第8話


 ナナが身体の不調を感じたのは、それから一か月程経った頃だった。

 精神的な不調ではない。何故なら、あれからナナを取り巻く環境は劇的に良くなったから。

 クラスの中心、とまではいかなくても所謂スクールカースト上位勢であるリン達と一緒に行動するだけで、今まで遠巻きに見ているだけだったクラスメート達が、まるでこれまでのことは嘘だったかのように話し掛けて来るのだった。流石にこの手のひら返しにはナナだけでなくリンも失笑していた。

 その様子をなんとも憎々し気に見て来る二対の視線は気にはなったが、それでもこれまでの学校生活を考えたらお釣りがくるくらいに平穏な日々を過ごすことが出来た。休み時間が来ることが億劫ではない日々は、ナナにとってはこの学校では初めてのことだ。

 そんな『絶好調』とも言えるような環境で、ナナの身体にはある“前兆”が現れていたのだ。

 まずは微熱。騒ぐ程の高熱ではないが、少しだけ……気怠い微熱。そして眠気と吐き気が少しだけ。どれも我慢出来ない程ではないが、どこか普段と違うと感じさせる“何か”を強く発していた。

 その“何か”が何を示しているのかを、ナナは心の中で薄っすらと気付いていたのだった。

 だって――生理が来ないから。

 その前兆が何を意味しているかなんて、ナナにだってわかってはいる。だが、頭ではわかっていても、心が否定しているのだ。そんなはずはないと。あれは、たった一度の出来事だと。

 不調を感じるのは確かだが、我慢出来ない程ではないのだ。ドラマや漫画で語られるような、とてつもない吐き気はないし、お腹だって大きくなっていない。だから、だから……

 違和感を感じる身体のことは、自身のことながら蓋をして、仮初の平和を手に入れた学園生活を送る。

 部活もバイトもしていないナナは、学校が終わったら真っ直ぐ家に帰宅する。あれから毎日リンが登下校中は一緒にいてくれるが、彼女が放課後の遊びにナナを誘うことはなかった。翌日学校にて話す彼女の口ぶりから、ナナを送り届けた後はいつもの三人組でどこかに遊びに行っているのは明白だと言うのに。

 今日もそんなモヤモヤを胸に帰宅したナナは、いつものように仕事帰りの母親のために晩御飯の用意を始めた。

 学校のことはもう、何も問題はない。成績も特にかじりついて勉強しなくても維持出来るし、あとは出席さえ大丈夫ならば卒業は確実。おまけにナナの場合、進路も確実視されている。言うなれば、順風満帆というやつだ。

 制服から部屋着に着替えてしまってから、米を洗って炊飯器をオンにする。そして、その焚き時間を利用しておかずの用意を始める。いつもの手順。いつも通り。そんないつもの時間が一時間も経てば、母親が帰宅する時間となる。

「ただいまー」

 いつもの陽気な母親の声。家で自分の帰りを待っている愛娘の笑顔を信じてやまない、尊敬する母親の声だ。本当に大切で、絶対に……絶対に迷惑も心配も掛けたくない存在。この不調は、絶対に……バレてはならない。

「お帰りなさい。もうご飯出来てるよ」

「いつもありがとうね。もうお腹ペコペコ」

 いつものように母はそう言ってリビングのテーブルに座る。いつかの、リンが座ったのと同じ席だった。何故か今になってその場面が鮮明に脳裏に蘇る。

 あれから一か月の時が流れたが、このリビングの光景は大して変わらない。家族三人で寄り添って生きて行こうと選んだそれなりの築年数のアパートの一室は、狭いながらもそれ故に家計に優しい優良物件だった。

 量販店で買った何の変哲もない家具達が並ぶ中、傍観者である彼女は感情の籠らない瞳でただ、座っていた。その口は控えめにナナの身体を気遣う言葉を垂れ流していたが、それ以上に瞳が語る『厄介者』という色合いは、そんな偽善を軽々と打ち砕いていた。そして彼女自身、その瞳の色合いを隠すつもりもないようだった。

 地域色のとても強い学内とは異なり、この家の中では聞き慣れた標準語のイントネーションで会話が交わされる。ナナにとっての故郷の言葉で、そして……変に心を掻き毟られない『平穏』の音色だ。

「ご飯ももうすぐ炊けるから……待ってて」

 上着を脱いで席に早々に座った母に笑いながら、ナナはそう言って炊飯器へと向かう。手にしゃもじと母用のお茶碗――亡き父との夫婦茶碗を、母は今も大切に使用している――を持って、炊飯器のデジタル表示を確認する。うん、もう炊けている。先程アラームが鳴っていたので当たり前だが、ちゃんと炊きあがっているか確認はいつもしていた。

 今日も美味しい白米を母にご馳走するために、ナナは炊飯器の蓋を開けて、そして――

「――っ! うっ……」

 炊飯器から沸き上がったむっとした蒸気。普段はなんとも思わない、寧ろ美味しそうな香りだと思っていた蒸気に、ナナは尋常ではない吐き気を覚えた。空腹に近い胃から何か出るはずもないのに、ただただ吐き気が押し寄せる。手に持っていたしゃもじと茶碗をなんとかテーブルに避難させて、ナナは慌てて流しへと移動する。

「どうしたの!? ナナ?」

 心配した母親が慌てて立ち上がりナナの傍まで来て背中を摩ってくれる。突然娘が流しで苦しがっているのだから当たり前だ。心配と困惑でいっぱいになった母の目を一瞬視界に捉え、ナナはその事実を確信した。

――駄目だ。妊娠してる。きっと、確実に。

 まだ検査もしていない。だから確定ではない。でも、この不調は紛れもなく妊娠の兆候だった。

「……なにか、隠してることがあるんじゃない?」

 相当顔色が悪かったのだろう。ナナの尋常ではない異変を、母は敏感に感じ取っていた。それは母親の勘なのか、それとも同じ女としての嗅覚なのか……とにかく母は……目の前の母の瞳には、生半可な誤魔化しは通用しそうになくて……

 匂いの元である炊飯器の蓋を、母は何も言わずに閉めてくれた。それによって幾分か吐き気がマシになった気がした。どうやら匂いが駄目だったらしい。本格的に悪阻の症状が出てきているようだった。

 まだ酸っぱいものが残る口元を水ですすいでから、ナナは意を決して真実を告げる覚悟を決める。

「……私……妊娠したかも……」

 ぎゅっと拳を握り締めて伝えたナナの言葉に、母はすっとその目を細めた。

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