第10話
そして今だ。
ナナは生まれて初めての産婦人科の待合室でソワソワしながら診察を待ち、これまた生まれて初めての検診を受けて、正常に妊娠が継続しているということを医師から告げられた。
保健体育の教科書程度の知識しかなかったナナは知らなかったが、異所性妊娠や妊娠初期での流産等、想像以上に母子を襲う危険は高い確率で起こりえるものらしい。それをなんとかくぐり抜けて、ナナの腹の中ではひとつの命が力強く生きているのだった。
「当院では中絶手術の際にはお相手の男性の同意が必要ですが、分娩希望の場合は同意は必要ではありません。ですのでお嬢様の意思だけで決断することが出来ます」
極度に患者に寄り添うわけでも、反対に突き放すわけでもない、淡々とした医師の言葉に、ナナはぐっと力を込めて頷いた。本当はもっとしっかりと、堂々とした態度で伝えたかった言葉だったが、小さく絞り出すようにして「私は……産みたいです」とだけ伝えることが出来た。
一緒に診察室に入っていた母は、ナナの後ろに控えたまま何も言わない。否定も、反対もなかった。それを暫く確認する気配があり、やがて医師が口を開く。
「それでは定期的に検診に来て下さい。市町村で受けられる支援に関しての書類は看護師の方からお渡しします。学校が終わってからの夜の枠に予約を入れておきますので、次は二週間後になりますね」
あくまで最後まで淡々とした態度を崩さなかった医師に頭を下げて、ナナは母と共に待合室へと戻った。
書類の説明と会計を済ませて、親子二人で家まで歩く。妊婦に自転車なんて運転させられないと母があまりに強く言うので、ナナも大人しく忠告に従った。人生の先輩である母は、もちろん妊婦としても先輩なのだから当然だった。
「まだ豆みたいに小さかったね。ナナに似て可愛い子だったわ」
沈黙ばかりが続くだろうと覚悟していたナナを裏切るように、母はそう言って明るく笑った。笑ってくれた。
「どうだった? 愛しい我が子の顔は?」
「想像なんかよりよっぽど小さくて、でも……『愛しい存在』って、実感出来た」
意地悪気にそうナナの顔を覗き込んでくる母に少し照れくさく感じながら、それでも本心を告げることが出来た。噓偽りなく『本心』を伝えられるのは、“あの日”以来初めてで。
これまではただ漠然とした『妊娠』という現象に対しての不安だったり恐怖だったり愛情だったりしたものが、今日の検査で愛しい我が子へと変わったのだ。豆粒のような点を見せられて、そんな小さな小さな影からも元気に育っているという息吹を感じるのだった。
「産むのね? 一人で」
「……うん」
「ふふ……お父さんにも見せたかったわね。孫の顔。きっと……最初は怒るだろうけど、でも……ナナが産むって決めたなら、私“達”は出来る限りの協力をする」
「ママ……ありがとう……ごめんなさい、大学に行けなくて……」
一度流れ出してしまえば止まらないもので、ナナは既に瞳から零れる雫が止められないでいた。そんなナナの頭を撫でながら、母は小さく息を吐く。
「……それが問題なのよね。ナナの目指していた大学って、二年生の時の三者面談の時に担任の先生から聞いたけど、ナナしか多分受からないだろうって太鼓判を押されていたのよ。そんな大学を蹴るって学校に言ったら、多分学校側も進学率への影響を懸念すると思うの。それを突き通すには、それだけの理由を説明しなくちゃいけない。でも……正直に妊娠したなんて伝えたら、絶対に相手の男の子にも連絡がいくわ。それだと……ナナは、困るんでしょ?」
「……うん。私が、困る。きっと、彼がこの妊娠を知ったら……大学なんて行かずに責任を取る人だと思うから……だから……っ」
きっと中島は迷惑だなんて思わない。何故かそう確信していた。不本意ながらも身体を交わした故の絆か、はたまた女の勘というやつなのか。とにかくナナには、父親と呼べる存在である中島が、この妊娠を迷惑がるとは思えなかったのだ。寧ろ目指している大学への受験なんて、簡単に蹴ってしまうようにしか思えない。
――それは駄目……被害者同士の傷の舐め合いみたいなこと、彼にはさせたくない。
「……なら、引っ越しましょっか」
「へ?」
言い淀んでいたナナの気持ちなんて、母親はとっくに理解しているのかもしれない。
それくらいあっけらかんと、母はそう言ってくれた。
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