になったら……イジメがバレる……

 ナナはイジメの被害者だ。だが、それを果たして周りが証言してくれるだろうか? クラスメートは皆、ヒーロのことを恐れている。彼の暴力は日常的だが、今はその標的がナナや中島だけだからとクラスメート達は安心しているのだ。その矛先が告げ口した人間に向くのは、必然だろう。相手は、傍観者達だ。己の身に火の粉が降りかかることは避ける。それが傍観者で、彼等にとってイジメとは対岸の火事なのだ。

 それにいくら被害者だと言っても、『イジメ』というものは悪質で、被害者ですら悪であると取る人間が存在するという事実もある。彼等に言わせれば『イジメられる側にも問題がある』ので、『被害者も悪い』のだ。圧倒的な暴力を前に屈した人間を相手に、彼等は平気でそう口にする。そんな人間が紛れているであろうオトナ達に言ったところで、この事態が解決するとは思えない。

 それに……何より問題なのは、ナナの家族だった。

 ナナには現在、母親しか身内がいない。遠く離れた親戚や祖父母はいるにはいるが、死別した父親が生前転勤するためにこの地に付いてきただけの母親には、周りに力になってくれる人間がいない。中途半端な時期での引っ越しを避けてくれたのは母親の優しさだった。今から思えばなんであの時素直に打ち明けなかったのかと悔やまれる。母親は中途半端に高校を転校するくらいなら、ナナの負担にならないようにと大学卒業まではこの地で女手ひとつで支えると言ってくれたのだ。

「……ごめんなさい……」

 口から流れるのは、懺悔の言葉。自分のために慣れない土地での生活を強いて、そのくせ……そのくせ自分はその恩義に準ずることが、きっと……出来そうにない。

 そう、出来そうにないのだ。ナナには、このイジメを告発する勇気が、なかった。

 いや、『勇ましい気持ち』ならばまだ……死んでいないと誓って言える。強大なる暴力に学校生活において屈しはしたが、その心まで打ち砕かれたナナではない。

――この場は、どうにか『治める』。それが、私の進学への唯一の道。

 保健体育の授業で習った妊娠確率は、一回の性交で約三割。健康な男女での確率と書いてあったが、若い自分達ならば該当しているはず。その『一回』というのが文字通りの回数なのか、一度に複数回の射精でも一回となるのかはわからないが。

 どこか冷静過ぎる頭でそこまで考えて、あとは無心に身体を洗った。ぬるりとした感触はもう拭き取った後だったが、鼻につく香りとあのおぞましいまでの感触は、ずっと身体に残っているように思えた。だが……それはなにも、犯した相手の中島に対しての増悪ではなかった。

 ナナの憎悪は『加害者』にしか向けられていない。ナナの脳に刻み込まれたあの……悪魔のような笑い声の主。どう育てばああいう発想が生まれるのか、ナナには一生理解することが出来ないだろう。あれはもう、人間じゃない。

 そしてそれとは反対に、心に刻まれた中島の謝罪。嗚咽に塗れ懇願し、そして――ナナに対しての罪の意識。それらを全て落とし込んだ小さな小さな謝罪の声が、ずっとずっとナナの心に落とされていたのだ。目から零れる雫と共に、文字通り搾り取られた白濁と共に。

――中島くんも、進路決まってるのかな……

 クラスの中でも目立たないタイプ。むしろ自分と同じでイジメられていた人間だったが、彼は確か学力が高かったはずだ。学力テストで彼の名前がナナと共に張り出されていたことが何度もあったことを思い出し、きっとそんな人間ならば既に進路が決まっているだろうと考える。つまり、この出来事が露見するのは、彼にとってもマイナスというわけだ。

――うん。やっぱり……言えない。ううん……言わない。

 決意と共にシャワーを止めた。リビングから、傍観者の気配は感じない。被害者の家のリビングで大人しく待てる彼女の肝の座り方は、寧ろ尊敬に値する。ナナにもそれくらいの度胸があれば、イジメられることはなかったのだろうか。

「……お疲れ。気分はどう? 大丈夫?」

 脱衣所で雫を拭き取り普段から部屋着にしているジャージに着替えてからリビングへと向かったナナに、案内した当初となんら変わらず椅子に腰掛けたままのリンがそう声を掛けて来た。

 暇をつぶすもののない他人様のリビングにて、テレビもつけずに待っていた彼女の心の中を想像して、その冷徹さに小さな恐怖を抱いてしまった。彼女は傍観者であり、見張りである。そしてもう一つ……彼女は“これから”はナナの“友人”となるのだ。

「うん……もう、落ち着いた……」

「そっか……なら、私は今日は帰るけど、今夜はもう、出歩かんときや? んで、明日は、どうする? 学校、休む?」

「ううん……行く。絶対……」

「わかった。なら、迎えに来るわ」

 リンはそう言って玄関へと向かう。リビングは玄関から一番近い間取りなので、ナナもそのまま彼女を見送るためについていく。

 彼女はナナをヒーロの追撃から守るために、明日から友人を演じてくれるつもりなのだ。クラス内にて孤立していた――元を辿ればイジメのせいなのだが――ナナを、己のグループに囲うことで、違うグループからの攻撃から守るつもりなのだろう。

 そうすることで周囲には『イジメなんてものはない』と認識され、尚且つヒーロとレイナもこれ以上手を出すことが困難になる。リンを含めた三人組は、クラス内での地位も高く、教師達からの信頼も厚い。更にあの男二人は暴力沙汰にもめっぽう強いという噂もある。中島への攻撃は続くかもしれないが、今回の件でヒーロ自身、動きにくくはなったはずだ。もしかしたら、確かに……クラス内から『イジメ』はなくなるかもしれなかった。

 片手をひらひらと振って玄関から出て行った彼女の姿が一瞬、忌まわしい悪魔の姿とダブった。

「っ……」

 力任せに扉を閉めて、溢れ出した激情を嗚咽に変えて吐き出した。

――絶対に許さない! 絶対に……絶対に……

 握った拳を振り下ろす相手は決まっている。地獄に落ちて欲しい相手は、二年前から変わっていない。だが……

「……平常心、平常心……何もなかったように、振舞う……」

 言葉に出してそう、意識する。リビングに戻って時計を確認する。あと一時間もすれば母親が帰って来るだろう。いつものように夕飯を作りたいところだが、今日は昨日の残り物で我慢して貰おう。

 こんなところで綻びを露呈するわけにはいかなかった。せっかく勝ち取れるであろう進学への道を投げ捨てることが、ナナにはどうしても出来なかった。

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